EP 9
『未来の負債明細書』
障子の隙間から差し込む朝日が、片付いた六畳間の畳を白く照らし出していた。
加藤清麿は、薄いせんべい布団の上で目を覚ました。
身体のあちこちが軋むように痛い。昨日の道場での四連戦、そして深夜まで及んだ和令との盤上検討。四年のブランクを抱えた身体には過酷極まりない負荷だったが、目覚めの感覚は驚くほど澄み切っていた。
重苦しい鉛を飲み込んだような、あの這い上がれない絶望の朝ではない。
清麿は布団を跳ね除けて起き上がり、手早く畳んで部屋の隅に寄せた。
台所へ向かい、蛇口を捻る。冷たい水で顔を洗い、タオルで拭った。
小さなガスコンロに火を点け、片手鍋で湯を沸かす。昨日、近所の小学生への将棋指導で稼いだ二千円の中から買い込んだ、一袋二十円のもやしと卵。それと特売の白米。
質素極まりないが、妹の千代が振り込んでくれた二万円には指一本触れず、自分の腕一本で手に入れた朝食の材料だった。
「……よし」
沸騰した湯にもやしを放り込み、味噌を溶く。フライパンに薄く油を引き、卵を二つ割り落とす。じゅう、と心地よい音が狭い台所に響き、香ばしい匂いが漂い始めた。
居間の方から、ガサリと衣擦れの音がした。
「……ん……原始人の朝は、無駄に早いわね……」
銀と藍色のライダースーツの襟元を緩め、目を擦りながら和令が姿を現した。長い黒髪が寝癖で少し跳ねており、いつもの勝ち気な武装が解けたその姿は、年相応のどこにでもいる少女に見えた。
「起きたか。顔を洗ってこい、飯にするぞ」
「言われなくても洗うわよ。……ちょっと、何よその茶色い物体は」
和令はフライパンの中を指差し、あからさまに眉根を寄せた。
「目玉焼きともやしの味噌汁だ。文句があるなら食うな」
「文句しかないわよ! 黄身に火が通りすぎてるじゃない! 目玉焼きの黄身は半熟で、箸を入れた瞬間にトロリと崩れるのが宇宙の真理でしょ!」
「知るか! うちのフライパンは熱伝導にムラがあるんだよ! だいたい三百年後の合成タンパク質ブロックを齧ってた人間が、生卵の焼き加減にケチをつけるな!」
「過去に来たからには過去の食文化を最高水準で享受する権利があるわ! あと、醤油じゃなくて未来推奨の減塩ナノペッパーはないわけ!?」
「あるわけねえだろ! 醤油一筋三十年だ、黙って食え!」
「これだから昭和平成ハイブリッドの頑固おじさんは嫌なのよ!」
ギャーギャーと朝っぱらから口喧嘩を繰り広げながらも、和令はちゃぶ台の前にきっちり正座し、清麿がよそった白米と味噌汁を受け取った。
「……いただきます」
小さな声で言って、箸を動かす。
一口食べた和令の表情が、ほんのわずかに緩んだ。
「……まあ、黄身が固い以外は、ギリギリ及第点ね」
「素直に美味いって言ったら死ぬ病気なのか、お前は」
「死なないけど負けた気がするから嫌よ」
和令はもやしをシャキシャキと咀嚼しながら、ジト目で清麿を見上げた。
「で? 昨日の夜は大口叩いてたけど、本当に大会に出るつもりなの? 口だけ番長で終わるんじゃないでしょうね」
「誰が口だけだ。本気に決まってるだろ。……地区予選を勝ち抜いて、全国大会に行って、プロ公式戦の出場枠を捥ぎ取る。そのためにお前の三百年分の知識を全部頭に叩き込むって言ったはずだ」
「ふん。威勢だけはいいわね、雑魚先祖」
和令はお椀をちゃぶ台にコトリと置くと、箸を揃えて居住まいを正した。
いつもの減らず口の奥に、冷徹な真剣さが戻ってくる。
「いい覚悟よ。でもね、清麿。本気で盤に向かう前に――あんたには、どうしても直視してもらわなきゃいけない『現実』があるわ」
「……現実?」
「そう。あんたが背負ってるものの重さよ」
和令は腰のホルダーから、あの透明な薄型端末を取り出した。
ヒュン、と静かな電子音が鳴り、六畳間の空間に青白い光が満ちた。
浮かび上がったのは、昨日までの将棋盤や定跡の樹形図ではなかった。
無数の幾何学模様と、緻密な年表、そして幾重にも積み上げられた公的な文書の数々。中央には、極太の明朝体で恐ろしい見出しが投影されていた。
『加藤家生体維持基金・特別医療債務最終決済報告書(西暦2326年度版)』
「……なんだ、これ……」
「言ったでしょ。あんたが本来辿るはずだった、改変前の歴史――正史の記録よ」
和令の細い指先が空を払うと、年表の先頭がぐんと引き伸ばされた。
『西暦2026年2月15日。元奨励会員・加藤清麿、居住アパートのベランダより転落。意識不明の重体』
日付を見て、清麿の息が止まった。
