EP 6
『三百年分の宿題』
大掃除を終えた六畳間には、真新しい冬の朝の匂いが満ちていた。
長年部屋の隅に澱んでいた湿っぽい埃と絶望の気配は、開け放たれた窓から吹き込む澄んだ寒風によって綺麗さっぱり追い払われていた。
畳の角の擦り切れこそ痛々しいが、きれいに水拭きされた床にはチリひとつ落ちていない。部屋の中央に鎮座する本榧の将棋盤は、拭き込まれた油が朝日を浴びて、静謐な黄金色の輝きを取り戻していた。
加藤清麿は台所の狭いシンクの前に立ち、水道の冷水で顔を洗った。
蛇口から流れる刺すような冷たさが、徹夜明けでぼんやりと霞んでいた意識を鋭く覚醒させる。
鏡に映った自分の顔を見る。目の下にはくっきりと濃い隈が刻まれ、無精髭が顎を覆っていたが、その瞳の奥には、昨日まで漂っていた死人のような濁りはなかった。
妹の千代が振り込んでくれた二万円の通知が、スマートフォンの画面に小さく灯っている。
(……この金には、指一本触れない)
清麿は奥歯を噛み締めた。
千代が激務の合間に、自らの生活を削って工面してくれた大切な二万円だ。それに甘えて食いつなぐような真似をすれば、自分は一生、妹の優しさに寄生して生きるクズのままだ。
生活費は、自分の手で稼ぐ。
そして、三百年後にまで続くというこの呪われた借金の鎖を、盤上の勝利によって必ず断ち切る。
タオルで顔を拭って居間に戻ると、銀と藍色のライダースーツを着た未来の美少女――加藤和令が、将棋盤の前にあぐらをかいて待っていた。
「顔、洗ってきた? ずいぶんのんびりした朝礼ね、雑魚先祖」
「朝礼ってなんだ。ここは会社でも自衛隊でもないぞ」
「加藤家の未来再生プロジェクト本部よ。あんたが社長兼唯一の平社員。私は三百年後から派遣された最高経営責任者。……ほら、座りなさい」
和令が顎で座布団を指す。
清麿が言われた通りに正座すると、和令は膝の上の透明な薄型端末を指先で軽く弾いた。
――ヒュン。
かすかな電子音とともに、青白い光の粒子が部屋いっぱいに広がった。
ホログラムが描き出したのは、何重にも重なり合い、網目のように張り巡らされた巨大なトーナメント表のような樹形図だった。
「……おい、和令」
「なによ」
「なんだ、この天文学的な数字と記号の羅列は」
「今日の宿題よ」
和令は事も無げに言った。
「相掛かり、角換わり、矢倉、対振り飛車。現代の将棋界で頻出する主要戦型における『初手から五十手目までの完全分岐ルート』。全部で八百四十二パターンあるわ」
「は……!? は、八百四十二……!?」
清麿は思わず叫んだ。喉が裏返る。
「馬鹿を言うな! 一手ごとに枝分かれする手順を、八百以上も一日で覚えられるわけがないだろ! 脳みそを電子レンジでチンする気か!?」
「騒がないでよ、原始人。三百年後の将棋アカデミーじゃ、小学生の研修生が入学初日にクリアする基礎中の基礎よ」
「小学生を盛るな! そんな幼稚園児並みのハッタリが通じるか!」
「ハッタリじゃないわよ! 未来の子供たちはナノ神経接続で寝てる間に脳にダウンロードするんだから!」
「ほら見ろ! 生身の人間の記憶力じゃないだろうが! 俺は昭和と平成のハイブリッドな生身のアラサーだぞ!」
「時代遅れのポンコツが開き直るんじゃないわよ! だいたいね、ただの丸暗記じゃないの。相手の応手ごとに、どうしてその手が悪手なのか、どのマスに駒を引けば相手の玉が崩壊するのか、理屈ごと全部頭に叩き込むのよ!」
「理屈ごと八百パターン覚えるほうが難易度上がってるじゃねえか!!」
「四の五の言わない! 奨励会三段まで行ったんでしょ!? 二十代の青春を全部将棋に注ぎ込んだって言うなら、その腐った脳細胞の底力を今こそ見せなさいよ!」
「ぐっ……!」
痛烈な急所を突かれ、清麿は言葉に詰まった。
和令は容赦なく、端末から光のウィンドウを清麿の鼻先へと押し出してきた。
「いい? あんたが目指すのは、アマチュア大会の優勝、そしてプロ公式戦での十勝よ。生半可な現代の知識じゃ、プロの深い研究に絡め取られて一瞬で窒息するわ。プロを赤子のように捻り潰すには、現代の常識を三百年分飛び越えた『絶対の答え』を、呼吸するように指せなきゃお話にならないの!」
不遜で、傲慢で、毒舌に満ちた言葉。
だが、その瞳の奥にある真剣さは、昨日ベランダで清麿を救った時と何一つ変わっていなかった。
清麿は荒い息を整え、額の汗を拭った。
「……わかったよ。やってやる」
「素直でよろしい。じゃあ、まずは第一関門――現代では『後手有利』と信じ込まれている角換わり腰掛け銀の最新形からいくわよ」
そこから、地獄のような特訓が幕を開けた。
和令が提示する局面は、清麿の十数年の将棋観をことごとく粉砕するものばかりだった。
「ほら、ここで相手が金を上がってきたら?」
「……銀を引いて、中央の連結を保つ」
「ブー! マイナス四百点! そんな守旧派のヘボ手を指すから三段止まりなのよ! 正解は、金を無視して端の歩を突き捨てる!」
「なっ……! そんな手、端の香車をタダで取られて自陣が崩壊するぞ!?」
「取らせるのよ! 香車を取らせてる間に、相手の玉の退路を二筋先で封鎖するの! ほら、十手先の盤面を見てみなさい!」
和令が空中に描く局面図を見て、清麿は息を呑んだ。
取らせた香車の代償に、敵陣の急所に打ち込まれた一枚の歩。それが、相手の最強の守備駒である金を完全に無力化し、わずか数手で相手玉を一手一手の一本道へと追い詰めていた。
(……嘘だろ。こんな筋、現代の定跡書のどこにも載っていない……!)
