EP 8
『奨励会を辞めた男が、また勝ち始めた』
千寿将棋道場の中に満ちていたざわめきは、坂上五段が頭を下げてからも、一向に収まる気配を見せなかった。
「おいおい、坂上さんが本当に手も足も出なかったぞ……」
「あのお兄ちゃんの受け、一体どうなってんだ? まるで最初から坂上さんの攻め筋を全部カンニングしてたみたいだったぞ」
対局机の周りを取り囲んでいた常連客たちが、興奮気味に囁き合っている。
アマ五段といえば、町の道場では押しも押されもせぬ最高峰の看板だ。その看板が、名も知らぬ着古したスーツ姿の青年に、わずか五十手余りで完膚なきまでに受け潰されたのだ。驚かないはずがなかった。
「あの……お兄ちゃん、もう一局いいかい?」
人垣を割って進み出てきたのは、道場のもう一人の実力者として知られる、腕組みをした初老の男性だった。
「俺はアマ四段の吉田だ。さっきの将棋を見てたら、どうしても指してみたくなっちまってね」
「あ、ええと……」
清麿が戸惑って視線を泳がせると、壁際で丸椅子に腰掛けていた和令が、脚を組み替えてツンと顎をしゃくった。
「受けなさいよ。道場に来たんでしょ? 何局指しても結果は同じなんだから、全員まとめて相手してやりなさい」
「お前、簡単に言うな……」
清麿は苦笑しつつも、吉田に向き直り、「よろしくお願いします」と頭を下げた。
結果は、坂上戦以上の衝撃を道場にもたらすことになった。
吉田四段が得意とする三間飛車に対し、清麿は和令から叩き込まれた『パターンA・常識破壊の序盤』を展開した。
序盤のわずか八手目、現代の振り飛車破りでは絶対に突いてはならないとされている端歩をふらりと突き上げ、相手の陣形を不気味に牽制する。吉田が「隙あり」と見て角を交換し、急戦を仕掛けてきた瞬間には、すでに清麿の張り巡らせた罠の中に引きずり込まれていた。
吉田が渾身の攻め駒を打ち込むたびに、清麿の金銀が吸い付くように自陣を引き締め、すべての攻めを無力化していく。
反撃に転じてからは、わずか十手。清麿の流れるような寄せの前に、吉田は喉を鳴らして投了した。四十八手。
「参った……! なんだこりゃ、指し手が全部読まれてるみたいだ!」
続いて挑んできた大学生のアマ四段も、六十手で撃破。
さらに別の常連客が挑むも、清麿の正確無比な指し手の前に、誰一人として中盤の難所を越えることすらできなかった。
四連勝。いずれも相手に一度として主導権を握らせない、完璧な圧勝だった。
盤を挟む清麿の指先は、一局指すごとに熱を帯び、滑らかさを取り戻していく。
(……勝てる。本当に、手が自然に見える……!)
四年間、あれほど自分を苦しめ、恐怖の対象でしかなかった将棋盤が、今は驚くほど広く、澄み渡って見えていた。
「……待てよ」
五局目を申し込もうとした常連の列の後ろから、低くかすれた声が響いた。
カウンターの奥から歩み出てきたのは、老眼鏡を鼻筋に載せた、この道場の古参常連である白髪の老人だった。
老人は目を細め、対局机の前に正座する清麿の横顔をじっと見つめていた。
「お前さん……加藤君じゃないかい? 十数年前に小学生名人を獲って、あの榊原九段の門下に入った……加藤清麿君だろう?」
ピシリ、と道場の空気が凍りついた。
清麿の心臓が、冷たい水に浸されたように跳ねた。
「え……? 榊原九段の弟子……!?」
「小学生名人って、あの全国大会の!?」
「加藤……まさか、奨励会にいたのか!?」
常連客たちが一斉にざわめき立つ。
清麿は膝の上の拳をぎゅっと握りしめた。隠すつもりはなかったが、自分から進んで名乗る勇気もなかった過去だ。
「……はい」
清麿は掠れた声で、静かに頭を下げた。
「元、奨励会員です。……二十六の年齢制限で、三段リーグを退会しました」
道場に、シンとした沈黙が落ちた。
将棋を愛する者たちだからこそ、その言葉の重みが痛いほどわかるのだ。
プロ一歩手前の三段リーグ。全国から集まった神童たちが、青春と人生のすべてを削り合って潰し合う、生き地獄のような魔境。そこを年齢制限まで戦い抜いた男が、目の前にいる。
「やっぱりそうか……」
老人は深く頷き、どこか懐かしそうに目を細めた。
「道理で強いわけだ。あの頃の君の将棋は、切れ味があって本当に綺麗だった。……そうか、退会しちまってたのか。でも、またこうして盤の前に戻ってきてくれたんだな」
「……あ、いえ……」
「いい将棋を見せてもらったよ。ありがとうな、加藤君」
老人が温かく微笑み、他の常連客たちからも、畏敬と親しみの混じった拍手がパラパラと沸き起こった。