昨日だ。和令がドロップキックで飛び込んできた、まさにその日だった。
「あんたは昨日、あの手すりから落ちて頭を強打した。……死ねなかったのよ。脳に重度の損傷を負って、自発呼吸もままならない完全な植物状態になった」
和令の声は、感情を排した機械のように淡々としていた。それがかえって、清麿の鼓膜を重く痛めつける。
「両親は、半年も経たないうちに匙を投げたわ。『もう回復の見込みがないなら、延命治療をやめてくれ』ってね。……でも、たった一人、絶対に同意しなかったのが妹の千代おばあちゃんよ」
画面が切り替わり、千代の履歴書のようなデータが展開された。
『2026年〜2035年。加藤千代、総合病院での勤務を継続。夜勤回数を法定上限まで増やし、月間労働時間は過労死ラインを大幅に超過。実兄・清麿の療養型病床への入院費および高度延命管理費(月額平均約三十五万円)を全額単独負担』
「月……三十五万……?」
清麿の喉が、引き攣ったように乾いた。
「そんな……千代の手取りなんて、せいぜい二十数万のはずだ……!」
「足りない分は、夜間の訪問看護の掛け持ちと、医療ローンよ」
和令は冷徹に事実を突きつける。
「千代おばあちゃんはね、自分の服なんて一着も買わなかった。美容室にも行かず、化粧品も使わず、食事は病院の廃棄寸前の残り物をもらって飢えをしのいでたわ。あんたを転院させないため、管を抜かれないためだけに、二十代後半から三十代のすべてを、血を吐くような労働に捧げたのよ」
清麿の胸の奥で、心臓が痛烈に軋んだ。
千代。いつも自分を心配して、電話をかけてきてくれた妹。
『お兄ちゃん、ご飯ちゃんと食べてる?』
あの優しい声の裏で、本来の歴史の千代は、兄の命を繋ぐためだけに自分の生き血を絞り取られていたというのか。
「……さらに、これを見なさい」
和令が指を動かすと、一枚の古い戸籍謄本の写しが浮かび上がった。
『2031年。婚約破棄』
「千代おばあちゃんにはね、当時、同じ病院に勤める心優しい男性医師との婚約話があったのよ」
「え……」
「でも、相手の親族から猛反対された。『意識不明で莫大な医療費がかかり続ける兄を抱えた女など、嫁にもらえない』『結婚するなら兄の延命を打ち切れ』ってね。……千代おばあちゃんは、泣きながら婚約指輪を突き返したわ。『お兄ちゃんを殺すくらいなら、一生一人でいい』って言ってね」
「やめろ……」
清麿の口から、掠れた呻きが漏れた。
自分のせいだ。自分が将棋に負け、人生に腐り、勝手に絶望して飛び降りたせいで、妹の唯一の幸福すらも叩き壊していたのだ。
「やめないわよ! 現実から目を逸らすんじゃないわよ!」
和令の声に、激しい感情の刃が混じった。
「悲劇はそれだけじゃ終わらなかったの! 西暦2040年代、先端医療として『極低温生体保存技術』――コールドスリープが実用化されたわ。将来、脳神経の再生技術が確立されるまで、肉体を冷凍して眠らせる技術よ」
ホログラムが、巨大な円筒形の金属カプセルを映し出す。
「千代おばあちゃんは、五十歳を過ぎてボロボロになった身体で、その契約書にサインした。『いつか技術が進めば、お兄ちゃんはまた目を覚まして、大好きな将棋を指せるかもしれない』……その一筋の希望に縋ってね。私財を投げ打ち、親族を説得し、設立したのが『加藤家生体保存維持基金』よ」
画面に、赤い折れ線グラフが立ち上がった。
最初は数千万円だった負債が、年を追うごとに、狂気のような角度で跳ね上がっていく。
「冷凍カプセルを維持するための高額な電気代、ナノ液体の循環費用、法改正による特別維持管理税……! 千代おばあちゃんが七十代で亡くなった後も、その契約は解除できなかった! 一度冷凍された生体を遺族の都合で解凍・破棄することは、未来の生命倫理法で『殺人』と定義されたからよ!」
和令の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「千代おばあちゃんの想いが、呪いに変わったのよ! 法律の罠と雪だるま式の利子のせいで、加藤家の一族は代々、カプセルの中で眠り続ける『顔も見たことのない三段の先祖』のために、稼いだ給料の七割を吸い取られ続けたの! 三百年後の私の代まで! 破産すら許されない、国家特種の連帯債務としてね!!」
六畳間に、和令の悲痛な慟哭が木霊した。
青白い光の中に、一枚の写真が拡大される。
それは、晩年の千代の写真だった。
