43話 その蜘蛛の糸は輝いて_1
ある一人の男の子がいて、そして私、恋塚くるみはその男の子の唯一の幼馴染だった。
子供の頃、たまたま家が近かっただけ。出会った時の記憶なんてないけれど、小さな頃は仲が良かったらしい。その男の子のお母さんが私のお母さんと仲が良かったから、女の子に耐性を付けさせようと積極的に遊ばせたのも一つの理由。
毎週のように遊んで小学生になり、物心がつき始めて。
その男の子はいたって普通に、甘やかされて望むものを全て与えられながら成長し、やがて同じく成長した私を召使いみたいに扱いはじめた。
「おい、お腹空いたからお菓子もってこい」
「あー靴紐解けた。結べよ」
「お前いいの持ってるじゃん、もーらい」
その男の子には逆らえなかった。
私がお母さんに買ってもらったものは、ほとんどその男の子のもの。私が気に入った鉛筆も、小さなマスコットキーホルダーも、大切にしていた綺麗な石も。私の手元には1日もなくて、それが理解できるようになってから、お母さんにねだって買ってもらうのは男の子が気に入りそうなものになった。
私はいつでもその男の子の隣にいなきゃいけなかった。
そうじゃなきゃ男の子の機嫌は悪くなるし、ちょっと離れるだけでもすぐに怒って私に暴言を吐くから、一緒にいる間は常にその男の子の気を伺っていた。
さらに時は過ぎ小学校も高学年になり、私の扱いは良くなるばかりか酷くなっていった。呼ばれればすぐに行かないと怒鳴られるし、時間通りに行っても悪口を言われた。なにかと理由をつけて私に暴力を振るうし、それを男の子は楽しんでいるようにも見えた。私はいつも頬や身体の痛みに耐えながら、それでもその男の子の傍にいつもいた。
そんな私を見て、同じクラスの女の子は私のことを妬んだ。
「いつも男の子といられていいね」
「なんでもお願いされるってことは、それだけ信頼されてるってことでしょ」
「男の子がいないなら話しかけないでくれる? 興味ないから」
本当は他の子とも仲良くしたくて、頑張って話しかけたこともあったけど、みんなは私のことが最初から嫌いだった。男の子には話しかけても、私のことはまるでそこに存在しないみたいに無視をする。それがクラスの中でのルールだった。
「くるみには男の子がいるから、ちょっとのことは我慢しないとね」
担任の先生でさえそう言った。先生が言うならきっとそうなんだろう、そうじゃなきゃいけないって、私は思い込むようにした。
「あんたは上手くやったね、どーせあの男の種を貰うんでしょ」
いつしかお母さんも味方じゃなくなっていて、ぼろぼろになりながら家に帰った私にそう言った。
本当は嫌だなんて言えない。良かったと思ったことなんて一度もない。いつも身体は痛いし、酷い時は血も出る。それでも男の子は酷い言葉を浴びせてくる。でも私はにこにこしてそれを聞いていなきゃいけない。それが私がいる理由だから。
まるで私が望んでいるかのように、それだけが私の夢かのように、周りはそうもてはやす。
私はそんなこと、一度も望んだことがないのに。
それでも中学生になると、私にもその男の子の意味がようやく少しずつ分かってきた。
男の子は貴重、いるだけで幸運。まして話してもらえるなんて滅多にないこと。
中学に上がっても私とその男の子の距離は変わりなく、暴力や暴言は日常に混ざってしまい気にならなくなっていた。なんなら、ほんの少しの優越感でさえ私の中には芽生えていた。
私は常にその男の子のそばにいたし、なにか言われればすぐに求められることをした。男の子の性格も手に取るように分かっていたし、欲しそうなものもやりたそうなことも想像ついたから、私の鞄の中は教科書とかノートよりもその男の子のものでいっぱいだった。
とある日、その男の子は上級生の女の子を妊娠させた。男の子はずいぶんと早熟だった。
それが分かった時はさすがにショックを受けたけど、男の子は変わらず学校にきて、なんの説明もないまま私に用事を言いつけたから、私も何も聞かなかった。
高校卒業までに女の子の枠が5つあることは、もちろん授業の中で学んでいた。それは中学生の間でもカウントされることも。私も当然その枠に入るんだろうと信じていたし、私をすぐに妊娠させないのは、便利な小間使いがいなくなるからだと思っていた。
だからその枠が2つ、3つと埋まっていっても、特に気にしないようにした。
男の子はいつもと変わらず私に命令し、暴力を振るい、罵倒した。慣れ切ってしまった痛みは、それだけ私に心を許している証拠だと思ったし、最後には愛だとも思っていた。
中学2年生に上がって、変わらない日常をしばらく過ごした後。
枠が全部埋まって、その男の子は学校へ来なくなった。
いつもと同じように登校し自分の机に座っていた私は、その事実を担任から知らされて、次に気が付くと病院のベッドの上にいた。
後から聞いた話では、私は教室で発狂したらしい。クラスの中で大声を上げ、糸が切れたように倒れて病院へ運ばれた。
そんな私に降りかかるのは、心配とかじゃなくお母さんからの文句や罵倒だった。
お母さんはずっと男の子に近い私を妬んでいた。自分の学生時代が全然うまくいかなかったことを理由に、私を羨ましがっていた。私から見るとお母さんは家族ではなく、同じクラスにいる女の子と同じような存在になり果てていた。
それでもお金だけは出してくれるようで、私はしばらく入院することになった。
ベッドの上で何をすればいいかわからず、ひたすらぼーっとしているだけで日々は過ぎていった。この頃の記憶はあんまりない。ふと気づくとあの男の子に必要そうなものを考えて、もういらないんだと気づいて、そして泣く日々。
