↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『未来の将棋は暗記ゲーでした~30歳でプロを諦めた元奨励会三段、300年後の子孫に「必勝定跡」を叩き込まれて無双する~』   作者: 月神世一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/62

EP 7

『町の将棋道場に、怪物が現れた』

 二月の冷たい風が、雑居ビルの狭い路地を吹き抜けていく。

 駅前から少し離れた、古びた飲食街の一角。錆びの浮いた外階段の踊り場に、昭和の時代から掛け替えられていないような木製の看板が掲げられていた。

『千寿将棋道場』

 かすれた墨文字を見上げながら、加藤清麿は階段の手前でぴたりと足を止めた。

「……おい、和令。やっぱりやめないか」

「はあ? 何を言い出すかと思えば、階段の一段目すら上がらないうちに敵前逃亡なわけ?」

 隣に立つ加藤和令が、心底呆れ果てたように腕を組み、冷ややかな視線を清麿に突き刺してきた。

 銀と藍色のライダースーツは、現代の東京の街並みではあまりにも浮きまくっていたが、彼女自身が透明端末の光学迷彩機能とやらで周囲の通行人の認識をわずかに歪めているらしく、道行く人々が振り返る気配はない。

「逃亡じゃない。……場違いだって言ってるんだ」

 清麿は眉をひそめ、薄汚れた雑居ビルの壁に視線を落とした。

「俺はこれでも、二十六歳まで奨励会三段で戦っていた男だぞ。町の将棋道場なんて、奨励会に入る前の小学生の頃に卒業した場所だ。プロを目指していた人間が、アマチュアのおじさんたちを相手に道場破りみたいな真似をして、何になるんだ。みっともないプライド狩りなんて、俺はやりたくない」

「へえー、ずいぶんとご立派なプライドね」

 和令は鼻から大きく息を噴き出した。

「昨日の午後は近所の小学生相手に六枚落ちで指して、二千円貰って喜んでた三十歳無職のくせに、急に元神童面するんじゃないわよ」

「あれは正当な指導対局だ! 一生懸命な子どもに将棋の楽しさを教えたんだよ!」

「はいはい、綺麗事乙。あんたの本音は別にあるでしょ」

 和令はずいっと顔を近づけ、清麿の鼻先を指差した。

「怖いだけでしょ? アマチュア相手に万が一にも負けて、自分のちっぽけな自尊心が木っ端微塵に砕け散るのが!」

「なっ……! 負けるわけないだろ!」

「じゃあ上がりなさいよ! 今のあんたは段位も社会的信用もない、ただの職歴なしの負け犬なの! 三百年後の完全定跡を頭に叩き込んだって、生身の人間の息遣いとプレッシャーの中で指せなきゃ、ただの頭でっかちなオタクで終わりよ!」

「オタクって言うな! 俺の十代の青春を侮辱するな!」

「だったら勝って証明しなさい! ほら、さっさと歩く!」

 背中を力任せにドンと小突かれ、清麿はよろめきながら外階段を上がらざるを得なくなった。

 二階のアルミドアノブに手をかけ、押し開ける。

 ――カランコロン、と乾いたドアチャイムが鳴った。

 途端に、冬の冷気を遮断する生暖かい暖房の熱気と、濃密な緑茶の香り、そして使い古された畳とタバコの煙の残り香が、清麿の鼻腔を包み込んだ。

 室内に満ちていたのは、心地よい騒音だった。

 ――パチッ。

 ――パチン!

 ――バシィッ!

