第5話「魔王討伐失敗。残されたのは大量の請求書でした」
宿場町の門をくぐったところで、ルークスが振り返った。
「よし。二、三日休んだら、もう一回行こう」
ランバルトが腰を押さえたまま足を止め、フリージアは杖を持ち直し、メリノが鞄の紐を握り直す。誰も返事をしなかった。
「な、なんだよ。気合入れ直せば——」
「ルークス」フリージアが前を向いたまま言った。「帰還アイテム、使ったよね」
「使った。システィナが起動した」
「使用費、いくらか知ってる?」
門番が欠伸をしている。街道を抜けた風が砂埃を巻き上げ、ルークスのマントの千切れた裾を揺らした。
「……いくら?」
「知らない。いつもシスティナが払ってたから」
四人の視線がこちらに集まる。
鞄を開けて革の手帳を引き出した。ページをめくると数字の列が現れる。日付、項目名、金額、支払先。細い罫線の間に詰め込まれた文字は読めるが、項目名はすべて略称で、「帰A」「修甲」「宿差」「罰G」「精遠」と並んでいるだけだった。どの行が帰還アイテムの費用なのか、目で追っても見当がつかない。
「……少し、待ってくれ」
ページをめくり直した指が「帰A」の行で止まる。横の数字は桁が多い。わらわの知っている金貨の数え方では、こういう数字は城の修繕費に使うものだった。
「システィナ?」
「——高い」
「いくら?」
数字を読み上げた。ランバルトの手が腰から離れ、メリノが鞄の中を覗き込んだ。フリージアだけが何もせず目を閉じていた。
「それ、五人分?」ランバルトが聞いた。
「一人分……だと、思う」
「思う?」
「……まだ、頭が回っていない」
フリージアが目を開けてこちらを見た。視線が手帳の持ち方に落ち、すぐに戻る。
「前は全部暗記してたのに」
「後遺症だろ」ルークスが割り込んだ。「魔王城の。メリノも言ってたじゃないか」
フリージアは何も言わなかった。風が止んで、門の向こうから荷車の軋む音だけが聞こえていた。
*
宿場町の中心通りを歩くと、蔦の這った壁に掲げられた看板が見えてきた。鎧戸は片方だけ開いている。
その看板の下に、腰に手を当てた女が立っていた。前掛けを締め、腕を組んでこちらを見ている。目が据わっていた。
「おかえり、勇者様」
声だけは穏やかだった。
「マルタさん! ただいま帰——」
「宿代」
ルークスの口が開いたまま止まった。
「三泊分。出発前に『帰ったら払う』って言ったの、覚えてるわよね」マルタは腕を組んだまま続けた。「それと前回の二泊分、その前の一泊分。合わせて六泊。乾燥室の使用料が二回、朝食の追加注文が四回、ランバルトさんの腰痛用の湯治桶の貸し出し料が一回」
前掛けのポケットから紙が一枚出てきた。折り目がきっちり揃っている。
「合計、これ」
差し出された紙をルークスが受け取り、見て、顔を上げ、もう一度見た。裏返して白い裏面を確認してから、表に戻す。
「……これ、全部?」
「全部。利息はつけてない。あたしは優しいから」
ランバルトが横から紙を覗き込んだ。眉が動き、片手が無意識にベルトの留め具を握った。
「ルークス。お前、最後の出発前にここで限定装備のカタログ取り寄せてなかったか」
「え?」
「カタログ取り寄せの手数料」マルタが言った。「請求書に入ってるわ。届いたカタログは部屋に置いてある。読みたかったら宿代を払ってから」
通りを荷馬車が一台通り過ぎていく。蹄の音が遠ざかり、土埃が薄く舞い上がって沈む間、誰も口を開かなかった。
マルタの視線がわらわに移った。
「システィナちゃん。いつもあんたが計算してくれてたから、こっちも待ってたのよ。今回はどうするの。分割? それとも一括?」
手帳を開いた。「帰A」の数字と、マルタの請求書の数字。足せばいいのは分かる。だが手帳の「宿差」の列にある数字とマルタの数字が一致しているかどうか、それを確かめる方法が分からない。略称の意味も、記入の規則も、この体の持ち主の頭にしかない。
「……少し」
「少し?」
「……確認に、時間を」
マルタが腕を組み直した。
「あんたが確認に時間がかかるの、初めてね」
フリージアが一歩前に出て口を開きかけたが、マルタのほうが早かった。
「体調が悪いんでしょう。聞いてるわ」前掛けの紐を引き直しながら、声の硬さが少しだけ緩んだ。「——まあ、三日は待つ。三日。それ以上は、あたしも商売だから」
背を向けて宿の中に消えていく。鎧戸の隙間から帳場の灯りがちらりと揺れた。
*
通りの端にある井戸の縁に座って、手帳を膝の上に広げた。革の表紙が日差しに温まっている。
ルークスが隣に立った。
「帰還アイテムの費用と、宿代と、あと何がある?」
手帳をめくる。「修甲」は装備修理費だろう。ランバルトの盾の凹み、フリージアの杖の亀裂、メリノの鞄の留め具。そしてルークスの剣——柄しか残っていない剣に、修理費がいくらかかるのか。直す刃がないものを直す見積もりは、手帳のどこを探しても見つからなかった。
「罰G」はギルド報告書の未提出罰金。欄外に赤い字で「帰還後五日以内」と書いてある。五日。今日が一日目だとすれば、あと四日。
「精遠」。手帳に薄紙が一枚挟まれていた。引き抜くと、印刷された記入欄が三十以上並んでいる。略称は手帳の本文よりさらに細かく、一つも読み解けなかった。
手帳を閉じた。井戸の石の冷たさが腿に伝わっている。
「全部でいくらになる?」ルークスが聞いた。
「分からない」
「分からないって——」
「分からない」
二度目は声が低くなった。この体の喉が出す高さではなく、わらわ自身の声に近い響き。
ルークスは口を閉じた。井戸の向こう側でランバルトが腰を下ろし、石の縁に片手をついて息を吐く。
「どれだけ金が要るか分からなくても、一つだけ確かなことはある」
「何だ?」ルークスが聞いた。
「金がなければ、魔王城には戻れない」
風が止んでいた。井戸の綱が柱に当たる小さな音がして、それきり静かになった。
「……稼がないと駄目ってことか」
「そういうことだ」
「冒険に行く金を稼ぐために、冒険に行くのか」
ランバルトはそれには答えず、井戸の縁に手をついて体を起こした。
「ギルドに行こう。依頼を探す」
ルークスが井戸の縁を掌で叩いた。
「分かった。稼ぐ。稼いで、装備直して、報告書出して、宿代払って、それからもう一回——」
「まず稼ぐところからだ」
ランバルトが先に歩き始め、フリージアとメリノが続いた。三人の足音が石畳の上で重なり、少しずつ遠ざかる。
ルークスだけがまだ井戸の横にいた。こちらを見て、笑った。目が細くなって、歯が見えていた。
「システィナ。お前がいないと、何がいくらかも分かんねえんだな」
わらわは手帳を鞄に戻した。手帳の角が掌の豆に当たる。硬い豆。この体の持ち主が毎日この手帳を開いて、数字を書き、略称を作り、一人で全部の支払いを管理していた。その人間がいなくなった途端に、五人の冒険者は請求書の一枚目すら読めなくなる。
立ち上がって、四人の背中を追った。
ルークスの背で、千切れたマントの裾がまだ揺れている。




