「暗殺依頼」Ⅰ
完全武装の俺は、人気のない港の夜道を慎重に歩いていた。夜風が頬をかすめるたび、肩に背負った銃のストラップがかすかに軋む。薄暗い街灯が濡れたコンクリートに反射し、かろうじて道の輪郭を描き出している。アスファルトは昼間の雨をまだ完全には乾かしていないのか、靴底にねっとりとした感触を伝えてくる。遠くで波が岸壁に打ち付ける音が響き、港特有の低いうなり声のような機械音がかすかに混じる。その音は、静かな夜に逆に緊張感を与えるBGMのように耳にまとわりついた。
敵が陸路で使用する道路は、ほぼ目星をつけていた。ここに来るまでに何度も地図を確認し、現地を下見した。何しろ相手は海外の大型マフィアだ。連中は数が多ければ多いほど精神的に安心するのかもしれないが、集団で動けばそれだけ目立つ。夜の闇に紛れていても、その動きは異物感を放つ。夜の闇に紛れても、集団の影は容易に察知できる。俺はその点を見越して行動している。
近くの高層建物の非常階段を登る。鉄の手すりは潮風でわずかに錆び、触れると冷たさが手袋越しにも伝わる。何段も登るにつれて息が白くなり、肺が夜気を吸い込むたびにわずかに痛んだ。屋上にたどり着いたとき、視界が一気に開ける。港の明かりが遠くで瞬き、コンテナやクレーンが夜空に黒い影を落としている。夜景はどこか幻想的だが、俺にとっては狩り場だ。
用意してきたスナイパーライフルをケースから取り出す。金属の冷たい感触が手のひらを刺激し、心拍数がひとつ跳ね上がる。ライフルのボルトを引き、弾を装填する音が夜に溶けた。狙撃姿勢をとり、腹ばいになって銃口を街路に向ける。頬に当たるコンクリートの冷たさと、銃床の固さが現実感を強調する。呼吸を整え、心の中で何度もシミュレーションしてきた場面を再生する。それでも、現場の空気は机上訓練とはまるで違う。手のひらにじんわりと汗がにじみ、グローブの内側で湿っぽさが広がった。世里奈の前で格好をつけて冷静ぶっていた自分が少し滑稽に思えたが、相手が相手だけに油断はできない。
やがて、遠くから車のエンジン音が聞こえてきた。スコープを覗き込むと、黒塗りのベンツが映る。港の街灯に照らされ、ぬらりと鈍い光を反射するその車体は、いかにもマフィア仕様という雰囲気を漂わせていた。車が減速し、指定した通りに停車する。ドアが開き、車内からぞろぞろと男たちが降りてきた。スーツ姿、分厚いコート、肩で風を切るような歩き方。港の薄暗い光の中で、彼らの影が長く伸びる。
(1、2、3……8人)
護衛たちは思ったより少ない。しかも動きに無駄がない。暗闇に紛れているが、手元の動作や周囲への視線の送り方から、全員が訓練された護衛であることがわかる。俺の視線はその一挙手一投足を追い、次の瞬間に何が起きても対処できるように体を微調整していた。
そして、とうとう9人目の男が車から現れる。白いスーツを身にまとった細身の男。月明かりと港の街灯が彼の輪郭を際立たせる。二十代に見える若々しい容姿なのに、動作ひとつひとつが異様なほど落ち着いていて、鋭い印象を放っている。周囲の護衛たちが自然に距離を空け、まるで彼が中心であると告げるかのようだ。
(あいつがロシアマフィアの首領……イーゴリ……イーゴリ・アン……イーゴリ・アン何とかだ……多分。)
名前を確実に思い出せない。だがそんなことはどうでもいい。重要なのは、目の前に標的がいるという事実だ。護衛の数は想定より少なく、こちらの存在にはまだ気付いていない。距離も十分だ。この位置なら、仮に一発外したとしても、即座に位置を特定されるリスクは低い。
俺はゆっくりと照準を合わせる。スコープの中心に、イーゴリの頭部が収まる。レティクル越しに見える彼の顔は、どこか人形めいて整っていた。夜の闇に浮かぶ白いスーツが異様に目立ち、まるで光源のようにそこだけが浮き上がって見える。冷静に考えれば、ただの人間、ただの標的だ。指先に力を込め、引き金にかける瞬間、呼吸を止める。心臓の鼓動が自分でもわかるほど大きく響き、耳の奥でドクドクと血が流れる音がする。
しかし――その瞬間、引き金を引くことができなかった。
「っ!?」
息が詰まる。スコープ越しに見たイーゴリの顔が、こちらを向いて笑ったのだ。いや、笑みというよりは嘲るような、何かを見透かしたような表情だった。目が合ったと確信した瞬間、全身の血の気が引く。屋上にいる俺の存在を、まるで最初から知っていたかのように。奴の視線が俺の皮膚を突き抜け、骨の奥底まで冷たく貫く。
否、笑顔とは言えない気がする。あれは捕食者が獲物を見つけたときの、無感情な目だった。身体中にミミズが這い回るような嫌な感触が広がる。
「ヴっ、……っ!!」
喉から勝手に声が漏れる。胃が裏返るような吐き気が襲い、汗が一気に噴き出す。狙撃姿勢のまま、体が硬直した。まるで見えない手で首を締め上げられたかのように、呼吸が浅くなる。殺し屋として今まで味わったことがない、理屈を超えたプレッシャーが俺を押し潰していた。




