「645メートル上空で」Ⅰ
その向こうはどう表現すべきか……そう、惨状だった。
人の金髪碧眼の白衣を着た女が、壁に磔にされていた。
耳と手首、掌と脛、そして足の甲にまで、大小さまざまな釘が容赦なく打ち込まれている。
その姿勢では胸郭が押し潰され、呼吸はほとんどできないはずだ。息を吸うたびに胸がきしみ、骨と筋肉が悲鳴を上げるだろう。
「……!」
酸欠で意識が朦朧としているのか、女は苦悶に満ちた目をかすかに開き、
口を小刻みに開閉して空気を求めていた。
そのたびに喉の奥からひゅうひゅうと掠れた音が漏れる。
釘の刺さった部分から流れ落ちる血が壁をつたって細い赤い筋となり、床にぽたぽたと落ち、赤黒い小さな水たまりを作っていた。
このフロアの煌びやかな装飾と、目の前の地獄絵図の対比が、胸の奥をぞわりと逆撫でした。
「……ッゥ。」
その女のかすれた声が、静寂の中でひどく生々しく響く。
部屋の中央。
そこには両手と両足を太いベルトで縛られ、床に手と膝をついた世里奈がいた。
長い髪は無残に顔へと垂れ、肩は小刻みに震え、息は荒く乱れている。
頬には血と汗の跡が光り、強気な彼女の面影はそこにはない。
だが、完全に折れたわけではないとわかった。
彼女の目にはまだ、どこか反抗の光が宿っていた。
そんな世里奈の細い背中に、無造作に腰を下ろしている男がいた。
イーゴリ・アンジェロフ。
ロシアマフィアの首領にして、数多の血を吸ってきた怪物。
その存在は世界の裏で語られ続け、悪名の行き着く果てにいるような男だ。
分厚いコートを羽織り、紳士のような軽やかな動作で、世里奈の背にまるで高級な椅子に腰掛けるように座っていた。
「……おや? やっと、ヒーローのお出ましかな。」
モニターを覗き込んでいたイーゴリが、俺の足音に気づいたのか、ゆっくりと視線を上げ、扉の前に立つ俺を見た。
その黄金の瞳には笑みとも侮蔑ともつかない、ぞっとする光が宿っている。
「フフ……どうかな、私の美的センスは?」
口端を歪め、楽しげに顎を上げる。
「……お前、何を……」
喉の奥からかすれた声が漏れた。怒りで声帯が焼かれるみたいだった。
イーゴリは軽く肩をすくめ、世里奈の背にどっかりと体重をかけながら言う。
「楽しいものだよ──我が国の殺し屋、その姉は壁に飾り、日本の殺し屋の愛人は椅子にしているのはね。」
世里奈の肩がびくりと震えた。
手と膝で支える華奢な体の上に、イーゴリは足を組む。
その仕草はまるで、勝利を確信した王が玉座に腰掛けるようだった。
女を磔にし、世里奈を椅子にし、
その中心で飄々と笑っているこの男の姿に、俺の頭の奥が一気に沸騰した。
この空間に満ちる悪趣味な豪華さも、床に広がる血も、世里奈の震えも、イーゴリの無邪気な笑顔も――
全部が、怒りの火種となって胸に放り込まれていく。
「うん……実に有意義だ。」
イーゴリはそう言って、モニターに視線を戻しながら指を動かす。
スクリーンに映るのは、先ほどの戦闘記録だろうか。
俺が各フロアで戦闘しているものやサルタナの戦い。
まるでそれを観賞して愉しむ趣味があるかのように、イーゴリは微笑みを浮かべ続ける。
その背中越しに、世里奈がこちらを見た。
必死に声を押し出そうと唇が震えているが、
かすれた呼吸音しか出ていなかった。
それでも、彼女の目はしっかり俺を捉えていた。
『――逃げて』
声にはならないが、確かにそう言っていた。
胸の内側で何かが軋む音がした。
爪で心臓をかきむしられるような痛み。
怒りとも焦りとも言えない感情が、体中を一気に駆け巡る。
その瞬間、俺の中で何かが、完全に切れた。
「テメぇ……殺す!!」




