「プレミアムタワー」Ⅴ
俺が発砲した弾丸がイーゴリに着弾……しなかった。狙いを定めたはずの弾は、意図せぬ標的を穿った。代わりに崩れ落ちたのは、いつか俺を運んでいた世里奈の部下――ムエタイ選手のような筋骨隆々の大男、ムサ男だった。額からは血が噴き出し、弾孔が黒い穴のように開いている。血糊が床に飛び散り、白い大理石に鮮烈な赤い斑点を作る。彼の体はその場にぐしゃりと崩れ、目は虚ろのまま開いたまま動かない。音もなく、ただ冷たい静寂が急速に広がっていった。
「なっ!?」
驚きで俺の口から声が漏れるが、それもすぐに飲み込まれる。
「ダメじゃないか、お仲間を射殺しちゃ。」
イーゴリの声は平然としていて、嘲りを含んでいる。彼は軽やかに立ち上がると、倒れたムサ男へと近づいた。足元に転がる大男の頭部に視線を落とすと、片手で確かめるように首筋に触れた。死体の感触を確かめるようにイーゴリは短く頷くと、まるでそれが面白い余興の一部であったかのように、その無抵抗の遺体を自らの前に押し立て、射線から身を守る肉壁――盾とした。血と死体を道具に変えるその所作は、不気味なまでに無感情で、計算された残酷さがにじみ出ている。
「じゃあ、一旦お別れだ。日本の殺し屋君。」
その口元は微かに笑っている。ムサ男の首を冷たく掴み上げ、イーゴリはそれを自分の前に立てたまま、ゆっくりとエレベーターへ歩き出す。大男の重さは既に死体のそれであり、抵抗はない。彼の足取りはまるで劇場の主役が拍手を受けながらはけるかのように余裕がある。最上階へ続く道を、自分のルールで演出しているのだ。
追いかけるか――本能が叫ぶ。だが、俺は動かなかった。ムサ男が即死したという事実は、ただ悲惨さを深めるばかりではなく、相手の狡猾さを裏付ける証拠でもあった。イーゴリは死体を盾にすることでこちらの行動を制限し、同時に世里奈の安否をちらつかせている。もしもここで血に任せて追いかければ、イーゴリの思うツボになりかねない。世里奈がどこにいるのか、どういう状態なのか――それがまだ確かめられていないことが、俺の足を硬直させる。
走って追いかけようかと思ったが……止めた。冷静に考えれば、単純な追走は犠牲を増やすだけだ。ムサ男の死体を盾にされたら、被害は増幅する。だが何よりも、世里奈の命が掛かっている可能性を優先しなければならない。俺は胸の中で短く計算をし、理性を選んだ。感情に流されて失敗するわけにはいかない。
「……イーゴリ。」
一言だけ、投げかける。怒りでも命令でもない、ただ確かめるための声だ。言葉を残しておくことが、後で何かの形で効いてくるかもしれない。
(……一言だけ、言っておかねぇと。)
「なにかな?」
エレベーターの扉は軋み、閉まりかけている。イーゴリは振り返らずに答えたが、その声には好奇心と余裕が滲んでいた。余った時間を楽しむかのように、彼はゆっくりと言葉を続ける。
「例の白いヤツを着てろよ?お前の血で真っ赤に染めてやる。」
その下品な宣言は、ただの脅しではなく彼の嗜好を示している。白い布が血で赤く塗り替えられる光景を愉しむような男だ。俺は吐き気をこらえながら、冷たい怒りを噛み締める。
「……クハハハ。楽しみにしてるよ。」
不気味な笑い声を残して、扉は閉じる。表示ランプが上へと流れ、イーゴリの姿は照明に溶けて消えていった。最上階へ上がっていった。
「……おい、ワンコロ。」
俺はサルタナへ振り向く。床にできた血の輪と、そこで微かに反射する照明が、今しがたの殺戮の跡を否応なく映し出す。
「ワンコロではない、サルタナだ」
彼は顔をしかめ、嫌そうに応える。その短いやり取りの裏にある無言の理解こそ、長年を共にしてきた証だ。俺は選択を告げる。
「お前には悪いが、俺はただ一直線に上を目指す。お前は自分の姉貴を見つけたら来いよ。」
「……無謀だな。一人で大丈夫n」
サルタナが制止しようとする。言葉が途中で切れたのは、俺が素早く掌を向けて制したからだ。
「俺は大丈夫だ……何だ?手と腹に穴が開いてるから、俺一人じゃ不安か?」
ぎこちない冗談だが、そこに込められた本心は見え隠れする。サルタナは一瞬目を細め、そして何かを飲み込むように息を吐いた。
「……。」
彼は言葉を失い、ただ俺を見つめる。沈黙が二人の間に落ち、時間がわずかに伸びる。互いの覚悟がそこで交差する。
数秒、俺たちは向かい合った。
「はぁ……わかった、好きにしろ。ただし、死ぬなよ。お前を殺すのはオレだからな。」
低く、しかし確かな声。脅しにも見えるその言葉は、守るという誓いの裏返しでもある。俺は拳を差し出し、彼と軽く合わせる。
「……わかった、お前も死ぬなよ。」
短いやり取りの後、拳をぶつけ合う。それは別れの儀式であり、互いの無事を祈る合図だ。俺は階段の上へ、サルタナはフロアの奥へと分かれた。




