僕は登山家じゃない
「いや~だいぶ遠かったね。あれ、幸太郎。顔青いけど大丈夫?」
美月の気の抜けた声で意識が復活する。あたり一面緑が茂っていて、もう帰り道もわからない。まさかもまさかだ、四時間の鈍行列車の後に山に登らされるとは思ってもみなかった。こいつ、最後に僕に嫌がらせでもしようとしてるわけじゃないだろうな。
「仕返しなんてそんな……ねぇ?」
上がった口角が隠せてねえ。僕に対する侮蔑の念が隠しきれてねえ。
「幸太郎。ここからの道はハードだから本当に気を付けてね。あともう少しで着くよ。」
ここまではハードじゃなかったんですか。そうですか。文句や弱音も吐く余裕すらない僕は、振り返ってもくれない美月の背中を心を無にして追いかけるのだった。
ひたすら歩き続けて二時間ぐらいたっただろうか。歩き疲れて目もかすんできたころだった。
「いた。」
美月はそう一言呟いて走り出す。しばらく美月との会話もなくなっていたので唐突な言葉に一瞬反応が遅れる。顔を上げ、何とか追いつこうとするも足が空回ってうまく動かない。
前を行く美月は豆粒ほどの大きさになってしまったし、ここで一人で力尽きたら僕は多分死ぬな。山の中で一人取り残された僕は、最後の気力を振り絞り美月が消えた方向へ歩みを進めるのだった。
五分ぐらい歩いただろうか。少し開けたところに着くと目の前には一五メートルは優に超える滝とその沢が広がっていた。沢のほとりに美月が顔をうずめて座っている。無尽蔵の体力に見えた美月だが、これだけ歩けばやっぱり疲れるもんなんだな。
「こんな山の奥に、これだけデカい滝があるなんてな。それにしても、急に走るなって。危ないって言ってたのはそっちじゃんか。なぁ美月。美月?」
返事がない。確かに僕の前には沢を前にしてしゃがみこむ美月がいるのに。まるで死んでいるかのように返事がない。死んでいるかのように……。
はっとした僕は急いで美月の顔を覗き込む。顔はドロドロに溶け落ち、腕には何かにかじられた後まで残っている。透明感と妖艶さを兼ね備えた、眉目秀麗な美月の顔は残す影もなくなっていた。
死体だ。
藤原美月が死んでいるのだ。