腫れ物に触るような視線ではない。挫折した人間を嘲笑う冷笑でもない。
過酷な戦いをくぐり抜けてきた一人の勝負師に対する、純粋な敬意がそこにはあった。
清麿の喉の奥が、熱く締め付けられた。
道場の席主から「またいつでも顔を出してくれよな!」と見送られ、外階段を降りた頃には、空はすっかり濃紺の帳を広げていた。
冬の夜風が、火照った清麿の頬を心地よく冷ましていく。
「……へへっ」
駅へ向かう商店街の道すがら、清麿の口元から、思わず緩んだ笑みがこぼれた。
道場での四連勝。常連客たちからの賞賛。
四年間、社会の底辺で「ただ息をしているだけの無職」として扱われてきた自分にとって、それは砂漠で喉を枯らしていた旅人が、冷たい清水を浴びたかのような快感だった。
「見たかよ、和令。四戦全勝だぞ。アマ五段も四段も、誰一人として俺の受けを突破できなかった」
隣を歩く和令をチラリと見て、清麿は少しだけ胸を張った。
「やっぱり、俺の指し手も捨てたもんじゃないだろ。三段リーグを戦い抜いた基礎があるからこそ、未来の定跡も完璧に使いこなせるんだ。俺の読みの力も、まだまだ錆びついちゃいないってことだな!」
得意げに語る清麿に対し、和令は立ち止まった。
そして、冷ややかな視線を向け、鼻から深々と、心底軽蔑しきったような溜息を吐き出した。
「……はあぁぁぁ。呆れた」
「な、なんだよ。人が気分良く浸ってるのに、その溜息は」
「三段の雑魚が、アマチュア相手に勝って調子に乗ってんじゃないわよ!!」
夜の商店街に、和令の鋭い怒声が炸裂した。
通行人が驚いて振り返るが、光学迷彩のせいで声の発生源が特定できず、首を傾げて通り過ぎていく。
「なっ……! 雑魚雑魚言うな! 勝ちは勝ちだろ!」
「昼下がりに趣味でお茶飲みながら指してるおじさんたちを相手に、未来のカンニングペーパー使って受け潰して、何が『俺の読みも捨てたもんじゃない』よ! 恥ずかしくないわけ!?」
「カンニングペーパーって言うな! 頭の中に叩き込んで盤上で再現したのは、俺の実力だ!」
「暗記した手順を機械みたいに出力しただけじゃないの! 相手の指し手は全部、三百年前に破綻することが証明された大悪手ばっかりだったのよ! そんな相手をタコ殴りにしてドヤ顔浮かべてるなんて、小学生に腕相撲で勝って威張ってる筋肉モリモリの大人と同じよ!」
「筋肉モリモリの大人と一緒にすんな! 相手は県のアマ名人戦でベストフォーまで行った実力者だぞ!?」
「アマチュアのベストフォーが何よ! プロの世界の足元にも及ばないわ!」
和令はずいっと清麿の鼻先まで詰め寄り、切れ長の瞳を釣り上げて叫んだ。
「いい!? あんたが目指すのは何なの!? 町の道場でちやほやされて満足する『元神童のおじさん』なわけ!? 違うでしょ! プロ公式戦で現役棋士相手に十勝を挙げて、編入試験を突破することよ!」
「ぐっ……そ、それは……」
「四年前に三段リーグであんたを蹴落としてプロになった連中はね、今頃、棋士室で毎日血反吐吐きながら最新AIと研究して、命懸けで公式戦を戦ってんのよ! そんな化け物たちに、今のあんたのヌルい精神力で勝てると思ってんの!?」
痛烈な正論が、清麿の胸を鋭く貫いた。
浮き足立っていた心が、一瞬で現実に引き戻される。
「……調子に乗ったのは、悪かったよ」
清麿は視線を落とし、肩を落とした。
「でもさ……嬉しかったんだよ。四年間、誰にも必要とされなくて、何をしてもダメで……。今日、盤を挟んで勝って、みんなが『すごい』って言ってくれたのが……本当に、嬉しかったんだ」
絞り出すような清麿の告白に、和令はぴたりと口を閉じた。
夜風が、二人の間を吹き抜けていく。
和令は組んでいた腕を解き、気まずそうに視線を逸らした。
「……別に、勝ったこと自体を責めてるわけじゃないわよ」
声のトーンが、わずかに落ちていた。
「ただ……あんたに、過去の栄光の残骸にすがってほしくないだけ。……三段のまま終わった悔しさを、道場のぬるま湯で誤魔化してほしくないの」
「…………」
「帰るわよ。風が冷たくなってきた」
和令はそう言って、早足でアパートの方へと歩き出した。
六畳間に戻ると、きれいに片付いた部屋の中央で、本榧の将棋盤が静かに二人を迎えた。
清麿は台所で冷たい麦茶を二つのコップに注ぎ、ちゃぶ台の上に置いた。
和令はコップを両手で包み、一口喉を潤すと、壁に背を預けて静かに目を閉じた。
清麿は座布団に腰を下ろし、部屋の隅を見つめた。
