79話 3つの歯車_2
「翠、準備はいいか」
「う、うん……でも茜ちゃん。本当にやるの?」
「何弱気になってんだ、今更止めるなんて出来ん。それとも碧の味方か?」
「…………」
小さな部屋、うっすらとカビの匂い。
そんな部屋の中に、茜ちゃんの怒りに満ちた声が響く。翠はその火傷してしまいそうな真っ赤な怒りが怖くて、声すら出なかった。いなくなってしまった碧ちゃんのことを言われると、なおさら身体が震えてくる。
「翠、男さえ産めば全てが変わるんだ。こんな狭い部屋に住まなくたっていいし、芋とかパンとかじゃなくて肉だって毎回食べられる。翠の好きなプリンだって食べ放題だ! そんな生活がしたくないのか」
「翠は、茜ちゃんがいれば……」
「えぇい! 翠、腹を括れ! 私らにはもうそれしか方法はねぇんだ!」
茜ちゃんの大きな声に、ドンドン! と隣の部屋から壁を叩く音が聞こえる。茜ちゃんは一つ舌打ちをして座り直した。
「翠、なんのためにお前を百合ヶ原に入れたと思っている。すべてはこのため……翠が男を産むためなんだ」
「…………」
「碧に出来て私達に出来ないはずがない。それに翠なら絶対男の子が出来る。翠は良い子だから、神様だってきっと見てくれているはずだ」
茜ちゃんの燃えるような瞳は、翠のことを見ているようで見ていなかった。翠に分かるのは、奥底にある碧ちゃんへの憎悪だけ。
茜ちゃんが言う通りもし神様がどこかで見てくれているなら、どうかこの作戦が失敗しますようにと翠は祈った。
茜ちゃんは、碧ちゃんが高校生、翠が中学生になる時にはもう働きに出ていた。
3姉妹を一人で育ててくれたお母さんを支えるぞ! と茜ちゃんは沢山働いていて、逆にお母さんに心配されるくらいだった。忙しいはずなのに碧ちゃんや翠のお弁当を作ってくれたり、勉強を教えてくれたり、翠の誕生日には大好きなプリンを買ってきてくれたり……茜ちゃんは優しくて、頼りになって、翠の自慢のお姉ちゃんだった。
だけどお母さんが病気で死んじゃってから、茜ちゃんは少しずつおかしくなっていった。
たまにしか飲まなかったお酒を毎日飲むようになって、休日はギャンブルをしていることが多くなった。いつの間にか煙草を吸い始めていたし、翠達に話すのは仕事の愚痴ばかりで、前のように勉強を教えてくれることも無くなった。
碧ちゃんはそんな茜ちゃんの変わりようを見てられなかったみたいで、いろいろと文句を言って、それはやがて喧嘩に発展した。翠も茜ちゃんのことは心配だったけど、怒られるのが怖くて碧ちゃんみたいに言えなかった。
でもその時までは、翠たちはまだ姉妹だった。
碧ちゃんが茜ちゃんに文句を言うのも、『茜ちゃんは疲れているだけだから』と呟いていたし、茜ちゃんも翠の誕生日には忘れずにプリンを買ってきてくれる。
茜ちゃんも碧ちゃんも、翠にとってはお姉ちゃんで、大切な家族に変わりなかった。
だけど、それはただ翠が、3つの歯車の軋みを見て見ぬふりをしていただけかもしれなかった。
とある日、茜ちゃんの提案でもともと住んでいたマンションから引っ越すことになった。
引っ越し先は3人には狭すぎるワンルーム。布団を3組敷くと床はいっぱいになって、キッチンやお風呂も前と比較にならないくらい小さい。そしてなにより、古さが目立つアパートだった。
「姉妹3人、仲良く過ごすにはこのくらいの方がいいだろ」
茜ちゃんはそんなことを言っていたけど、家賃を払うお金が厳しくなったことは、翠にもすぐに分かった。
碧ちゃんはその部屋に我慢できなかったみたいで、茜ちゃんと激しい喧嘩をしたけど、結局茜ちゃんには勝てなかった。翠達は小さな部屋にぎゅうぎゅうになりながら住むことになって、前の家でのお母さんの思い出も、だんだんと朧気になっていった。
それから翠達の歯車は少しずつ、だけど確実に狂い始めた。
茜ちゃんはますます煙草とお酒の量が多くなったし、碧ちゃんは茜ちゃんを嫌って深夜まで帰ってこないし、顔を合わせたと思えば二人で喧嘩する。
翠は二人が喧嘩していても、ただ小さくなることしか出来なかった。布団の中で声を押し殺して泣きながら、その嵐が通り過ぎるのを神様に願うしかない。
それでもそんな日々が繰り返されると、否応なしに慣れていってしまう。
二人の喧嘩する声、煙草の匂い、雨漏りや壁を這う小さな蜘蛛、隣からの壁ドンがすっかり日常に溶けてしまっても、翠は変わらず学校に通っていた。
制服に煙草の匂いが染みついて友達と疎遠になったり、先生に呼び出されて注意されたりもしたけれど、二人がいるから翠はまだ大丈夫だった。
どんだけ歯車が狂ってもそこに三つの歯車が有りさえすれば、翠は我慢できたのに。
ある日、翠が中学校で普通に授業を受けている最中に、急に知らない先生に呼び出された。
訳の分からないまま先生の後についていって、職員室の隣にある個室へ入ると、中には教頭先生がいて難しい顔をしていた。
翠を椅子に座らせて、先生は重い口を開く。
「……落ち着いて聞いてください。彩野翠さんのお姉さん……彩野碧さんが、同じクラスの男性を襲ったそうです」
「……え?」
碧ちゃんが?
