第3話「魔王ノジャリア、システィナと入れ替わる」
帰還の光が消えた通路の奥を、粉塵がゆっくりと埋めていく。石片が白く降り積もっていく音だけが、玉座の間に流れ込んでくる。それ以外の音はもうない。
五人の姿が消える直前のことを、まだ見ている。
崩落の瞬間、盾役は腰が折れかけた体を割り込ませた。魔法使いは噛みながら杖を振った。治療師は、毛玉に伸ばしかけた手をあの女の方へ切り替えた。勇者は柄だけの剣で石を叩いた。四人の体が向いていた先は同じだった——あの女。あの女が「撤退する」と言っただけで四人は黙り、あの女を中心に、円を描くように立ち位置を変えた。
あの女は何もしていない。手帳に書いて、薬を数えて、罠を調べて、立ち位置を決めていただけ。それだけなのに、四人はあの女がいないと形を保てない。あの女の周りにだけ、人が自分から集まってくる場所ができている。
通路の奥で、帰還の光の残滓がまだ薄く揺らいでいた。転送魔法の波紋が、崩落した石の隙間でちらちらと散っている。もう長くはもたない。
玉座を振り返った。広い部屋に、椅子が一つ。誰も来ない。誰かが呼びに来ることもない。この部屋で待っていれば次の勇者が来て、また同じことが起きる。それだけ。
玉座から立ち上がった。杖を取って、通路の入り口まで歩いた。光の残滓に手を伸ばすと、掌の先で粒子が弾ける。消えかけている。
禁じられた秘術がある。魔王の血脈に伝わる、使ってはならないと記された術。望まぬ限り、誰にも戻せない。代償が何かは知らない。調べたこともなかった。
でも、それでよかった。
欲しかったのは、あの場所だから。四人が黙って集まってくる、あの真ん中の場所だから。
術式を編んだ。消えかけた帰還の光に、自分の魂ごと押し込んだ。
光が弾けた。
*
天井が高い。石造り。燭台の灯が遠く、柱の影が床に長く伸びている。
見覚えのない天井だった。
首が重い。肩幅が違う。手を持ち上げると、指が長く、爪の形が私のものと合わない。掌が一回り大きい。
背中に硬い石の感触がある。幅の広い肘掛け。座っている。玉座だった。
立ち上がろうとして、膝の高さがずれた。脚が長すぎる。重心が高い。一度座り直してから、肘掛けに手をついて立った。
足元に杖が転がっている。黒い柄、鈍い装飾。魔王の杖。
帰還アイテムを握っていたはずの手を見た。何も持っていない。帰還アイテムは私の体と一緒に転送されている。あの体と、あの体の中に入った何かと一緒に。
通路の奥から声が届いた。
私の声だった。私の喉から出る音。ただし語尾の伸ばし方が違う。間の取り方が、私のものではない。
「礼を言うぞ。その席、わらわがもらうのじゃ」
帰還の光の最後の粒子が通路の天井付近で漂っていた。その向こうに、私の体がいる。
「わらわはそなたの場所へ行く。そなたの仲間と一緒におる。……ずっと欲しかったのじゃ。呼べば振り向いてくれる、ああいう場所が」
光が薄れていく。声が遠くなる。
「あとは任せたのじゃ!」
光が消えた。粉塵が通路の床にゆっくり沈んでいく。
玉座の間に、私以外の足音はなかった。燭台の灯がわずかに揺れて、柱の影が床の上を這う。帰還の光があった場所に、何も残っていない。
鞄がない。帰還アイテムと一緒に転送された体の側にある。手帳も、腰痛薬の予備も、ランバルトの次の補充スケジュールも、フリージアの詠唱メモ用紙の在庫表も、全てあの鞄の中だった。
*
杖を拾った。柄に錆。装飾の一部が欠けて、下地の木が露出している。持ち上げると軽い。見た目に比べて中身が伴っていない。
この体の歩幅を確認するため、玉座の間を端まで歩いた。三歩目で慣れた。足音が柱の間に反響する。
通路の入り口まで行った。崩落した石が通路の半分を塞いでいる。壁の燭台は三つに一つしか灯っていない。残りは蝋が切れたまま放置されている。足元の砂利も掃かれていない。
振り返った。玉座の間——壁の石組みに罅、柱の根元に水染み、背後の壁掛けは端がほつれて退色している。城全体の維持管理が止まっている。
壁際に棚。棚板が一枚傾いていて、その上に帳簿が積まれていた。一番上は表紙が破れかけ、背表紙の糊が剥がれている。二冊目はもっとひどい。三冊目には表紙そのものがない。
一冊目を開いた。
会計記録。日付の記載なし。項目名が三ページ目から略語に切り替わっているが、凡例がどこにもない。金額の列に空欄が三行、四行目に数字はあるが通貨単位の記載なし。五行目は前の行の十倍の金額で、項目名は同じ。次のページ、白紙。その次のページに別の筆跡で別の支出が並んでおり、前のページとの連続性はない。
二冊目。補給記録。入荷日と出荷日はある。ただし入荷日より前の日付で出荷が記録されている項目が四件——届く前に出した物資が四種類存在する計算になる。在庫数の列は七ページ目で途切れ、最後に記入された数字はマイナス十二。
三冊目は命令系統の記録帳。命令者の欄に「たぶん魔王様」。命令内容の欄に「いつものやつ」が七行連続。その下、命令者も内容も空欄のまま、結果欄にだけ「済」の一文字。何が済んだのか、誰の命令で、誰が済ませたのか。一切不明。
棚の帳簿を全て下ろした。十四冊。うち三冊は表紙なし、二冊は虫食いで見開きの半分が判読不能、一冊は水濡れでインクが全て潰れている。
残る八冊を玉座の前の床に並べた。会計、補給、命令、人員配置、戦力報告、戦闘記録、施設維持、外交。記入方法が統一されているものは一冊もなかった。人員配置では同一人物が二つの部署に同時所属している。戦力報告では三ヶ月前に壊れたと記録された投石機が、先月の戦闘記録で使用されている。戦闘記録のほうには結果だけが「勝ち」と一文字で書かれ、損耗も負傷者数も記載がなかった。外交の帳簿は最後の記入が二年前で止まっている。
八冊を順に閉じた。この記録で軍が回っていた。先ほどまで勇者一行を迎え撃つだけの戦闘力を持った軍が、この帳簿で動いていた。
施設維持の帳簿を開き直した。
他の帳簿とは明らかに異質な項目がある。帳簿全体は同じように崩壊しているが、三つの支出だけ筆跡が安定していた。
旧戦時区画維持費。封印魔力供給費。第零系統保守費。
三つとも、何の費用なのか記載がない。だが金額は端数まで正確で、支払い日は月ごとに一日の狂いもなく記録されている。他の全てが壊れている帳簿の中で、この三行だけが几帳面に息づいている。
帳簿を閉じた。
杖を床に突いた。乾いた音が柱の間を走って消える。
玉座に戻り、座り直した。肘掛けの片方に爪の跡。先ほどまでここにいた者がつけたもの。
魔王の身体、魔王の杖、魔王の玉座。この三つがあれば、この軍に命令は通る。魔王の身体にある魔力を戦闘に使えるわけではない。だが組織を動かすために要るのは魔力ではなく、書式と数字と伝達経路、誰が何をいつまでにやるかの一覧表。
棚の奥に、乾きかけたインク壺と先の割れたペンが一本。ペンの先を爪で押さえて直し、インクをつけた。割れた分だけ線が太くなる。
帳簿の最後のページを開いた。唯一残っていた白紙。
日付を書いた。項目名の欄に、四文字。
現状把握。




