「少女」Ⅲ
「悪いな! 今日は世里奈さんに大事な用、おつかいを頼まれてたの思い出したわ!!」
と振り返りもせず、片手をヒラヒラと後ろに振りながら俺は歩き出した。口から出まかせの嘘だが、あえて軽口めかして言った。
この嘘は、昨日世里奈から散々に言われた嫌味への、ささやかな仕返しでもある。俺の心の奥に燻っていた小さな反抗心。それをあの場で爆発させるわけにもいかず、今こうして遠回しな報復にしているのだ。
(くくく、ザマァ見ろ。昨日はさんざん俺をこき下ろしやがって……傷ついた男心を持て遊んだ罰だぜ。)
本人に直接言う勇気なんてない。だが、心の中くらいは自由だ。そこでくらいは強がってもいいだろう。だから俺は笑みを隠しながら、堂々とした足取りで街へと歩き始めた。
昼下がりの通りは、人の流れで賑わっている。スーツ姿の会社員、買い物袋を提げた主婦、スマホに夢中の学生。誰もが自分の生活に忙しく、俺の存在など気にもしない。そんな雑踏の中に紛れ込む感覚は、奇妙な安堵を与えてくれる。
(……久しぶりの自由だな。)
胸の内にそう呟いた瞬間、肩の力が抜け、思わず小さく息をついた。上司の目も、仲間の視線も、今はない。自由を謳歌できる――そう思ったのは、ほんの一瞬だった。
その安堵は、たった数分で無残に打ち砕かれる。
「何か言い残すことはあるかな、進道進君?」
背後から低く、しかしはっきりと響く女の声。背筋を凍らせるその声色を俺は知っている。
「……いや、世里奈さん違うんすよ。別に逃げたわけじゃないんですよ。ただちょっと用があるのを思い出して……」
気づけば俺は人ごみの中から消えていた。いや、正確には連れ去られていた。つい三十秒前まで大通りを歩いていたはずなのに、次に意識がはっきりした時には、薄暗い路地裏の地面に転がされていた。
鳩尾に強烈な一撃を食らい、肺の中の空気を無理やり吐き出させられた状態で、両腕と両足は素早く縛られている。目の前に立つのは、冷たい瞳を光らせた世里奈。その存在感に、路地裏の空気がさらに冷たく思えた。
「ほう、言ってみたまえ。その“用”と言うやつを。」
視線は氷のよう。俺を見下ろすその目は、逃げ道を一切許さない。
「えっと……あれっ? ド忘れ。」
わざとらしく惚けてみせる。だが次の瞬間、鋭い衝撃が腹に走った。
ドボッ!
「ヴっ……!」
世里奈の蹴りが鳩尾にめり込む。身体がくの字に折れ、胃の中が逆流しそうになる。呼吸が奪われ、視界が一瞬白く霞んだ。
「君は逃げる時になぜ私の名前を口にした。」
冷徹な声と同時に、彼女の足が俺の腹を踏みつける。細身の体からは想像もできない力。踵が鳩尾に沈み込み、骨が軋む音すら聞こえる気がした。俺は必死に声を殺し、歯を食いしばる。
「……いや、急に世里奈さんが恋しくなりまして。」
痛みを誤魔化すため、思わず軽口が漏れた。ほんの冗談のつもりだった。だが――。
「なっ……!」
世里奈の顔が赤くなり、わずかに歪む。だがそれは羞恥ではなく、怒りだろうと俺はそう思った。
前よりも遥かに強い力で、腹を踏み抜かれるような衝撃。
「ぐぅっ……!」
内臓が揺さぶられ、視界の端が赤く滲む。
(あっかーーーん、しまった! つい口説いてしまった……殺される!)




