「暗殺依頼」Ⅱ
(ここから早く逃げ……)
と俺は内心考えたが、頭の奥で世里奈の声が響いた。
『もうやめることはできないよ。』
その声は耳だけでなく、胸の奥深くに直接響くようだった。夜風が肺に入り込むたび、背中の銃や防弾チョッキの重さが体にずっしりのしかかる。もし俺がここで依頼を放棄して逃げたら、世里奈が上司として代わりに来るだろう。だがそれは、直感的に危険だと感じた。あんな怪物に、世里奈を会わせてはならない。
(俺がやらなくちゃいけない……)
歯を噛みしめる。呼吸を一度深く吸い込み、ゆっくり吐き出してから再びスコープを覗く。白いスーツのイーゴリは、港の街灯と月光の両方に照らされ、まるで舞台の上の主役のように浮かび上がっていた。冷たい光が彼の頬をなぞり、整った顔立ちをより際立たせる。しかし直感が告げる――あの目は笑ってなどいない。獲物を見つめる捕食者の視線だ。
(アイツ……俺を試しているのか?)
汗が背中を伝う。指先を引き金にかけようとするが、凍りついたように反応しない。スコープ越しのイーゴリの瞳が、頭の中に直接圧力をかけるようで、理屈ではなく本能で全身が硬直する。心臓の鼓動が耳の奥でズシンと響き、呼吸を整えようとしても胸がざわつき、酸素が足りない感覚が強まる。
背後の建物の鉄骨、コンクリートの冷たさ、潮風の湿り気……あらゆる感覚が過剰に研ぎ澄まされ、まるで体全体で警告を受けているかのようだ。遠くの波音やコンテナの軋む音も、まるで自分の鼓動と同期しているかのように感じられる。
「……くそっ」
思わず漏れた低い声。次の瞬間、首筋にぞわりと冷たい気配が走る。視線だけを横に滑らせると、そこに“影”があった。女だ。黒いタクティカルスーツに身を包み、左手にはグロック26。銃口は迷いなく俺の頭へ向けられている。彼女の動きは猫のように静かで、わずかに身じろぎするたびに筋肉が滑らかに波打った。
気配を殺してここまで忍び寄るとは……完全にやられた。
「……何だ、お前は?」
質問すると、女は一歩踏み込み、銃口をさらに近づけた。黒いゴーグルの奥から、冷たい声が落ちてくる。
「今すぐライフルを放して、立て。」
短い命令。だが声に一片の迷いもない。撃つつもりなら、引き金を引くタイミングはすでにあったはずだ。そうしないのは、俺を生かしたまま捕えるためか……。
(……ヤバイな。)
脳裏で計算が走る。普通ならここで抵抗すれば即射殺――だが、ここは屋上。彼女は一人、援護もなし。俺にはまだ勝算がある。
ライフルからゆっくりと手を放し、従うふりをしながら膝と手をついて体を起こす。アスファルトのざらつきが手袋越しに伝わった瞬間、右足を鋭く横に払うようにして女の脛を蹴りつけた。
「っ——!」
乾いた衝撃音とともに女の体がわずかに傾ぐ。予想以上に軽い体重だ。だが反応は早い。体勢を崩しながらもトリガーを引いた。閃光が瞬き、耳元で銃声が爆ぜる。
瞬間、首を左に捻る。弾丸がかすめ、皮膚が裂ける鋭い痛みと熱い血が頬を伝った。反射的に地面を蹴って跳ね起き、距離を詰めながら左手で女の手首を掴む。骨の位置を狙って捻り上げると、グロック26が乾いた音を立ててアスファルトに落ちた。
「なっ!?」
女が短く声をあげ、反撃に移る。体をひねりながら回し蹴りを放ってきた。風を切る音が耳を掠める。紙一重で頭を反らして躱すと、女のブーツが俺の背後のコンクリート壁を打ち、火花が散った。
間髪入れず、俺は女の腕を引き寄せると同時に自分の体を回転させ、彼女の背後を取る。右腕で首を絡め取り、喉元に自分の前腕を押し当てる。指の力で頸動脈と気管を同時に圧迫した。
「俺を嘗めんなよ。」
唸るように吐き捨てると、女が苦しげに息を吸おうともがく。力は緩めない。ほんの数秒で顔色が変わり始める。
「……くっ。い、言っておくが」
声を振り絞りながら女が言った。
「そこに立っている位置はイーゴリ様から丸見えだ。もちろん、彼の部下達もお前を見つけてる。」
「はん……まだ、イーゴリしかバレて」
と俺が言いかけたその時——
「おい、銃声が……あんな所に誰かいるぞっ!」
今見つかった。




