「これは一人の殺し屋の物語」Ⅱ
そのとき、背後から落ち着いた男の声が静かに響いた。
「お客様、お電話が入っております。」
振り向くと、黒いスーツにきちんとネクタイを締めた店員が、両手で受話器を差し出していた。ラウンジの奥に設置された壁際の固定電話の一つからは、長くたわむコードが伸び、床にかすかに影を落としている。薄暗い照明の中で、そのコードの黒光りがわずかに目を引いた。
俺は一瞬だけ目をそらし、手元のスマホを取り返すと、ズボンのポケットに軽く押し込んだ。片手で受話器を受け取り、指先でコードの重みを感じながら耳に当てる。
「おう、悪いな。」
軽く会釈して、声は低く抑えたまま。耳に伝わるのは、ラウンジ内の空気のわずかなざわめきと、カウンター奥で氷が触れ合う音だけだった。
受話器越しに、鋭く、切迫感のある声が響く。
『進道君、仕事の時間だ。』
その瞬間、俺の中で何かが切り替わる。さっきまで、ソファーに沈んでいた怠惰な時間。甘ったるい酒の香り、微かに香水が混じった空気、くだらないやり取り――すべてが一気に背景へと退き、脳内の中心にただ一点、冷たい現実だけが残る。
俺はわずかに息を整え、無意識に肩の力を抜いた。
「了解。」
声に迷いはない。静かだが、確かな決意が含まれている。ゆっくりと立ち上がり、ジャケットの裾を両手で整える。背後に視線を感じる。二人の女が、不思議そうにこちらを見ていた。少し前まで笑みを浮かべ、軽く絡んでいた仕草が、今は一瞬止まっている。
「え? もう帰るの?」
「ちょっとぐらい付き合ってくれたっていいじゃん。」
甘ったるく、挑発的な声が背中に届く。しかし、俺の呼吸は乱れない。わずかに鼻腔を通るアルコールと香水の混ざった匂いも、既に心を揺さぶることはない。俺は深く息を吸い込み、気配を整える。
左手でジャケットの内側をめくる。その下に隠していた黒い革のホルスター。冷たく、しっかりとした革の感触が、手のひらに伝わる。ホルスターの中には、艶消しの金属光沢を放つコルト・ガバメント.45。指先がわずかに触れるだけで、金属の冷たさが神経にじわりと伝わる。その瞬間、これから自分が取る行動、避けることのできない運命が確定する。
「……お客様?」
店員の声がわずかに震える。普段は落ち着いた物腰のまま、しかし今は確実に状況の変化に気づき、言葉が弱くなっている。ラウンジの照明に照らされ、彼の目がわずかに動く。女たちも同じく、表情の変化を見せた。笑顔は消え、目の奥に少しの警戒心と驚きが浮かんでいる。
俺は静かに、だが確実に、銃を引き抜いた。指先に伝わる金属の感触が、鼓動とともにリズムを刻む。周囲の空気が変わり、時間の流れもわずかに緩やかになったように感じる。床に置かれたグラスの微かな揺れ、ラウンジ内の空調が作る冷気の流れさえも、今はすべて自分の集中の糧となる。
呼吸をひとつ、整え、視界の端にちらりと映る二人の女の動きも把握する。片方は軽く体を引き、もう片方は唇をかすかに噛んでいる。警戒と不安が混じった小さな仕草に、ラウンジの緊張感はさらに増す。俺の体を流れる神経は全て、これからの行動に向けて鋭く研ぎ澄まされていく。
「悪いな。今から仕事始めるわ。」




