80話 3つの歯車_3
茜ちゃんと二人部屋は、一人減ったはずなのになぜか余計に狭くなったような気がした。
碧ちゃんがいる時は、茜ちゃんの理不尽を翠の代わりに引き受けてくれていた。だけどその碧ちゃんがいなくなってしまったから、翠は茜ちゃんの機嫌を窺いながら、茜ちゃんの言う通りに過ごすしなかった。
碧ちゃんのことがあって会社から強制解雇された茜ちゃんは、ますますギャンブルとお酒と煙草に溺れる日々。
茜ちゃんのことは心配だけど、翠は何も言えないまま部屋の隅でその様子を見ていた。
それから少しの時が流れて、二人だけの生活もなんとか回るようになった頃。
翠が中学3年生になった時、恐る恐る進路の相談をすると、茜ちゃんは思いもよらないことを言った。
「翠、お前は百合ヶ原へ行け」
百合ヶ原高校、それは碧ちゃんが通っていた高校でもあった。
なんで百合ヶ原高校なのか、その理由を翠は聞けないまま、茜ちゃんが言った『絶対に合格しろ』の言葉通り、ただひたすらに勉強した。
碧ちゃんのことがあって友達は一人もいなくなっていたから、勉強する時間には困らなかった。リサイクルショップで問題集を買って、図書室で勉強して、泥酔する茜ちゃんの隣で小さくなって寝る。そんな毎日。
でも神様はそんな翠の頑張りを見てくれていたのか、百合ヶ原高校へ特待生で合格することができた。
その時ばかりは茜ちゃんも凄く喜んでくれて、最近はすっかり買ってくれることが無くなったプリンをケーキ屋さんで選ばせてくれた。まるで昔の茜ちゃんが戻ってきてくれたみたいで、翠はそのプリンを食べながら思わず泣いてしまった。
そしてちょうどその頃、碧ちゃんが出産したという報告もあった。
碧ちゃんの子供は女の子で、それを聞いた茜ちゃんは全身で歓喜した。
「ざまーみろ! 碧から男が生まれるわけないだろうが!」
茜ちゃんは喜んでいたけれど、翠の気持ちは複雑だった。
だってそれは、一生碧ちゃんが刑務所から出てこれないということでもあったから。
それに生まれた女の子だって、お母さんである碧ちゃんに会うことなく、どこかの孤児院に入る未来が確定している。産まれたその女の子には、罪はないはずなのに。
そのどこに喜ぶところがあるのか、翠にはぜんぜん分からなかった。
翠が無事高校に入学してから、茜ちゃんは前より翠と話してくれるようになった。
だけどそれは男の子の話ばかりで、ギャンブルのお友達と情報交換と称して変な会合に行っているみたいだった。翠にも学校にいる男の子のことばかり聞くし、犯罪紛いのことも気にせず話すものだから、いつか碧ちゃんと同じようにプラスチックの壁の向こうに行ってしまうんじゃないかと翠は怖かった。
翠のクラスには男の子はいなかったし、翠自身、男の子というものをテレビでしか見たことがない。だからどうしても、物語や空想で出てくる伝説の生き物みたいにしか思えない。
そんなのに夢中になる茜ちゃんのことも理解してあげたかったけど、翠には難しかった。
「……茜ちゃんは、翠を置いていかないよね?」
だからそんな話になる度に、翠は茜ちゃんにそう聞く。
「心配するな、碧と違って私は翠を置いていかない。ずっと一緒だ」
茜ちゃんはそう言って、翠をぎゅっと抱きしめてくれる。
タバコとお酒と、埃の匂い。
昔の茜ちゃんがどんな匂いだったのかすっかり忘れてしまったけれど、ただ茜ちゃんが抱きしめてくれたというだけで、翠は泣きそうになってしまうのだった。
百合ヶ原に通いながら、しばらく平和な時間が過ぎていって。
来週は高校生になって初めての文化祭で、翠のクラスでは焼きそばを売ることになった。
