黒い悪魔Ⅶ
俺は一瞬だけ手を止めた。
「……。」
黒い悪魔は無言で立っていた。まるで何事もなかったかのように背筋を伸ばしている。人間なら間違いなく瀕死のはずだ。体中が砕けた骨と筋肉の痛みに襲われているだろう。しかし、目の前の悪魔から漂う圧倒的な存在感は、まだ完全に倒れたわけではないことを示していた。息遣いもなく、ただ立つだけの姿。その静止した形に、自然と背筋に冷たいものが走る。異様な威圧感だ。
俺は痛みで感覚の薄れた両拳を握りしめ、息を整える。血で手首がべっとりと染まり、指先の感覚はほとんどなかった。が、拳の力を抜くわけにはいかない。ここで手を止めれば、これまでの攻撃が無意味になることを本能的に理解していた。
俺は一歩前に出る。足元の瓦礫が崩れ、微かな砂埃が舞い上がる。呼吸を整えながらも、全身の筋肉に残る痛みが収まることはない。拳を再び握り、闘志を振り絞る。殴打を止めるわけにはいかない。
再び、殴りすぎて感覚の薄れた両拳で悪魔の顔面を打ち抜く。拳の衝撃が自分の腕に跳ね返り、鈍い痛みが肩から肘、手首まで走る。それでも構わず、体を捻り、右膝を鳩尾に叩き込む。空気が裂ける音が耳をつんざき、悪魔の体が少し壁に押し付けられる衝撃が伝わる。痛みと衝撃が連鎖し、息が詰まるような感覚に襲われるが、目の前の存在を確認する目だけは逃さない。
だが、さすがに悪魔もまだ動ける……
ガシッ!
「なっ!?」
いきなり悪魔の手が俺の足首を掴んだ。まるで鉄の爪で締め付けるかのように、骨と筋を捉えられる。
グキッグチュッ!
足首の骨と肉が潰れる鈍い音が響き、激痛が体中に走る。膝から腰まで、電流のように痛みが突き抜ける。息を吸おうとしても腹部と胸の痛みに阻まれ、呻き声しか出せない。足首の関節は完全に狂い、踏ん張るどころか体重をかけることすら困難だった。
「ッぁぁああ……てめぇっ!!!」
俺は痛みを誤魔化すかのように吼えながらメリケンサックを外し、腰のホルスターからコルト・ガバメント.45を引き抜く。銃口を悪魔の頭に密着させ、自己流で改造し装填した榴散弾を撃ち込む。0距離での射撃は反動が凄まじく、手首に衝撃が伝わる。肩まで振動が届き、脳髄まで震えるような感覚が走るが、目の前の黒い悪魔を撃つことをやめる理由にはならない。
――ドンッ!
爆発の衝撃で、悪魔の手が離れ、俺も一緒に左右に吹き飛ばされた。土と砂が顔面にかかり、視界が一瞬霞む。痛みと煙と埃の匂いが入り混じり、頭が軽くくらくらする。しかし、視界の端で動く黒い影を逃すわけにはいかない。
「ガフッ」
地面を転がり、血を吐きながらも、俺は必死で体を起こす。息は荒く、胸は痛む。腕の感覚はほとんどなく、手のひらには深く刻まれた痛みの熱が残る。だが、目の前の悪魔を確認する目だけは冴えていた。
黒い悪魔は、壁に叩きつけられたまま痙攣していた。体が小刻みに震え、手足が微妙に痙攣する。長く続く沈黙の中で、黒い霧が彼の体から立ち上り、視界に煙のように溶け込んでいく。少し経つと痙攣はおさまり、赤い目から光が消え、まるで魂の抜けたような虚ろな瞳になった。存在感だけが空間に残り、辺りの空気は一瞬で張り詰めた。
そして悪魔の体が揺らぎ始める。煙のように立ち上る黒い霧は見る見るうちに溶け、中から血と肉の塊になった男の死体が姿を現した。長く黒光りする液体が一本の筒のようになって、死体の傍らに転がっている。何かの液体の残骸か、はたまた……意味のわからない異形の構造物か。俺は膝をつき、手を這わせるようにして筒のもとに寄った。指先が筒に触れる直前、身体に強い違和感が走り、手が止まる。
「……筒?」
「触らないで欲しいな。」
後ろから若い男の声が聞こえ、体の動きがピタリと止まった。声のトーンは落ち着いているが、どこか鋭さがあり、言葉そのものが背筋に寒気を走らせる。
「なっ!?」
俺は反射的に体を起こし、振り返る。