碧ちゃんから、男の子の話題なんて一回も聞いたことなくて、翠は混乱した。
なにかの間違いじゃと思ったけれど、状況は翠を置いてけぼりにしてくれなかった。
その後すぐに翠の学校に来たのは、怒り狂った茜ちゃん。
「あいつは何をやっているんだ!!!」
茜ちゃんは放心していた翠の腕をひいて車に乗せると、凄いスピードで走り出した。
翠は未だに信じられなくて、急ブレーキと猛スピードに全身を揺らされながら、いっそ全部が夢で、眼を開いたら前の家の布団の上で目覚めないかなと願った。
もちろんそんなことはなくて、留置所内、プラスチックの壁の向こう側にいる碧ちゃんと翠達は対面した。
「私はおこぼれを貰っただけだよ、たまたま空き教室を通りがかったら男が襲われててさ!」
碧ちゃんは手錠をじゃらじゃらと鳴らしながら、捕まったことなんて全然気にしていない様にそう話した。
翠は碧ちゃんも辛いはずと考えていたのに、捕まったという事実より男の子と行為をしたという感情に振りきれていた。その嬉々とする声が茜ちゃんの機嫌をさらに悪くしていることに、碧ちゃんは気づいていなかった。
「翼はもう気絶してたんだけど、後は好きにしていいって言われたから一番最後に私の中に入れさせてもらったんだ。正直もうふにゃふにゃだったけど、入れただけで頭がおかしくなりそうなくらいの幸せが襲ってきてさ!」
その生々しい初体験を、碧ちゃんは自慢するように話した。それはまるでこの世界の主人公になったかのようで、悪いことをしたとは少しも思っていなかった。
でも翠はその碧ちゃんの狂気よりも、握りしめた拳から真っ赤な血が流れて落ちている茜ちゃんの方が怖かった。
「ふざけるなぁ!!!」
碧ちゃんが話している途中、茜ちゃんは握りしめた拳をプラスチックの壁に叩きつける。
碧ちゃんは驚いたようにピタリと話を止め、部屋の隅にいた警察官が茜ちゃんを落ち着かせようとする。翠はただプラスチックの壁に付いた茜ちゃんの血を見ていた。
それでも碧ちゃんは、怒り狂う茜ちゃんを見てニターっと見下した笑いを浮かべる。
「あれ、いいの? 茜ちゃん。私が男の子産んだら、そんな口利けなくなるんじゃないの?」
「碧から男が生まれるなんて、そんなことあるわけないだろうが!!!」
「でも私の中にあるのは、若くて生きの良い種だよ。茜ちゃんが一生働いても手に入れられないような」
「碧っ!!! 貴様ーっ!!!」
暴れる茜ちゃんを、警察官の人が羽交い絞めにして無理やり退室させる。部屋から茜ちゃんの声が消えると、対面しているのは翠と碧ちゃんだけになった。
碧ちゃんはどこか満足したように息を吐いて、俯いたままの翠に小さく囁く。
「翠。翠は良い子だから、私が男の子産んだ時には一緒に住ませてあげるからね」
それはまるで碧ちゃんの中で確定している未来のようで――けれど翠はそれに頷くことはできなかった。
それからあっと言う間に碧ちゃんは終身刑を受けて、翠と茜ちゃんは歯車が一つ欠けた部屋に戻ることになった。