道場の老人が口にした名前が、耳の奥でずっとリフレインしていた。
『あの榊原九段の門下に入った、加藤清麿君だろう?』
榊原雅臣九段。
清麿の、かつての師匠だ。
小学校を卒業する春、父に連れられて千駄ヶ谷の将棋会館へ行き、初めて対面した日のことを、清麿は今でも鮮明に覚えている。
弟子を取ることに厳格だった大棋士が、清麿の棋譜をじっと見つめ、静かに言ったのだ。
『清麿、お前の将棋には澄んだ光がある。迷わず、前だけを見て駒を伸ばしなさい』
その言葉を胸に、奨励会へ飛び込んだ。
初段、二段とトントン拍子で昇段し、師匠も目を細めて清麿の成長を喜んでくれていた。
だが――三段リーグという漆黒の深淵に足を踏み入れてから、すべてが狂い始めた。
あと一勝でプロになれるというプレッシャーに潰され、終盤で日和り、自爆を繰り返した。
そして、二十六歳の春。
強制退会が決まった翌日、清麿は会館の控え室で、榊原師匠の前に正座して頭を下げた。
怒られると思った。破門を言い渡されると思った。
だが、師匠はただ悲しそうに目を伏せ、深々と頭を下げてきたのだ。
『……すまなかったな、清麿。私の指導が至らなかったばかりに、お前をプロにしてやれなかった』
師匠に、頭を下げさせてしまった。
自分の不甲斐なさのせいで、将棋界の重鎮である師匠に、謝罪させてしまったのだ。
その申し訳なさと激しい恥辱に耐えきれず、清麿は逃げるように会館を飛び出した。
以来四年、一度として師匠に連絡を取ることはできなかった。
(……俺は、ずっと逃げてたんだ)
清麿は畳に落ちた自分の影を見つめた。
プロになれなかった自分を直視するのが怖くて、周囲を遠ざけ、恋人を傷つけて突き放し、妹の善意からも目を背けて、最後はベランダから消えようとしていた。
道場でアマチュア相手に勝って浮かれていた自分は、まさに和令の言う通り、過去のプライドの抜け殻を撫で回して安心していただけの臆病者だったのだ。
「……おい、和令」
「なによ。反省文なら受け付けないわよ」
和令が薄目を開けて清麿を見る。
清麿は深く息を吸い込み、将棋盤の前に座り直した。
その瞳から、迷いも、照れ隠しの笑みも消え去っていた。
「……大会に、出る」
静かな、だが腹の底から絞り出されたような声だった。
「アマチュアの地区予選だ。そこで優勝して、全国大会の切符を獲る」
和令の眉が、ぴくりと動いた。
「……本気?」
「本気だ」
清麿は本榧の盤面に右手を置いた。飴色に光る木肌から、確かな重みが手のひらに伝わってくる。
「道場の腕自慢で終わる気はない。……俺は、もう一度勝負の場に戻る。アマチュア大会を勝ち抜いて、プロ公式戦への推薦枠を捥ぎ取って……プロ編入試験を受けてやる」
一度は人生ごとゴミ箱に放り投げたはずの夢。
それを、自分の口で、自らの意志として言葉にしたのは、二十六歳のあの日以来、初めてのことだった。
「プロになって……千代に背負わせるはずだった借金の未来を、絶対に壊す。そして……」
清麿は言葉を切り、ぎゅっと唇を噛んだ。
「……もう一度、胸を張って、榊原師匠の前に立ちたいんだ。『俺はまだ、将棋を諦めていませんでした』って、伝えに行きたいんだよ」
六畳間に、張り詰めた沈黙が流れた。
和令は麦茶のコップをちゃぶ台に置き、ゆっくりと体を起こした。
その勝気な瞳が、真っ直ぐに清麿の目を射抜く。
やがて――和令の口元に、いつもの不敵で、傲慢で、けれどどこか嬉しそうな笑みが浮かんだ。
「……言ってくれるじゃない、雑魚先祖」
和令は腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜き、空中に放り投げるようにして起動した。
ヒュン、と青白い光の粒子が部屋を満たし、無数の新たな定跡樹形図が展開される。
「アマチュア大会の地区予選なんて、全国のアマ名人経験者や、あんたと同じ元奨励会員の化け物たちが手ぐすね引いて待ってる魔境よ。道場のおじさんたちとは次元が違うわ」
「望むところだ。……叩き込んでくれ、三百年分の答えを」
「ふん。言われなくても、寝る暇なんて与えないわよ」
和令が端末を弾くと、光の盤面上に、現代の棋士が見れば目を疑うような奇怪な陣形が浮かび上がった。
「行くわよ、清麿。加藤家の未来を懸けた、本当の戦いの始まりよ!」
読んでいただきありがとうございます。
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