「ラブリー・エンジェル」Ⅴ
「ちょっとアンタ達、ヤるなら店の外でやんな!」
爪先まで丁寧に塗ったマニキュアのチェックをしていたノブ子が、大声を張り上げる。薄暗いバーの中にその声が響き渡り、ジャズのサックスの音がかすかにかき消される。ノブ子の声には威圧と余裕が入り混じり、店内にいる俺は息を呑む。今ここでノブ子を怒らせるのは、絶対に面倒なことになる──俺は考えた。
(とりあえず、外に……)
頭の中で判断を下す。下っ端に声をかけて事態を外へ誘導しようとしたその瞬間、男は感情を抑えきれなかった。
「うるせぇっ!このオカマ野郎っ!」
叫び声が店内にこだまし、空気が一瞬で変わった。カウンターの奥で氷をかき混ぜる音も止まり、ジャズの旋律がまるで止まったかのように静寂に変わる。店の空気が凍りつき、全身の毛穴が引き締まる。
(やベぇっ!!)
心臓が跳ねる。俺は急いで下っ端に詰め寄る。怒りを露わにした男の姿は、薄暗いバーの照明に影を落とし、金属のように冷たく、刃物の冷気さえ伴っているように見える。
「お、おい! 今すぐノブ子に土下座して謝れ! そうすれば……」
俺はそう言いかけた。
「はぁ? 何言って……おぶっ!?」
その瞬間、丸太のように太く逞しい腕が男を壁まで吹き飛ばしたのだ。衝撃で床が微かに振動し、倒れた男の肩や膝が軋む音が小気味よく響く。
「オカマを相手を嘗めとんのかワレェッ!」
ノブ子の怒号にも似た声が轟き、俺の耳に突き刺さる。巻き込まれればたまったものではない。
(……うわぁ。)
その光景に思わず目を背けたくなる。壁に叩きつけられた男の体が、一瞬宙に舞い、床に着地する。床の木目が軋む音、グラスがかすかに揺れる音、ノブ子のヒールが床を踏み鳴らす音。全てがリアルに響き、戦慄が全身を包む。俺
「ノブ子、俺もう行くわ……ありがとな。」
心臓の鼓動を抑えつつ、俺は急いで店から出た。外に出ると、赤みが増す夕日の風が顔を打ち、肺いっぱいに新鮮な空気が入る。店内の声が、壁を通して外まで届いている。音は割れてひびくように外へ広がり、サックスの余韻も消えていた。
「オカマの素晴らしさ、その体に教えてあげるわ よぉぉぉお!!」
ノブ子の声が、外の静けさに混ざって届く。その雄叫びに、背筋がひやりとする。
「ひいいいぃいっ!?」
男の悲鳴が続き、路地に吹く風にかき消されていく。
仇討ちは、いつだって空しく終わるものだ。人は憤怒に身を任せ、力を振るうが、結果として得られるものはしれたもの──。名も知らぬチンピラの叫びに、少しの哀れみを感じつつ、俺はその場を後にした。
路地から大通りに出ると、街灯のオレンジ色の光が歩道に落ち、静かに照らしていた。ビルの谷間から吹き抜ける風は、さっきのバーの緊張感を遠ざけるかのように柔らかく、しかし冷たくもある。
俺は肩をすくめ、再び空気を吸い込み深呼吸。振り返ることなく、足早にその場を後にする。
(……仇討ちってのは、確かに空しぃ、しかし誰もがそれに抗えない宿命のように、時折誰かを巻き込んで消え去るものだよなぁ。)
俺は名も知らぬチンピラに同情しながら、静かに合掌する。