白髪交じりの老婆になり、背中を丸め、病院の無機質なカプセルの前で車椅子に座っている。
皺だらけの手で冷たいガラスに触れながら、千代は――どこまでも優しく、慈しむように微笑んでいた。
『お兄ちゃんは、いつか目を覚ますから』
写真の下に添えられた、千代の最後の日記の言葉。
それを見た瞬間、清麿の喉から嗚咽が噴き出した。
「ああ……っ、うあああぁぁぁ……っ!!」
清麿は両手で顔を覆い、畳に額を擦りつけた。
涙が止まらなかった。ボロボロと畳を濡らし、胸の奥が張り裂けそうだった。
妹は、こんな思いをして生きていたのか。
自分が「勝たなきゃ価値がない」「プロになれなきゃ死んだほうがマシだ」と幼稚なプライドに浸って投げ捨てた命を、千代は自分の人生をすべて灰にしてまで、三百年先の未来まで守ろうとしてくれたのか。
「……すまない……っ、千代……すまない……っ!」
どれだけ謝っても、償いきれるものではなかった。
死ぬことで楽になろうとした自分の弱さが、たった一人の妹を、そして未来の子孫たちを、底なしの地獄へ突き落としていたのだ。
清麿の震える背中を、和令はじっと見つめていた。
彼女は手の甲で乱暴に目元を拭い、小さく息を吸い込んだ。
「……だからね、清麿」
和令の声から、棘が消えていた。
低く、どこか祈るような、震える声だった。
「勝つことも大事よ。プロになって、稼いで、加藤家の名前を歴史に刻むことも大事。……でもね、それ以上に」
和令は清麿の前に歩み寄り、畳に手をついて、床に伏す清麿の目線に合わせた。
「あんたがここで、ちゃんとご飯を食べて、前を向いて生きてくれたら……それだけでも、未来は変わるのよ」
「…………っ」
「あんたが意識を失わずに自分の足で立って、千代おばあちゃんの電話に出て、『生きてるよ』って笑ってあげるだけで……あのおばあちゃんの人生は、地獄から救われるの。……わかるでしょ?」
清麿はゆっくりと顔を上げた。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔。だが、その瞳の奥には、昨日までの迷いや怯えは微塵も残っていなかった。
「……ああ」
清麿は手のひらで、乱暴に涙を拭った。
奥歯が砕けそうなほど強く噛み締められる。
「わかるよ。……痛いほど、わかった」
ただ自分の挫折を晴らすためじゃない。
失ったプライドを取り戻すためでもない。
千代に、あんな残酷な未来を背負わせてたまるか。
自分の人生を、自分の責任で全うする。勝負の泥水を啜ってでも生き残り、プロになって、千代に胸を張って「ありがとう」と言える男になる。
それが、命を拾われた加藤清麿の、唯一の果たすべき義務だった。
「和令」
「なによ」
「端末を片付けろ。……将棋盤の前に座れ」
清麿の声は低く、地を這うような気迫を孕んでいた。
和令は一瞬目を見張り、それから、いつもの不敵な笑みを口元に取り戻した。
「ふん。言われなくても、そのつもりよ」
和令が指を弾くと、青白い負債の記録は霧散し、部屋の中央に置かれた本榧の盤が、朝の光の中にくっきりと姿を現した。
二人は盤を挟んで正座した。
「アマチュアの地区予選まで、あとどれくらい時間がある?」
「一ヶ月よ。エントリーの締め切りは来週。……でもね、清麿。道場のおじさんたち相手の将棋じゃ、実戦の密度が足りないわ」
「どうする気だ?」
和令はポケットから、清麿のスマートフォンを取り上げて畳の上に放り出した。
「現代の文明の利器を使いなさい。オンライン将棋よ」
「ネット将棋か……」
「そう。最高峰の強豪たちが昼夜を問わず凌ぎを削る、現代のネット対戦サーバーに乗り込むのよ。そこで、三百年後の改良定跡を実戦で試しながら、あんたの勝負勘を極限まで研ぎ澄ますわ」
和令は意地悪そうに目を細めた。
「プロも身元を隠して出没する魔境よ。……ビビって逃げ出すなら、今のうちよ、雑魚先祖」
「逃げるわけがないだろ」
清麿はスマートフォンを手に取り、迷いなくログイン画面を開いた。
「未来の答えだろうが何だろうが、全部俺の血肉にしてやる。……千代の未来を、俺がこの手で塗り替えるんだ」
盤を挟む二人の視線が、火花を散らすように交錯した。
止まっていた人生の歯車が、激しい音を立てて、未知の領域へと噛み合おうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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