99話 昼の匂いと夜の匂い
二年生も無事終わって、短い春休み。
その初日、私は大荷物を持って朝からとある場所に向かっていた。
バッグから取り出したのは、可愛いクマのキーホルダーが付いた鍵。それを鍵穴に入れて捻ると、ガチャリと鍵が開く。
「お邪魔しまーす」
と言っても返ってくる声はない。陽の光が差し込んでいるその部屋は、主がいないせいかしんと静まり返っていた。
荷物を端に置いて窓を全開にすると、少し暖かくなってきた風が部屋の空気を運んでくれる。ひとまず最初にやることは空気の入れ替え。
「さぁ、やりますかー」
白ちゃんから合鍵をもらって一カ月、私はその部屋に初めて一人で入った。部屋は若干荒れ始めてきているけど、思ったよりはマシって感じ。
きっと私が合鍵を持っていること自体が、部屋を荒れさせない様にしている気もするけれど、白ちゃんの手が回らない箇所がそこここに見えた。
ゴミは溜まってきているし、洗濯ものは山のよう。やりがいあるなぁと思いながら、バッグの中から掃除用具を取り出す。まずは手を付けられるところから始めよう。
白ちゃんには、今日掃除に行っていい? と事前に連絡をしている。
合鍵を手に入れたっていっても、それはこの部屋へのフリーパスじゃない。いつでも会いたい気持ちはもちろんあるけど、白ちゃんのプライバシーを無視していいわけでもないし。
白ちゃんからお願いされたのは、掃除と洗濯だけでそんなにしっかりやらなくてもいいと言われていた。あとは私から料理の作り置きをすると伝えていて、気分は通い妻って感じ。
テーブルの上には買い物代のほかに、『かなちゃんへ』と書かれた封筒があった。その中には一万円が入っていて、気にしなくてもいいのにと思いつつ、今度白ちゃんとデートの時に使うことにする。
午前中はひたすら掃除と洗濯。一カ月も空けばそれなりにすることはあって、手を動かしているうちにあっと言う間に時間は過ぎていく。
白ちゃんの部屋で簡単なお昼を食べてから、午後は買い出し。
すぐに食べられる冷凍食品を中心に、白ちゃんから貰った予算の中で保存が効くものをカゴの中に入れていく。白ちゃんの部屋を見るとほとんどスーパーかコンビニのお弁当で過ごしてるっぽいから、ちょっとでも栄養のあるものを選ぶ。
白ちゃんの家に戻ると、綺麗にしたキッチンで常備菜を作っていく。
きんぴら、煮物、つくね、簡単浅漬け、味卵……といっても一週間も持たないし、それなりの量でいいかな。
せっせと作って保存容器に詰めると、時刻は4時。
まだちょっと気になるところもあるけど、あんまり完璧にし過ぎても来る理由が無くなっちゃう気がしたから、今日は終わり!
「さて……」
カーテンを閉めて、鍵がかかっていることを一応確認する。
これからは、私だけのお楽しみの時間。
白ちゃんが普段使っている毛布に、ばふっと倒れこむ。そうすると白ちゃんの匂いに包まれるような気がした。柔らかい、少し甘めの、思わず油断してしまいそうな匂い。
「あ~、白ちゃんの匂い効くぅ」
最近は精神的に大変なことが沢山あったから、白ちゃんの匂いをはすはすしていると凄く癒される。この匂いをいつでも嗅いでいたい。あぁ、白ちゃんの服一枚くらい持って帰ってもばれないかなぁ。
「……白ちゃんに、会いたいな」
でもその匂いだけじゃだんだん足りなくなってくるのも事実で……今白ちゃんはどうしてるのかなと想いを馳せる。きっと必死で働いてるんだけど、その合間に少しでも私のことを考えてくれたりしてるかな。
そんなことを考えていると、その安心する匂いはだんだんと寂しい匂いになってくる。心の中は満ち足りているはずなのに、いくら吸い込んでも満タンにはならない。まるで壊れた砂時計みたい。
「……ぐすっ、別に悲しい訳じゃないんだけどなぁ」
安心する匂いのはずなのに、涙は勝手に溢れてくる。私自身、ちょうど不安定になる周期だったからっていうのもあるけど……。
止まらない涙にまぁいいやと諦めて、白ちゃんの毛布に涙を沁み込ませていく。ちょっとしたマーキング……って言っても、白ちゃんが帰ってくる迄にはとっくに乾いてしまっているだろうけど。
私がここで泣いていたって知ったら、白ちゃんはどう思うだろう。慌てて宥めてくれたりしてくれるのかな。その光景を想像しながら、私はぽろぽろと涙を零した。
★ ★ ★
「はぁー……疲れた……終電相変わらず人いなかったな」
日付はもう変わっていた。
それなのに今日の7時にはまた会社に出勤して自分の席にいないといけないと思うと、なんでこんなことしてるんだろうと思う。
「絶対泊まった方が早いよね、へ、へへへ」
乾いた笑いが夜道に響くも、こんな夜中に歩くのは誰一人見かけなかった。
新入社員の集団ボイコットがあってから、その事態を重く見た経営陣は業務時間短縮のために泊まり込みを禁止した。タイムカードは零時までには切らなきゃいけないし、会社の電気も自動的に消えるようになった。
