「進道 進」Ⅴ
「君は異常だよ。」
昔、世里奈と出会ったばかりの頃、そう言われた覚えがある。あの時の空気、漂っていた煙草の匂い、夜更けの湿った空気の冷たさまで、今でも妙に鮮明に思い出せる。薄暗い部屋の壁には古びたカーテンが垂れ、風に揺れるたびに微かに埃が舞った。窓の外には街灯の光がぼんやりと差し込み、室内の影をゆらゆらと揺らしていた。
「私は、今まで数多くの殺し屋と呼ばれる人間を雇い、見てきたよ。殺人を快楽とした奴もいれば、どうしようもない理由があって殺しを生業にした奴もいた。」
世里奈の声は低く落ち着き、聞く者の心に沈み込むような説得力があった。その語り口には嘲笑や軽蔑がなく、ただ事実を淡々と述べる冷静さがあった。だが、俺はその時、彼女の言葉に耳を傾けるというより、目の前にいる女の姿をなんとなく観察していた。光を反射する黒い瞳、少し尖った顎、長い指が絡まるように膝に置かれた手。目の動き一つで、どれだけ鋭敏に周囲を見ているかが分かる。
本人を前にしても、俺は彼女の胸元を見ても退屈し、結局は天井を見上げていた。場末の安っぽい宿屋の天井。薄汚れた木目には、小さな染みや黒ずんだ斑点がいくつも残っており、古い蛍光灯の光に照らされて妙に目立っていた。埃っぽい空気が鼻をくすぐる。
「でも、君はどれとも違う。」
その言葉とともに、世里奈の黒い瞳が鋭く俺を縛り付ける。まるで動きを封じる鎖のようで、俺の目は逃げ場を失った。
「殺しに快楽を求めるわけでもなく、特別な理由があるわけでもない。家族を大事に思い、死者を悼む気持ちを持っている。普通に社会に溶け込める人間だ。」
彼女の言葉はひとつひとつが重く、胸の奥にずしりと落ちる感覚があった。そこには皮肉も感情的な非難もなく、ただ事実を確認するような静かな声色だった。
世里奈の瞳は一度も俺から離れない。
「普通の社会人なら、気が狂ってもおかしくないことを君はやっている。けれど君は狂わず、目を背けず、人を殺している。」
断言するような響き。再び、彼女はゆっくりと確認するように声を重ねる。
「君は異常だよ。」
確かにそうかもしれない、と俺は思った。だが、自分が異常かどうかを考えることに意味を感じなかった。判断する必要すらない、と心のどこかで思っていた。
……初めて人を殺したのは、いつだっただろうか。正確には覚えていない。記憶の奥底に沈んでいて、無理に思い出そうとすると靄がかかる。確か過失だった気がする。自分から望んでやったわけではなく、偶然と運の悪さ、判断の遅れが重なった結果だった。
一度その境界を踏み越えると、人は戻れない。誰かの首を絞め、誰かの骨を折り、誰かの命を奪った瞬間。世界は変わり、日常は壊れ、戻る場所はなくなる。
記憶の底から、音だけが鮮明に蘇る。
ピッチャッ……と足元で血が滴る音。耳にまとわりつく湿った響き。天井に跳ねた血が落ちる瞬間の、赤黒く光る液体の動き。生暖かい匂いが空気を満たし、吐き気に近い感覚が喉に込み上げる。それでも、目は逸らさなかった。逸らせば、自分が壊れると直感で分かっていたからだ。
人を殺した瞬間に「自分は変わった」と感じる者は多い。だが俺の場合、劇的な感覚はなく、ただ静かに受け入れるだけだった。
だから世里奈は俺を「異常」と言ったのだろう。快楽も罪悪感も正義も存在しない。ただ事実としての「殺し」。その中で、俺は呼吸し、飯を食い、日常を続けていた。
(……こんなもんか。)




