「少女」Ⅳ
痛みで霞んでいた俺の視界に、唐突に一枚の写真が差し出された。
鈍く光るアスファルトの上、呼吸もままならない俺の目の前に、無遠慮に押し付けられるようにして置かれたその紙切れ。
小さな指がわずかに震えているのを、俺は微かに感じ取った。いや、感じ取ったつもりになっただけかもしれない。脳が痛みと緊張で混濁している。
「……何ですかコレ?」
かすれた声を絞り出す。腹に食い込む重みは依然として消えていない。世里奈のヒールが俺の鳩尾を押し潰す感覚。息を吸い込もうとしても肺が重く、空気はうまく入ってこない。視界が波打つ。光と影が入り混じり、現実と幻の境が揺らぐ。だが、そんな俺の苦しみなど、彼女にはどうでもいいことなのだろう。
写真には、あどけない笑みを浮かべた幼い女の子が写っていた。
白いワンピースを着て、片手にアイスを持ちながら無邪気にカメラへ向かって笑っている。髪は肩にかかる程度で、年齢にすれば小学校に上がるかどうかといったところだろう。背景には柔らかな日差しが差し込み、公園のベンチや遊具がぼんやり写っている。無邪気で、穢れのない世界。俺が普段踏み込む暗黒とは、まるで隔絶された異世界だ。
(まさか……)
俺の脳裏に、嫌な予感が過る。だが、それを口にするより早く、世里奈の冷たい声が降ってきた。
「次の仕事だ。」
短く、無慈悲な宣告。声に感情はなく、ただ命令が放たれるだけ。俺の背中に残る痛みも、視界の揺れも、そんなものは一切彼女に届かない。
「……はぁー」
ため息が漏れる。痛みによる吐息もあるが、それ以上に、呆れと諦観の混ざった溜息だ。
仕事――俺にとっては日常に組み込まれた二文字。しかし、今差し出された対象が“子供”であることが、どうしても胸の奥にざらつきを残す。
(こんなに小さな子供を……ターゲットにしろってことか?)
職業柄、依頼対象に年齢も性別も関係ない。それは理解している。だが、純粋な子供を標的にするよう命令されて、「はい、わかりました」と即答できるほど、俺の人間性は壊れてはいない。少なくとも、今のところは。
「この子を守れ。」
「はぁ?」
思わず声が裏返る。守れ?殺せ、ではなく? 耳を疑う。俺の常識が揺らぐ。上司が冗談を言っているのか、それともこれは罠なのか。鳩尾に食い込む痛みが、現実であることを容赦なく証明する。
「守るって……理由あるんですか?」
反射的に口が動く。踏まれている状態でも、抗議の一つぐらいはできる。世里奈は、わずかに目を細め、冷笑を浮かべる。その視線は鋭く、こちらの心の奥まで見透かしてくるようだ。
「この子は内閣総理大臣の一人娘だ。守れ。」
「なっ!」
内心、驚きが走る。だが顔には出さない。左手首に神経を集中させる。実は腕時計に仕込んだ小さな糸鋸で、音を立てずに手首の拘束を切っている。細くて硬い縄の感触が指先に伝わるたび、緊張と痛みで手が震えそうになる。
「俺の専門は殺しですよ。子守りじゃないっすよ。」
と軽く抗議する。鳩尾の痛みは残るが、抗議ぐらいは許されるだろう。
糸鋸を慎重に操作し、手首の縄を少しずつ切っていく。指先に伝わる微細な感触に神経を集中させる。息を整え、体の揺れを最小限に抑えながら作業を進める。
そして、ついに――
手首を拘束していた縄が、静かに切れた。