正直改善するのはそこじゃないだろ、と思う気もするけれど、前までは泊まり込みが当たり前で、家に帰るのは3日ぶりみたいなこともしょっちゅうあったから、それから比べるとまだマシになっているのかもしれない。
問題が発生した最初なんかもっと酷かった。経営陣が内部でも対立していて、ルールも毎週のように変わる。社内の悲惨さに仕事を投げだした社員だっているし、私にいろいろなライフハックを教えてくれた上司だって、問題が発覚したと同時に「真白も早く降りた方が良いよー」と辞めていた。
あの先輩は世渡りが上手そうだったから、そこで私も降りていればもう少し違ったかもしれない。
私だって正直うんざりしていて、辞めようと思えばいつでも辞められた。貯金だってそれなりにあるし、働かなくても5年くらいは暮らせる。けど辞めていないのは、かなちゃんが世話を焼いてくれるからだった。
私一人だったら、とっくに潰れていたと思う。けどかなちゃんの前ではそんな姿は見せたくなくて、なんだか頑張ってしまう。辞めてしまえばただの無職だし、かなちゃんにそんな私を見られたくなかった。
結局かなちゃんに頼らないと続けられないのは、それはそれで情けなくないか? という気もするけど……その代わりに、かなちゃんへのお礼はお金に糸目をつけないことにしていた。あんまり高いものにすると受け取り拒否してくるけど、私が優位に立てるのってそれくらいしかないし。
今日は、かなちゃんが昼間に家事をしてくれたらしい。
合鍵を渡すのは結構迷ったけど、今考えればそうするしかなかったような気もする。ずっとかなちゃんに会えなかったのも後ろめたかったし。
「ただいまー……」
いつもはしない挨拶をしながら部屋に入ると、ふんわりと優しい匂いがした。
「いい匂い……あっ、これかぁ」
玄関のすぐ脇にある小さなスペースには、朝はなかったアロマディフューザーが置いてあった。
その爽やかな香りに気分を持ち直しながら電気をつけると、部屋の中は見違えていた。
まず、服が落ちていない。……いや当たり前のことではあるけど、私の部屋ではめったにないことだった。畳まれた服は入れる場所がなかったのか積み上げられていて、服と下着に分かれている。
テーブルの上も棚もしっかり掃除されていて、シンクもピカピカだった。もともと少ない食器も洗って水切りされている。
「うわぁ……うわぁ」
こんなに綺麗にしてくれるとは思ってなくて言葉が出ない。
張り紙が貼ってあった冷蔵庫の中を開くと、何個もの保存容器が並んでいる。すぐに食べられるサンドイッチも入っていて、夜食か朝ごはんに! と書かれたメモがあった。
「……一万円くらいじゃ足りなかったかも」
金額の問題じゃないけど、かなちゃんには感謝してもしきれない。
サンドイッチをありがたくつまみながら、明日はお弁当にしようと、新しい保存容器にかなちゃんが作ってくれたおかずを詰めていく。コンビニでおにぎりだけ買えば、立派なお昼ご飯になる。
「なんか楽しみになってきた」
お弁当があるだけなのに、早く明日にならないかなーと思うのは自分でも単純だなぁと笑ってしまう。
かなちゃんにありがとうの気持ちを伝えたくて何かメッセージを送ろうと思ったけど、さすがに寝てる時間かと思い直す。メッセージは朝になってからするとして、早く寝ないと。
綺麗になったお風呂場にまた驚きながら、さっとシャワーを浴びる。シャンプーがちょっといいものに変えられていて、前私が使っていたのより髪の指通りが良い。
髪を乾かしながらも、ついつい部屋の中を見回してしまう。非の打ち所なんてどこにもなくて、朝の惨状から比べると魔法のようだった。前にかなちゃんが来てくれた時もしっかり綺麗になっていたけど、今回はかなちゃんの気遣いが所々にあって見つけるたびに頬が緩む。
寝る頃には、この部屋を寝るだけにしてしまっているのがなんだか勿体なく思えてしまった。
「でも寝ないといけないんだよなー……」
スマホの目覚ましは6時に設定する。最近は5時間睡眠で慣れてしまって、目覚ましが鳴る前に覚醒してしまうのが悲しいところ。
電気を消して、もぞもぞと毛布の中に潜りこみ、深呼吸する。なんだかんだ疲れてはいるから、いつも気絶するように眠ってしまう……んだけど。
「……?」
なんか今日の毛布はいつもと違う匂いがした。
一瞬毛布も洗濯したのかな、と思ったけど一日で乾くような気温じゃないし……すんすんと匂ってみると、それはかなちゃんの匂いだと気づく。
「…………なんか落ち着かない」
その中で息をしていると、なぜかかなちゃんと身体を重ねた時のことばかり思い浮かぶ。私はお酒を飲んでいたからはっきりと覚えてないんだけど、かなちゃんの匂いは体の中心を熱くするような、どこか夢中になってしまうような……身体が勝手にそんな反応をしてしまう。
寝ないと、という気持ちとは裏腹にどうしてもかなちゃんのことがぐるぐると頭の中を回ってしまって。うとうととしながら、かなちゃんのことを思い出して……。
「……うそぉ、もう朝ぁ?」
結局一睡もできないまま、私はまた会社に向かうのであった。




