「ラブリー・エンジェル」Ⅳ
「おかしいわねぇ。アタシが知ってる情報だと進道ちゃんはつい最近、フラれたばかりじゃなかったかしらぁ?」
ノブ子は軽く肩をすくめながら、グラスに残った氷を指先で転がす。薄暗いバーの照明に照らされたその黒色の瞳が、まるで俺の胸の内を覗き込むかのように光っている。微かに揺れるジャズのサックスの旋律が、俺の緊張をさらに掻き立てる。
「なぜ俺がフラれたことを知っている!?」
思わず声が上ずる。頭の中で可能性を探る。SNS?ゴシップ?いや、ノブ子の知識の入り口はもっと狭く、裏ルートの情報網を通じたものに違いない。
「SCAPEの友達からよ。」
――SCAPE?あの、マイクロソフトが提供する、インターネットを介して無料で音声通話、ビデオ通話、チャットができるコミュニケーションサービスか? 俺の頭の中でその言葉が何度も反響する。だが、それにしても、誰が俺の情報をノブ子にリークしたのか――。
「はぁ?」
まるで疑問を声にしただけで怒られそうな勢いで、俺は眉をひそめる。情報はどうやって流れたのか。手口を考えれば考えるほど、背筋に冷たいものが走る。
(ハッ……まさか、俺の母さんか!?)
いや、可能性としては低くはない。電話で会話したばかりだし、最近の俺の行動を誰かが監視していたのかもしれない。けれどそんなことを考えても、現実は目の前にいるノブ子と、迫り来る未知の脅威の前では無力だった。
「で、あなた本当に彼女いるの?」
問いかけるノブ子の声が、バーの空間に響く。グラスの氷がカランと鳴り、音が耳に残る。音のリズムが心臓の鼓動と混ざり、俺の頭の中で微妙な緊張を生む。
「ああ、そうだけど……あっ」
言いかけて、口を塞ぐ。今、このタイミングで本当のことを言えば、自分の首をさらに絞めることになる。ノブ子の視線は容赦なく、まるでこちらの秘密を奪おうとするかのようだ。
「いやぁ……」
言葉を濁す俺。だってノブ子は世里奈の――
バァアン!!
突如として店の扉が勢いよく開き、外の光と冷たい風が薄暗いバーの中に差し込む。ドアの開閉音が、まるで雷のように響き渡った。
「見つけたぞこの野郎つ!!」
怒鳴り声と共に、ナイフを握ったチンピラ風の男が店内に踏み込む。眉間に皺を寄せ、目には狂気とも言える光が宿っている。足取りは乱暴で、床を踏み鳴らすたびに小さな振動がバー全体に伝わる。
「……んー、誰?」
俺の疑問にノブ子は一瞬も目を逸らさず、爪先でマニキュアのチェックをしながら、淡々と答える。まるで状況を楽しむかのような余裕を漂わせて。
「あー、あの顔は進道ちゃんが潰した【龍音組】の手配書にぃ、小さく写真が張ってあった……下っ端ってところね。」
ノブ子の声には冷静さがあり、しかしその瞳は鋭く光る。俺は瞬時に理解する。――要するに、この男は組織の下っ端で、俺を恨んでいる。報復のために、今ここに現れたのだ。
(要するに、組の敵討ちってところか。)
頭の中で状況を整理する。相手は一人、武器はナイフ。バーという閉鎖空間。
「テメエのせいでオレはどこ行ってもお払い箱だ。テメェのせいだ! ぶっ殺してやる!」
男が怒鳴る。息は荒く、指先はナイフの冷たい金属を握りしめている。その手の力、腕の振り、体の重心――全てがちんけな殺意に満ちている。
(……うるせぇなこいつ。)
心の中で呟きながらも、俺は冷静に観察を続ける。動きのクセ、呼吸の間、攻撃のタイミング。逃げるべきか、迎え撃つべきか、判断を瞬時に迫られる。
「いい機会じゃねぇか。暴力団なんかやめて真っ当に生きろよ。」
軽く言い放つ。威嚇でも諭すでもなく、淡々とした声色で。男は一瞬、言葉に詰まったように見えたが、次の瞬間にはさらに狂気を帯びて叫ぶ。
「それができたらここにいねぇよ!!」
叫ぶ声が、薄暗いバーの壁に反響する。俺はその声を受け止めながらも、静かに次の手を考える。男の動き、バー内の配置、ノブ子の位置。
(確かにその通りだ。)




