黒い悪魔Ⅵ
「窮鼠猫を噛むっ!」
自分を鼓舞するように叫び、俺は振り下ろされる腕を紙一重でバックステップして躱した。
着地と同時に背後でレンガの壁が粉々に砕け散る音が轟く。砕けたレンガ片やコンクリートの破片が舞い上がり、いくつかは背中に当たる。建造物をまるで豆腐のように粉砕するその破壊力に、ぞくりと身が引き締まる。あと数センチ遅れていたら、俺の頭は壁と一緒に粉砕されていただろう。瓦礫の粉塵が視界をぼやけさせる中、砂埃が鼻腔に入り、咳き込みそうになりながらも呼吸を整える。恐怖よりも、本能が全身を張り巡らせ、次の動作を無意識に指令していた。
腰のベルトに掛けていた小箱を手早く開け、メリケンサックを取り出す。
金属が指の関節にピタリとフィットする感覚は、まるで手の一部が鋼鉄に変わったかのようだ。握るたびに微かに響く金属音と反発力が、今の俺には妙に心強く感じられた。
銃が効かない相手なら、接近戦しかない。。
軍隊格闘技の訓練を嫌々受けた日々を思い出す。だが、今ほどその経験に感謝したことはない。
拳を構え、悪魔の動きをじっと観察する。
一見、無機質で人間離れした敵だが、腕のわずかな動き、肩の沈み込み――その一つ一つが次の攻撃を予告している。
殺し屋として数々の死線をくぐり抜けたこの目には、相手の単純な動作がスローモーションのように映る。腕の振れ幅、指先の角度、体重のかけ方、すべてが次の攻撃のタイミングを示していた。
「来いよ……。」
自分でも驚くほど落ち着いた声が口から出る。
心臓は早鐘のように打っているが、恐怖よりも鋭く研ぎ澄まされた感覚が勝っていた。視界は鮮明になり、舞い上がる砂埃の粒子一つひとつが手に取るように見える。瓦礫に跳ね返る光、壁に反射する日光、飛び散るレンガの粉末――すべてが戦場の地図となる。
悪魔の腕が再び振り下ろされる。
さっきより速く、狙いは俺の頭か首か。
半歩横に飛び、ギリギリで回避する。地面すれすれで風圧が頬をかすめ、砂埃が目に入り瞬きする間もなく次の動作へ移る。
――シャコン。
鈍い金属音が耳に響く。
次の瞬間、悪魔の両腕から八本の鎌が飛び出した。
縦、横、斜め、あらゆる角度から襲い掛かる刃の群れを、俺はギリギリで躱し、メリケンサックで弾く。火花が散り、耳の奥で金属音が反響する。
そして、弾いた腕の刃の生えていない箇所を右手で掴んだ瞬間――
――シャコン。
俺の右手の甲を突き破って刃が生える。予測していたはずだが――
(いっ、痛ええぇっ!)
予想以上の痛みに顔が歪む。血が指の関節から滴り落ち、掌に熱い感触が広がる。
「痛ええぇっ!」
と叫びながらも、掴んだ悪魔の腕を離さず、気合で腕を引っ張った。
勢いよく前につんのめる悪魔の体。
涙目になりながらも俺はその前に出てきた頭に渾身の蹴りを打ち込む。鉄板仕込みの靴で前蹴りを叩き込み、悪魔の顔の中心、人間でいうと鼻柱を打ち抜いた。
後ろに吹き飛ぶ悪魔の腕を掴んだままの右手を再び強く引く。
「いっ……!」
手の甲が裂け、血が飛び散る。
無理やり戻される悪魔の体に対して、俺は右足を踏み込みつつ、左拳で鋭いアッパーを叩き込む。
メリケンサックをはめた左拳が悪魔の顎を打ち抜き、脳を縦に揺らす。血の匂いが鼻をつき、耳鳴りが一瞬走ったが、俺は気にせず連打を続ける。
「まだまだぁあぁぁぁぁあっ!」
刃から右手を抜き、血塗れの右拳でボディフックを連打する。
拳が砕ける音と、悪魔の体内で肋骨が折れる手応えが同時に響く。
この手応えは黒い悪魔に取り込まれた男の骨なのだろうか。




