黒い悪魔Ⅴ
昔、俺はチェスにはまっていた。
毎日のように小さなチェス盤を机に広げ、白と黒の駒を整然と並べては、一人で、あるいは友人や家族を相手に黙々と頭をひねった。思考の沈黙の中で、相手の一手一手を読む。次の一手で戦局がひっくり返るかもしれない、たった一歩で命運が決まる――ただのボードゲーム。
だが、あの時の俺には仕事と同じくらいの緊張感があった。机の上の木の盤面に神経を集中させ、駒の動きひとつに脳のすべてを捧げる時間は、他の何にも代えがたい、唯一無二の没入だった。勝敗の結果は紙一重。ミスひとつで全てが覆る、その恐怖と快感が入り混じった時間は、まさに生死を賭けた仕事の静かな緊張そのものだった。
特に、あの1歩しか進めない無能の王の駒をどう守るか、どう攻めるかを考える時間がたまらなく好きだった。
守らなければならないキングは、ただ突っ立っているだけで、攻撃の要になることはほとんどない。女王、クイーンのように一手で盤上を支配することも、ナイトのように予測不能な軌道で跳ね回ることもない。ポーンのように地味に前進することすらできず、何もできないのに、盤の運命の中心にいる存在。だが、それゆえにキングを守るための戦略は純粋で、考えれば考えるほど頭が熱くなる。
それでも、そいつを守り切った上で相手のキングを詰ませる瞬間こそが、何よりの快感だった。相手の王を逃げ場のないマスへと追い詰め、最後の手で「チェックメイト」と告げるあの一瞬のために、何十手も先を読む。俺はその思考の果てにある快感に酔っていたのだ。時間が止まったかのように、盤上だけが存在する空間で、全神経がキングとクイーンの動きに張りつめる感覚。
……今の俺の状況をチェスで例えるなら、どう表現できるだろうか。
気味の悪い黒の、ほぼ万能型といえるクイーンと一対一。
まともに戦わず、必死で盤上の隅に逃げ回る白のキング。
ああ、今の俺はまさにあの無能な王だ。
ひたすら逃げ回り、ただ詰まされないように足掻いている。思考を巡らせる余裕もなく、ただ現実だ。この一手を間違えたらチェックメイト――
ドガァンッ!
轟音と共に、目の前の壁が吹き飛んだ。
破片が雨のように降り注ぎ、反射的に腕で顔をかばった瞬間、鋭い痛みが走る。頬に細い切り傷、血が伝うが致命傷ではない。
舞い上がった土埃の向こうから、あの黒い悪魔が現れた。
黒く丸くツルツルとした顔面に刻まれたかのような赤い双眸が、土埃の中でぼんやりと光る。最初は蜃気楼のようにぼやけていたその輪郭が、ゆっくりと、だが確実に浮かび上がってくる。無機物で無表情な顔面に刻まれた冷酷な線。全身から放たれる殺意の気配が、空気を震わせ、周囲の煙を裂くように押しのけて進む。重さを感じさせないのに存在感だけが異様に大きい。足音はしない。それが逆に不気味さを増幅させる。
「チッ……チェックかよ。」
思わず口から漏れた言葉は、自分でも意外なほど落ち着いていた。だが、背中には冷たい汗がじわりと流れ、シャツが張りつくのを感じる。気が付けば、俺は三階建てのレンガ造りの建物の裏――行き止まりに追い詰められていた。右も左も高い壁、後ろは瓦礫の山で塞がれている。残るは、正面――黒い悪魔だけ。逃げ場などなく、後ろにも横にも避ける場所はない。
悪魔は腕を振り上げた。