友達がいなくても準備は楽しくて、つい鼻歌を口ずさみながら家に帰ると、茜ちゃんは翠を待ち受けていたかのようにテーブルの前に座っていた。
さっきまでのご機嫌はすぐに無くなってしまって、なんだか嫌な予感がしながら茜ちゃんの正面に座る。
「翠、男を襲うぞ!」
急にそんなことを言うと、ばん! とテーブルの上に何かを叩きつけた。
机の上には小さなポリバックがあって、その中にはピンク色の錠剤がいくつか入っていた。
「……なに、これ」
「これは感度3000倍になる薬だ」
「さんぜんばい?」
「男が飲めばたちまちいきり立ち、傍にいる女を襲いたくて仕方が無くなる、そんな薬だ」
翠はとうとう茜ちゃんがおかしくなってしまったと、ショックを受けていた。
「……これ、どうしたの?」
「パチの知り合いに譲ってもらった。心配するな、女には効果がない」
心配なのは茜ちゃんの方だけど、とは言えないまま茜ちゃんは話を続ける。
茜ちゃんは百合ヶ原高校文化祭のステージに男の子が出ることを聞きつけていた。それは結構大きな話題で、もちろん翠のクラスでも周知の事実だった。
今年は男の子があんまり入学しなかったみたいで、男の子も男性枠もいない翠のクラスでは、ほとんどの人が絶対見に行く! と息を粗くしていて、翠にはその異常な熱気が理解できなかった。
「む、無理だよ。絶対警護官がいるに決まってるよ」
「ふふふ、問題ない。実は私も百合ヶ原出身でな……翠は体育館準備室の一角に秘密の部屋があるのを知ってるか?」
「秘密の部屋……?」
「少し前……男女比がまだマシで、男の人権がそこまで整備されていない時代の話だ。当時の生徒会が、男を連れ込んで行為をするためだけの部屋を学校内にいくつか作った。いわゆる昔の名残ってやつだな」
得意げに話す茜ちゃん、だけど話の流れが良くないことだけは分かる。
「そ、そんな話聞いたことないよ、今あるかもわからないのに」
「いや、もう確認した」
「え?」
茜ちゃんはスマホを取り出して写真を見せてくれた。そこは確かに翠も見たことがある、百合ヶ原の体育館準備室だった。
「茜ちゃん、百合ヶ原に行ったの……?」
「見ろ。部屋の隅に小さな突起があって、これを引っ張りながら壁を押すと、人一人が通れるくらいの隙間が現れる。その中に小さな部屋があるんだ」
翠の質問を無視して、茜ちゃんは一枚一枚画像を見せてくれる。確かにその隠し扉の向こうには何もない小さなスペースがあった。
「中に毛布を用意した。ヤるだけなら十分なスペースだ」
「……ム、ムリムリムリ! 第一どうやってここまで男の子連れてくるの!?」
「そこは心配するな、私の中に完璧な作戦がある。翠は当日、この部屋で待ってくれればいい」
これだけは止めないといけない、翠はそう思った。それじゃないと茜ちゃんまで会えなくなってしまう。
「や、やだよぉ! 茜ちゃんまで捕まるなんてぇ!」
「おいおい、私が捕まるはずないだろう。万が一捕まったとしても、翠が男の子を産んで、私の保釈金を払ってくれれば数年で出てこられるはずだ」
「もし男の子が生まれなかったら!? 翠には無理だよ!?」
「いや、生まれる。翠は良い子だからな、神様もきっと見てくれるはずだ」
翠を信頼するその声だけは、まるで昔の茜ちゃんのようで……今更お姉ちゃんを出してくるのはひたすらにずるかった。
「心配するな、翠は当日ここで待機しているだけでいい、そうすれば全部上手くいくんだ。私達の人生はここから始まるんだ」
翠がいくら訴えても、茜ちゃんは何一つ聞いてくれなくて……その瞳はプラスチックの壁の向こうにいた碧ちゃんとどこか似ている気がした。