 三十面ほど並んだ細長い対局机のあちこちから、駒と盤がぶつかり合う乾いた音が、不揃いなリズムで響き渡っている。

「ああーっ、そこで銀を引くのかよ! 痛いところ突くなあ!」

「へへっ、昨日の晩にテレビで見たプロの真似事ですよ。参ったかい?」

「誰が参るか、ここからが泥沼流よ!」

 老眼鏡をずらした白髪の老人と、作業着を着た壮年の男が、盤を挟んで額を突き合わせ、子どものように笑い合っていた。

 奥の席では、中学生くらいの少年が腕を組んで長考に沈み、その向かいで新聞を広げた老人が静かにお茶を啜っている。

 誰も、勝敗に人生を懸けてなどいない。

 プロになれなければ人生が終わるという、あの奨励会の息の詰まるような鉛色の絶望は、ここにはどこにもなかった。

 純粋に、目の前の一手に悩み、盤上の駒を動かすことを楽しんでいる人々の熱気。

(……そうだったな)

 清麿の胸の奥が、小さく疼いた。

 小学生の頃、父に連れられて初めて足を踏み入れた地元の将棋道場も、こんな匂いがしていた。

 勝つことがただ誇らしくて、駒を触っているだけで時間が一瞬で過ぎ去っていった、あの無邪気だった頃の記憶。

「いらっしゃい。見学? それとも対局かい?」

 受付カウンターの奥から、丸眼鏡をかけた白髪交じりの席主が顔を覗かせた。

「あ、ええと……」

 清麿が口ごもると、背後から和令がずいっと割り込んできた。

「対局希望です! この人、腕に自信があるらしいので、この道場で一番強い人と当ててください!」

「お、おい和令……!」

「ほう?」

 席主の眼鏡の奥の目が、面白そうに細められた。

「一番強い相手ねえ。……ちょうどいいや。今、奥の特等席で坂上さんが相手を探して退屈してたところなんだ。お兄ちゃん、腕自慢なら受けてみるかい?」

 案内されたのは、道場の一番奥、窓際の対局席だった。

 そこに座っていたのは、四十代半ばほどの、引き締まった体躯をした男だった。

 仕立てのいいウールセーターを着込み、手入れの行き届いた本黄楊のマイ駒を扇子で弄んでいる。

「坂上さん、対局相手だよ。腕に自信があるらしい」

「へえ、若いのに道場破りかい?」

 坂上と呼ばれた男は、清麿の着古したスーツと無精髭を一瞥し、人の良さそうな、だが確固たる自負を滲ませた笑みを浮かべた。

「俺は坂上。この道場じゃアマ五段をもらってる。県のアマ名人戦でもベストフォーまでは行ったことがあるよ。……手加減はなしでいいかい、お兄ちゃん?」

 アマ五段。地方のアマチュア界では押しも押されもせぬトップクラスの強豪だ。現代の将棋理論を貪欲に吸収し、最新のAI定跡も研究している手練れに違いない。

「……加藤です。よろしくお願いします」

 清麿は小さく頭を下げ、座布団の上に正座した。

 和令は対局机から二歩ほど下がった壁際の丸椅子に腰を下ろし、退屈そうに足を組んでいる。

 駒箱から出された駒を、二人が手慣れた手つきで並べていく。

 大橋流で並べ終えた盤面は、凛とした緊張感を帯びていた。

「振り駒をしようか」

「いえ……坂上さんの先手で結構です」

 清麿が静かに答えると、坂上は片眉をぴくりと跳ね上げた。

「ほう、後手番でいいと。ずいぶんと余裕だな」

 坂上は扇子をパチンと鳴らすと、迷いのない手つきで初手を指した。

 ――バシィッ!

 ▲7六歩。

 清麿もすぐに応じる。

 ――パチッ。

 △3四歩。

 序盤の数手、坂上は現代将棋の王道である、居飛車の急戦型を目指して淀みなく駒を進めてきた。

 引き締まった陣形。手慣れた駒捌き。アマ高段者特有の、自信に満ちた指し手だった。

(なるほど……。隙がない。現代の定跡をしっかりと勉強している人の将棋だ)

