30話 狂った世界、今の私_1
当たり前だけど、私は最初から女の子が好きだったわけじゃない。
幼稚園の時は足の速い男の子が気になっていたし、小学生でもクラスの男の子にバレンタインのチョコレートを作ったりもした。
そんないたって普通だったはずの私が恋愛対象を変えることになったのは、公園で出会った一人の女の子がきっかけだった。
その女の子は公園で一人漫画を読んでいた。私は普通に公園で遊んでいたのだけど、そのきらきらした装丁が気になって仕方なくて、好奇心が強かった私は、明らかに年上の、制服を着ていた女の子に話しかけた。
女の子は私に気づいた途端、その本を胸に抱えて隠そうとした。けれど隠されるとますます気になってしまう。どうしてもその本のことが知りたくて、しつこーくお願いして、根負けした女の子はその本を貸してくれた。
その中には、私が想像したこともない世界が広がっていた。女の子同士の恋、繊細な気持ちの揺らぎ、綺麗な華と細い線で描かれる、儚く秘密の繋がり。
私もいくつかの漫画は読んでいたけど、それはいわゆる少女漫画ばかりだった。だからこそ私が読んだことのない秘密の関係に釘付けになった。
その漫画を貸してくれた女の子は、私があまりに夢中で読んでいたからか、自分の家に誘ってくれた。
ついて行ったその女の子の部屋には、大きな本棚があって、その中は全て同じようなジャンル……百合やレズをテーマにした本で埋まっていた。
その女の子が好きに読みに来ていいよ、と言ってくれたのもあって、それからしばらく女の子の家に入り浸った。めくるめく様々なシチュエーションと女の子同士の関係性に魅了された私は、心の中にあった小さな芽を、あっという間に百合の花へと開花させていった。
小学校の女の子や、菜月やエマにもなんだかドキドキしてしまうようになったのはさすがに困惑したけれど、百合の話はほとんどが秘めた恋。漫画の中のキャラクターを通して、その感情をコントロールする方法も学んでいった。
「ねぇかなちゃん」
「なーにー? 白ちゃん」
それはその大きな本棚を読み終えて、気に入っていた漫画の二周目に入ったところだった。漫画に目を落としたまま、その声に返事する。
「かなちゃんは、女の子の方が好き?」
「うん」
その頃には私の恋愛対象はすっかり女の子になっていた。
「……もしかなちゃんが大人になったら、私と付き合ってくれる?」
その言葉に、私はそのページから視線を上げる。ベッドの上で座っていた女の子……白ちゃんは、膝を抱えたまま私を見ていた。いつの間にかその部屋には、漫画のページの中にあった空気がそのまま出てきたような、甘い空気が流れているようだった。
白ちゃんの視線に目が離せない。漫画の中の世界が、今ここにある。
気づかないうちに、私は頷いていた。それに白ちゃんは優しく微笑んでくれて、抱えていた足を解いて、私に近づく。
そうして、白ちゃんはベッドから降りて、カーペットの上に座っていた私と視線を合わせて。
夢のような気持ちのまま、白ちゃんは私にキスをした。
それはもちろん、私のファーストキス。今でも覚えている。
柔らかな夕焼け、重なる二人の影、白ちゃんの柔らかい唇。小さな子供には不釣り合いの、完璧なキス。
それが、私を完全に狂わせた。
ぽーっとしたまま家に帰って、そのことばかりを考えながら日々を過ごす中、いつかあのキスをもう一度したいと夢に見た。
だから白ちゃんがいきなり引っ越した時は本当に信じられなくて、しばらく私は家で泣いて過ごした。
お母さんも心配してくれたけど、女の子同士の恋は秘密の恋。話さないままひたすら泣いて、でも泣いたからって白ちゃんが帰ってくるわけじゃなくて。
時が経つにつれ、それは思い出になって、だけど私の心の奥底にはいつまでもあの時のキスが巣くっていた。
だからこそ早朝のランニングの途中に出会った人に、私は思いっきり動揺した。
白ちゃん。
なんだか酷い顔しているけど、成長したからっていって間違えるわけがない。肩までのさっぱりとしたボブカット、表情や少し垂れ眼な部分もそのままだった。
昔は私より背が高くてお姉さんなイメージが強かったけど、今は私と同じくらいの目線になっている。
そんな白ちゃんが、道の端っこで泣いていた。なんて話しかけていいか分からないまま、とりあえず近くのファミレスに誘う。白ちゃんは明らかに弱っていて、動揺していた私の様子には気づいていないみたいだったから、その間にしっかりと心の準備をする。この偶然を、このまま途絶えさせるわけにはいかない。
だけど正面に座り、カフェラテをすする白ちゃんを見ていると、なんだか私の頭の中の印象と少しずつズレてくるような気がした。そりゃあ私の知っている前の世界の白ちゃんと、今の白ちゃんは違うのだろうけど……それにしたってくたびれている。
私と白ちゃんの歳の差を考えると、白ちゃんはもう大学を卒業してるはず。……もしかして大人って、みんなこんな感じになるの?
