「645メートル上空で」Ⅳ
俺の首を掴んでいない方のイーゴリの腕が、不自然にうねったように見えた。波打つように形を変え、次の瞬間には腕は白い蔓状の構造へと姿を変貌させている。まるで生き物のように脈動しながら、とぐろを巻き、迫り来るショットガンの弾を螺旋の盾として受けきった。
ショットガンの火花が弾けるたび、蔓の表面に波紋のような振動が走り、弾丸が吸い込まれるように消えていく。
(……この光景、知ってる。あの遊園地で見た黒い悪魔、人型兵器と同じだ。)
咄嗟に頭の中で警告が鳴る。あの時の悪夢が、今こうして目の前で再現されている。いや、むしろ精度も速度も、あの時より数段上がっている。まるで、進化して戻ってきたようだ。
それを見た俺は、ただ静かに震える思考の中でそう判断した。
「少し、大人しくしたまえ。」
イーゴリの声は、感情という概念が欠落したような、冷え切った音だった。
白い蔓が蛇のようにしなり、鋭く空気を裂きながら世里奈へ襲い掛かる。
「……っ!」
世里奈は床を蹴ってギリギリで身を翻し、その一撃を紙一重で避ける。頬の横を高速で通り過ぎた刃が空気を裂き、音が響く。
だが――
シャコン。
蔓の表面が微かに脈動し、薔薇の棘を巨大化させたような刃が無数に飛び出す。そのうち一本が蛇腹の動きで世里奈の喉元へ突き刺さる寸前、恐ろしいほどの制御力でぴたりと停止した。
刃先は、世里奈の肌からほんの数ミリ。
「少しでも動いたら、お嬢さん。あの世に逝くことになるよ。」
平然と、淡々と、脅しですらなく事実を告げる口調で言い放つ。
「せ、世里奈っ!」
俺は必死に首を掴むイーゴリの手首を両手で掴むが、その握力はまるで鉄塊のようで指一本すら動かない。苦し紛れに体を揺らし、振り子の原理で脚を持ち上げて蹴りつけるも、何の反応も得られなかった。まるで、蹴ったのが空気だったかのようだ。
「では、続け――ペッ!」
イーゴリが俺の方へ顔を向け、口の形が僅かに動いた瞬間。
キィン!
ボウガンの矢が鋭い音を残しながら飛来し、イーゴリの頭部へ直撃した。だが、弾け飛んだのはイーゴリではなく矢の方だ。硬質な何かに当たったように砕け散る。
「……。」
イーゴリは首を小さく傾けただけで、無言のまま矢の飛んできた方向を見る。
そこには、先ほどまで壁に磔にされていた女がいた。両手足にはまだ深い穴が開いたままで、掌や足から血をぽたぽたと床へ落としながらも、痛みを顔に出すことはない。ふらつく身体を無理やり支え、意思だけが動いているように、静かにボウガンを構え冷静に人型兵器を捉え、外すことなく次々とイーゴリのつるりとした顔面へ矢を撃ち込む。
「……フン。」
ブワッ。
イーゴリの短い一声とともに、白い人型兵器の肩甲骨あたりから翼が裂けるように生えた。瞬間、部屋の空気が急激に圧縮され、烈風が吹き荒れる。
「!?」
飛来していた矢はすべて、羽ばたき一つで阻まれ、粉砕される。
その余波だけで、女は壁へと叩きつけられ、声も上げられず崩れ落ちた。
「……待たせたね。」
イーゴリ――いや、白い人型兵器は、ゆっくりと俺の方へ顔を向ける。
つるっとした顔に表情はない。だが、その無機質さが逆に、殺意をより濃密に伝えてくる。
「もう、君を殺そうと思っている。」
その言葉と共に、俺の首を掴む手にさらに力が込められ、気管がギリギリと悲鳴を上げる。喉が潰れ、呼吸が奪われ、肺に空気が入らない。
(っぁ……やべぇ、ガチで苦しい……。)
視界の端が暗く染まり始め、耳鳴りが深く、遠くで鳴るように変わる。
イーゴリの姿が二重にぼやけ、赤黒いフィルター越しのように見えていく。
「私はね、君に淡い期待をしていた……が、それは間違いだったみたいだ。」
期待?
そんなもの、俺は頼んでいない。
(なに勝手に期待して、勝手に失望してんじゃねぇよ……クソが。)
喉が潰されても、心の中では毒づく余裕がわずかに残っていた。
イーゴリは軽く羽ばたいた白銀の翼を折り畳み、羽先を俺の首へと向けて静止させる。
ぼやけた視界でも、翼についた羽根一枚一枚が剃刀のように鋭い刃となっているのが分かる。
(コイツ……首を絞めて殺すんじゃなく……その翼で俺の首を切るつもりかよ。)
どちらが先でも同じ。
手も足も出ない。
最初から、勝てる相手じゃなかった。
あの遊園地で似たような人型兵器を偶然倒せたからと、調子に乗った俺が馬鹿だった。
あれは運が良かっただけだ。
(……だから、せめて負け惜しみを“今”言ってやる。)
絞め付けられた気管から無理やり声を絞り出す。
痛みで意識が飛びそうになりながら、それでも。
「……あ、のな。」
切れ切れの声。
肺が焼けるように苦しい。
「俺は……ヒーローって柄じゃ、ねぇ。」
情けなく、負け犬じみた声。
だが、それが今の俺の精一杯だ。
「正義感なんて、痒くなるようなもん……持ってねぇ。俺は主人公じゃなく……ただの殺し屋だ。」