 清麿は心の中で冷静に対戦相手の実力を測っていた。

 かつての清麿なら、ここで自分も現代の最新形をぶつけ、奨励会仕込みの圧倒的な読みの深さで力づくでねじ伏せにいっていただろう。

 だが――清麿の脳裏に、昨夜、和令から叩き込まれたあの青白い樹形図が鮮明に浮かび上がった。

『相手が現代の王道で自信満々に攻めてきたらね、小細工なんていらないのよ』

 和令の生意気な声が蘇る。

『未来将棋の基本思想その四――「絶対不敗の受け潰し」。相手の攻め駒をすべて虚空に空振りさせて、持ち時間と自尊心を削り切ってやりなさい』

 十五手を過ぎたところで、坂上が仕掛けてきた。

 銀を中央へ繰り出し、角の利きを活かして清麿の陣形にプレッシャーをかけてくる。アマチュアが最も得意とする、破壊力抜群の急戦の攻め筋だ。

 これに対して、現代の定跡書に書かれている正しい受けは、金を上がって中央を補強するか、こちらも飛車先を突いて反撃の態勢を整えること。

 しかし。

 清麿は、呼吸を乱すことすらなく、右手を伸ばした。

 ――パチッ。

 清麿が指したのは、自陣の玉を、自ら角の睨みが直撃する危険地帯へ一歩寄せるという、奇怪極まりない手だった。

「……あん?」

 坂上の扇子を回す手が止まった。

 盤面を二度見し、清麿の顔を盗み見る。

「お兄ちゃん……手元が狂ったかい? そんなところに玉を囲ったら、こっちの角の直撃を食らうぞ」

「構いません。続けてください」

 清麿は表情を変えずに淡々と告げた。

「……ふん、脅しのつもりか。なら、遠慮なく叩き潰すまでだ!」

 坂上の目が鋭くなった。

 相手が明らかな悪手を指したのだ。咎めなければアマ強豪の名が廃る。

 坂上は勢いよく銀を前進させ、清麿の陣地の急所へと猛攻を仕掛けた。飛車と角、そして前線の銀が連動した、現代の感覚なら一瞬で相手陣を粉砕できるはずの必殺の攻め筋。

 周囲で対局を終えた常連客たちが、ざわざわと集まり始めた。

「おいおい、坂上さんの怒濤の攻めが出たぞ」

「あちゃあ、あのお兄ちゃん、玉の囲い方を間違えたな。あんな薄いところに玉を置いちゃ、ひとたまりもないぞ」

 観戦者たちの囁きが耳に届く。

 だが、清麿の心は驚くほど静まり返っていた。

(……見える。全部、見える)