お母さんも必要最低限は来てくれたけど、その頃には私に言う事なんてなくなったのか、親子の会話もなかった。男の子関係での入院というのもあって、看護師さんからも必要以上に接触されなかった。
心療内科の先生と治療のために話すだけで、それ以外の時間はただただベッドの上で一人過ごした。
それでも少しずつ、時は私の心を元に戻そうとする。私の意志とは関係なく。
しばらくして、私は病院内を散策するようになった。動かな過ぎて筋力が衰えていたし、リハビリにと先生からも提案された。確かに少し歩く度に休憩が必要で、男の子のために走り回っていたのが信じられないほど体力がなくなっていた。
その病院は総合病院でとにかく広かった。一般外来で来る人もたくさんいて、待合室の隅に座って、いろいろな人を観察することが日課になった。
小さい子供、学生、会社員、お婆ちゃん。そこは私の知らない女性しかいなくて、その空間なら安心できた。男の子もお母さんもいない、その空間なら。
そうして毎日を過ごすうち、気分もだんだん安定してきて、私は男の子にすっかり興味を無くしていたことに気づいた。あれだけ一緒にいたはずの男の子の顔も、なんだかもやもやして思い出せない。
でもそれでよかった。あの顔を思い出してしまうと、また泣いてしまいそうになるから。
ある日、いつも通り待合室の端で観察していると、一人の女の子が隣に座った。
「ねぇねぇ、大きい病院って男の子も入院してるってほんと?」
遠慮なく話しかけてきたその子は、自分のことを琴宮奏と名乗った。琴宮さんは軽い風邪をひいて、だけど今日は近くの病院がお休みで、仕方なくここへ来たと琴宮さんはいった。
琴宮さんは、ほとんどの女の子と同じように男の子が好きで、話す内容も男の子のことばかり。私はとくに予定があるわけでもないから、興味もなくその話を聞いていた。
琴宮さんの最初の印象は可愛い女の子、その次によく話す女の子、そしてその次は……。
「よし、くるみ。診察も終わったし男の子を探しに行こう!」
行動力のある女の子だなぁと思った。
その女の子の思惑通りかわからないけど、私は入院して長いし、病院でもそこそこ有名だった。だから私と手を繋いで我が物顔で廊下を進む琴宮さんのことを、誰も怪しんだりしなかった。
「やっぱり奥まった場所とか、入室禁止のところが怪しいと思うんだよね……」
そう言いながら病院の中を歩いていく。看護師さんの眼をかいくぐって、私でも行ったことがないような場所まで探検しに行った。
私はこの病院に男の子がいないことは知っていたけど、琴宮さんは諦めなかった。体力のない私に付き合って、歩いて休んでを繰り返し、病院の隅から隅まで調べた。
そうして私の病室に戻ってきたのは、夜ご飯もぎりぎりの時間になってから。
「いやー結局見つからなかったね。もっと厳重に隠されてるのかなぁ」
へとへとの私の横で、琴宮さんはイキイキ話している。風邪というのも嘘なんじゃないかってくらい。実際していたマスクも途中から外していた。
「さすがに私ももうそろそろ帰らないと……うわっ、お母さんからめっちゃ連絡来てる……帰ったら怒られそう」
そう慌てる琴宮さんに私は苦笑しながらも、なんの前触れもなく心がぎゅっと締め付けられる感覚がした。
お母さんに、怒られる。
その言葉に、私の中でゆっくりと不安が頭をもたげる。
あ、これダメ。
そう思っても頭の中を流れる濁流は止まらなかった。
最初に聞こえたのはお母さんのイラついた声、それに忘れていたはずの男の子の罵倒が混ざる。その言葉の端に触れただけで、全てを鮮明に思い出してしまう。
頭の中で反響する叫びはどんどん大きくなり、前も後ろも分からなくなって身体を震わせた。
身体は冷たくなって、息はどんどん粗くなる。ここがどこかもわからない、ただただ一人でどこか暗い場所へと落ちていく――。
「だいじょーぶ」
柔らかい毛布に包みこまれたような、そんな錯覚を覚えた。ふんわりと甘い匂いはどこかで嗅いだことのある花の香り。
気が付けば私は、琴宮さんに抱きしめられていた。
ちょうど琴宮さんの胸に抱え込まれるような体勢で、琴宮さんはベッドの上に膝立ちになっている。その温かい感触と匂いに、いつの間にか心は落ち着きを取り戻していた。
「私が悲しい時にもね、お母さんがこうしてくれたんだ。ほら、もう治ったでしょ?」
「うん……」
ただ抱きしめられているだけのはずなのに、心の中まで温かかった。ここが最初から自分の居場所だったみたいに、ここだけなら息が出来た。その温かさが今まで頑張ってきた私の胸の中にゆっくりと沁み込んでいく。
たぶん、ずっとこうしてほしかったんだ。お母さんも抱きしめてくれなかった。大丈夫って言ってくれなかった。でも琴宮さんはそうしてくれた。
ぽろぽろと零れる涙が、琴宮さんの服を濡らす。
「本当はこれが男の子だったらよかったんだけどねぇ」
そんなことを呟きながら、ぽんぽんと背中を叩く。そのリズムが心地良い。
「……私はもう男の子はいいかな」
その呟きは自然と口から出ていた。
「んー?」
「なんでもない。ね、同じ中学なんだよね。退院したら会いに行ってもいい?」
「もちろん、元気になったら会いにきてよ。いつでも待ってるからさー」
それは、私と琴宮さん……いや、奏との初めての約束。
他の人と違って、奏はきっとその約束を守ってくれる。頑張った分のお返しを、私に返してくれる。
だからいつまでもこんな場所にいないで、奏に会いに行かなくちゃ。