急に将来が不安になってしまったけど、聞いてみると白ちゃんが働いているのは私でも知っている大企業で、だからこんなに忙しいのかなと思った。
「あ、知ってる。有名な会社だよね。5年で子供が生まれて、10年で家が建って、15年で墓が立つって噂の……」
場を和ませるためにその会社のネタを言ってみたら、それは逆効果で白ちゃんはまた泣き出してしまったのだけれど。
ともあれしょぼしょぼの白ちゃんに家に案内してもらう。
私が小学生の時に初めて白ちゃんの部屋に行ったときも、結構散らかっていたのを思い出す。私はお母さんに整理整頓だけはしっかりすることを言われていた。私自身も散らかっているのがあんまり好きではなかったから、漫画を読んだり片付けたりしていた。
途中のコンビニでゴミ袋と軍手を買って、ファミレスからほど近い白ちゃんの家の扉を開ける。
「うわー……」
……ちょっとだけ、片付けようと言ったのを後悔した。玄関に積まれているゴミは歩く場所だけ綺麗に除けられていて、もう何が何やらわからない。ペットボトルやエナジードリンク、ゼリー飲料のゴミが多くて、ストッキングやYシャツも転がっていた。
でも言い出したのは私だし、今更なしには出来ない。私は気合を入れてゴミ袋を開いた。
一心不乱に片付けを続けて、夜にはなんとか見れるような部屋になってきた。大量のストッキングや下着が山のように積まれている光景はなんだかお城みたいだと思った。
その頃には白ちゃんの顔色もすっかり戻っていて、昔みたいに私に笑いかけてくれるようになった。
お礼っていうことで、夜は豪勢にお寿司を取ってくれた。桶に入っているお寿司はネタがきらきら光っていてとても美味しそう。
そして白ちゃんは冷蔵庫からお酒を取り出した。
「あ、白ちゃんお酒飲むんだ」
「あんまり強くないから、少しだけだけどね。今日はかなちゃんと再会記念ってとこで」
そう言いながらプルタブを引くと、カシュ! と音が鳴る。それは白ちゃんが大人になった証で、なんだか年齢の差を感じた。
「そして、これが今日のお礼になります」
何から食べようかなーと選んでいる時に渡されたのは、一冊の文芸本。
それは外から見ると、いたって普通の本に見える。ただその中身は普通ではないことを私は分かっていた。
さっきまで楽しい気持ちだったのに、急に部屋の気温が下がった気がした。それでも白ちゃんは期待するように私を見ていて、お寿司以上に喜んでくれるはずと思っているのがその表情からわかった。
その本を手にする私の指は、震えていた。
……もしかしたら。
もしかしたら、この本は自分が望んだ未来かもしれない。世界は変わってしまったけど、白ちゃんだけは私のいた前の世界から変わらないままで、またあの続きが出来るんじゃないかという期待がよぎる。
白ちゃんがすぐ横で私の反応を期待している。表紙に手を掛けて、私が見たいその先を想像する。……願いを込めて、その表紙を捲った。
「……やっぱりお寿司だけで十分。これは返すね」
捲った表紙を閉じて、その本を白ちゃんに返す。表紙を捲った扉絵には、上半身裸の男の人が二人描かれていて、それが目に焼き付いていた。
分かっていた。分かっていたはずだった。そもそもこの世界にそんなに百合やレズの漫画はない。多いのは圧倒的に男女の恋愛ものか、BL本。そう分かっていたはずなのに、私は期待をしてしまった。
ずっしりと心が重くなる。胸の中にめちゃくちゃな感情が流れ込んできて、今にも爆発してしまいそうだった。怒りとか、悲しみとか、虚しさとか。絵具をぐちゃぐちゃに混ぜて真っ黒にしたように、心の中を塗りつぶしていく。
さっきまで美味しそうに見えていたお寿司は、全然美味しそうに見えなかったし、白ちゃんのワンルームにも私の居場所はなくなってしまったような気がした。
「門限あるから、帰るね」
今にも泣き出してしまいそうで、なんて言ったらいいのかわからなくて、言葉にするのはそれが限界だった。鞄を持って、逃げるように白ちゃんの部屋を飛び出した。