 坂上の繰り出す攻めは、現代の人間にとっては確かに鋭く、恐ろしい。

 しかし、三百年後の完全定跡を知る清麿の目には、その攻め筋はすべて「あらかじめ破綻することが証明された、無謀な突撃」にしか見えなかった。

 坂上が角を成り込んできた瞬間。

 清麿は、手元から一枚の歩を、相手の飛車の目の前へとぽつりと落とした。

 ――パチリ。

「……なっ!?」

 坂上の呼吸が詰まった。

 ただの歩だ。取ろうと思えばいつでも飛車で取れる。

 だが、その歩を取った瞬間、坂上の飛車の横利きが止まり、自慢の馬の退路が完全に遮断されてしまうのだ。

「馬鹿な……!? こんな受け、どの本にも載ってないぞ……!?」

 坂上の額に、じわりと脂汗が浮き出た。

 攻めを止めれば、手番を失って清麿の反撃を食らう。

 攻めを続ければ、自慢の大駒が次々と清麿の張り巡らせた見えない罠に絡め取られていく。

 坂上は必死に頭を抱え、指先を震わせながら次の一手を絞り出した。

 だが、清麿の応手は――ことごとくノータイムだった。

 ――パチン。

 金が一枚、すっと横に寄る。

 ――パチン。

 桂馬を跳ねさせず、歩で頭を叩く。

 派手な手は何一つない。反撃すらしていない。

 ただ、坂上が命懸けで繰り出す渾身の攻め駒を、清麿の駒たちがまるで巨大な綿の壁のように、音もなく、衝撃もなく、完璧に吸収し尽くしていく。

「う……ぐっ……!」

 坂上の喉から、苦悶の呻きが漏れた。

 攻め駒が、すべて空振りに終わっていた。

 気がつけば、坂上の盤上にあったはずの強力な攻め駒はすべて無力化され、自陣には清麿の玉を脅かす手段が何一つ残されていなかった。

 そして――四十手目を過ぎた時。

 受けに徹していた清麿が、初めて前線へ駒を進めた。

 桂馬を一枚、敵陣の急所へふわりと跳ね上げたのだ。

 その瞬間、坂上の玉陣が、まるで砂の城のように音を立てて崩壊した。

 退路がない。

 受ける駒もない。

 清麿の玉は、あんなに危険に見えた中段のポジションで、傷一つ負わずに涼しい顔で鎮座している。

「…………っ!」

 坂上の手から、扇子がぽろりと畳の上に落ちた。

 男の顔は真っ白になり、肩が小刻みに震えている。

 五分間、十手先、二十手先を狂ったように読み進めようとしていた坂上だったが――やがて、深く、重い溜息を吐き出した。

「……負け、ました」

 坂上が、深々と頭を下げた。

 五十二手。

 アマ五段の強豪が、何一つ自分の将棋を指せないまま、完膚なきまでに受け潰された瞬間だった。

 静寂が、道場の片隅を支配した。

 次の瞬間――取り囲んでいた常連客たちの間で、爆発的なざわめきが巻き起こった。

「おいおいおい! 坂上さんが……手も足も出ずに負けただと!?」

「なんだ今の将棋!? 玉をあんなところに置いて、なんで攻めが全部受け止められるんだ!?」

「見たことねえぞ、あの受け! プロの新手か!? 最新のAI定跡か!?」

「すげえな、おい! 兄ちゃん、一体何者なんだ!?」

 口々に飛び交う感嘆と驚愕の声。

 席主も目を丸くし、眼鏡を指で押し上げながら呆然と清麿を見つめていた。

「お、お兄ちゃん……。あんた、本当にただのアマチュアかい? 坂上さんをこんな赤子みたいに捻り潰すなんて、元奨励会の三段リーグの上位陣か、現役のプロでもなきゃ無理だぞ……」

「あ……いや、その……」

 清麿は背筋を伸ばしたまま、目を白黒させた。

 戸惑いだった。

 奨励会という場所では、勝つことは「生き残るための最低条件」に過ぎなかった。勝っても誰も褒めてなどくれない。負ければ容赦なく見下され、切り捨てられる。四年間、勝負の果てに待っているのは胃を焼くような重圧と、敗北の恐怖だけだったのだ。

 それなのに。

 目の前の人々は、負けた坂上ですら、清麿の指し手に心底から敬意を払い、目を輝かせて拍手を送ってくれている。

「参ったよ……」

 坂上が顔を上げ、苦笑いしながら清麿に右手を差し出してきた。

「完敗だ。あんな美しい受け、生まれて初めて食らったよ。お兄ちゃん、本当に強いな。将棋を指してて、こんなに手も足も出なかったのは初めてだ。……勉強になったよ。ありがとう」

「あ……ありがとうございます……」

 差し出された手を握り返した瞬間、清麿の胸の奥底に、じんわりと温かいものが広がっていった。

 褒められた。

 認めてもらえた。

 自分の指した将棋を、誰かが心から「すごい」と言ってくれたのだ。

 四年間、誰の役にも立たず、社会の片隅で膝を抱えていた自分が、盤の上で、真っ当に誰かと繋がり、賞賛されている。

「……へへ」

 清麿の口元から、思わずぎこちない笑みがこぼれた。

 照れくさくて、誇らしくて、泣きたくなるほど嬉しかった。

 その様子を、人垣の後ろから眺めていた和令が、ふんと小さく鼻を鳴らした。

 腕を組み、ツンと顎をそらしながらも――その勝気な瞳の奥には、どこかホッとしたような、柔らかな光が灯っていた。

読んでいただきありがとうございます。

面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。