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第8話「魔族の「誇り」と、前線に届かない食料」

 補給帳簿の突き合わせを始めて三日目の夜に、数字が合わなくなった。


 合わないこと自体は珍しくない。この城の帳簿は、つけている者が足し算を間違えていることもあれば、そもそも記録する習慣がないこともある。


 蝋燭の灯りの下で、三ヶ月分の補給記録を並べた。前線への食料輸送、一割五分の目減り。武器の補充、一割二分。回復薬の配分、一割八分。出荷記録は正しい。受領記録も正しい。だが途中で、毎月ほぼ同じ比率だけ消えている。


 消える場所は毎回、同じ管轄を通過した後だった。


  *


 翌朝の定例会議に向かうと、幹部が八人、長机の周りに立ったまま怒鳴り合っていた。議題は前線の槍兵への食料配分だった。


「足りないなら奪え。それが魔族だ」


「その奪う相手がもういないから足りないんだ」


「ならば飢えて死ね。自力で食えん弱者は不要だ」


「兵が飢え死にしたら前線が崩れるぞ」


「前線が崩れれば人間どもが進軍してくる。向こうから奪える相手がやって来る」


 最初の発言者が頷いた。


 私は杖で床を一度叩いた。八人が黙った。黙っただけで、座らない。


「座りなさい」


 八人が座った。一人だけ、奥の壁際に腕を組んで立ったままの影がある。角が太く、他の幹部より頭半分高い。グロムバルトだった。


「今朝の議題は前線への食料配分だけど、先にこれを見てほしい」


 帳簿の写しを机に広げた。三ヶ月分の補給記録。出荷量と受領量の差を赤い線で結んである。


「出荷記録と受領記録の差が、毎月一割から二割ある。消えた分の行き先が帳簿にない」


 幹部たちが紙面を覗き込む。数字を読んでいるのか、模様として眺めているのか、判別がつかなかった。


「これは——」幹部の一人が口を開いた。「術式の話ですか」


「数字の話よ」


「数字は、その……我々にはあまり」


「読めなくていい。この赤い線の分だけ、前線に届くはずの食料が消えている」


 幹部が口を閉じた。


 壁際のグロムバルトが、腕を組んだまま鼻を鳴らした。


「魔王様」


 低い声だった。


「帳簿を並べて数字を追うのは、人間のやり方だ」


「補給の過不足を調べることに、人間も魔族もない」


「ある」


 グロムバルトが壁から背を離した。一歩前に出ただけで、幹部たちの肩が僅かに縮んだ。


「魔族は誇りで戦う。帳簿で戦うのではない。前線に必要なものは、強い者が運び、弱い者が受け取る。それが千年続いてきた」


「千年続けた結果がこれでしょう」


「届かないのは、届ける者が弱くなったからだ。仕組みの問題ではない」


「では聞くけれど、この三ヶ月で消えた補給物資——食料、武器、回復薬、合計で銀貨に換算して四百枚相当——これも、届ける者が弱かったから消えたの?」


 間があった。


 幹部たちの視線がグロムバルトに集まり、すぐに散った。誰も口を開かなかった。


 グロムバルトの表情は変わらなかった。


「補給の管轄はわしだ。前線に届くべきものは、届いている」


「帳簿上は、届いていない」


「帳簿が間違っている」


「では正しい帳簿を出してもらえる?」


「帳簿など、ない」


 グロムバルトは腕を組んだまま、こちらを見据えていた。


「魔族の補給は、信頼で回る。数字で回すものではない。魔王様が人間の流儀をこの城に持ち込むのは自由だが、わしの管轄に手を出すことは許さん」


 幹部たちが、机の上に広げた帳簿の写しから一人ずつ手を引いた。


  *


「もう一点」


 グロムバルトが踵を返しかけた背中に向かって言った。


「第零系統保守費。毎月の支出が固定額で計上されている。この費目の内訳を確認したい」


 グロムバルトの足が止まった。


 振り返らなかった。だが止まった。


「触れるな」


 声の温度が、一段下がっていた。


「予算の見直しには全費目の確認が——」


「第零には触れるな。それだけだ」


 足音が遠ざかった。幹部たちは誰も顔を上げなかった。長机の上に広げた帳簿の写しが、開いた扉からの風で端がめくれた。


  *


 夕方、前線から交代で戻ってきた兵の中に、片足を引きずっている老兵がいた。城の廊下で書類を抱えた私とすれ違い、一瞬だけ足を止めた。


「魔王様。補給の帳簿を調べているという話は聞いた」


「ええ」


「グロムバルトの管轄に手を出したとも」


「出した」


 老兵は松葉杖の先で床を一度叩いた。


「あいつは盗んでいるよ。前線の連中はみんな知っている」


「なぜ誰も止めないの」


 老兵の目が少しだけ遠くなった。


「……昔は違ったんだ」


 老兵は片足の重心をずらし、壁に肩を預けた。


「二十年前。あいつは誰よりも前線に物資を運んでいた。雪の中でも、魔獣の群れを抜けてでも。補給が届かなくて死んだ仲間を、あいつが一番多く背負って帰ってきた」


 老兵は壁に預けた肩を少しだけ起こした。


「いつから変わったのかは知らん。ただ——あいつが毎晩、古い帳面を開いているのを見たことがある。中身は知らん。誰にも触らせないぼろぼろの名簿だ」


「あの帳面を開いているときだけ、あいつは昔の顔をしている。仲間を背負って帰ってきたときと、同じ顔だ」


「何の帳面か分かる?」


「知らん。だからまだ、完全には見限れんのだ」


 老兵はそれだけ言って、足を引きずりながら廊下の奥へ消えた。


  *


 深夜。書類を片づけに倉庫へ向かう途中、小部屋の隙間から灯りが漏れていた。


 覗くつもりはなかった。だが扉が開いていた。


 グロムバルトが机に向かっていた。蝋燭が一本。その灯りの下で、何か薄い帳面を開いている。頁をめくる手の動きが遅かった。朝の会議で机を睨んでいた男と同じ腕とは思えないほど、ゆっくりと動いていた。


 手が止まった。頁をめくらなくなった。蝋燭の蝋が垂れて固まる間、同じ頁を開いたまま動かなかった。


 足音を立てないまま、その場を離れた。


 自室に戻り、「要監査」と書いた書類の束を引き出しから取り出した。第零系統保守費の支出記録。第零区画優先の黒い印。そこに一行書き足す。


「グロムバルト——名簿(内容不明)。老兵は見限っていない。整合しない」


 蝋燭の芯が燃え尽きかけて、炎が一度大きく揺れた。


 灯りが落ちた。寝台の上で天井を見上げた。暗闇の中に、天井の染みが一つずつ浮かんでいた。


 グロムバルトが頁をめくらなくなったときの、あの背中の形を、まだ覚えていた。

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