大駒を惜しげもなく捨て、相手に目先の利益を与えながら、盤面全体の主導権と速度を強奪する。
まさに『パターンB・大駒放棄のカウンター』。現代の棋士が見れば狂気の沙汰としか思えない手が、三百年後の視点では、数学の定理のように寸分の狂いもなく相手を刺し殺す必勝形となっていた。
清麿の脳が、熱を帯びて軋み始める。
だが――奇妙なことが起こり始めた。
最初の数十パターンこそ、あまりの常識外れさに混乱していた清麿だったが、百パターンを超えたあたりから、指の動きが劇的に変わったのだ。
「……次、相手が飛車先を突いてきたら」
和令の問いかけに対し、清麿は光の盤面を見ることなく、手元の駒をパチンと弾いた。
「銀を上がるんじゃない。玉を自ら五筋に寄せて、相手の角の睨みを外す」
「……へえ」
和令の瞳が、わずかに見開かれた。
「じゃあ、そこで相手が意表を突いて桂馬を跳ねてきたら?」
「桂馬は取らない。取れば相手の銀が成り込んでくる。放置して、逆サイドの桂頭に歩を叩く。これで相手の攻めは一手遅れになる」
「……っ」
パチ、パチ、パチと、清麿の手が淀みなく駒を動かしていく。
和令が繰り出す未来の難問に対して、清麿は一度見た手順を、まるで何年も前から指し慣れていたかのように完璧な精度で再現し始めたのだ。
和令は端末を操作する手を止め、信じられないものを見る目で清麿を見つめていた。
(……嘘でしょ? 八百以上ある分岐の、まだ三分の一しか見せてないのよ……?)
和令自身、三百年後の世界でこのアーカイブを暗記しようとして、何度も挫折したのだ。データとして頭に詰め込んでも、いざ実戦になるとどの分岐を使えばいいのか分からなくなり、パニックを起こして敗北を重ねていた。
だが、目の前の男は違った。
清麿は、ただ記号として暗記しているのではない。
十代の頃から奨励会という暗黒の魔境で、何十万時間と盤を見つめ続け、駒の重心や気配を肌で感じ取ってきた「本物の将棋指しの地力」がある。
未来の定跡という異質なパズルのピースを、彼の中に眠っていた膨大な経験値の土台の上に、恐るべき速度で正しく組み直しているのだ。
「おい、和令。どうした? 手が止まってるぞ」
清麿が鋭い眼差しで和令を見上げた。
「この変化、相手が同銀と取ってきた場合はどう受けるんだ? 端の歩を突く手と、金を寄せる手、どちらのほうが敵玉の逃げ道を効率よく狭められる?」
「……っ! な、生意気言わないでよ! 雑魚のくせに質問が鋭いのよ!」
和令は慌てて髪をかき上げ、胸の動揺を隠すように怒鳴った。
(……これが、『元奨励会三段』の力なの……?)
プロになれなかった挫折者、二十六歳で夢を絶たれた負け犬。
歴史の記録にはそう書かれていた。だが、その肩書きの裏にどれほどの血の滲むような研鑽が積み上げられていたのかを、和令は今、初めて肌で理解し始めていた。
正午を過ぎた頃、清麿の腹が派手な音を立てて鳴り響いた。
「……ぐうぅぅぅ」
「……」
「……」
二人の間に、気まずい沈黙が流れる。
和令が心底蔑むような目で清麿のお腹を見つめた。
「何よその情けない音。脳みそフル回転させすぎて、胃袋の燃料が切れたわけ?」
「人間なんだから腹は減るだろ! 昨日の夜から水しか飲んでないんだ!」
「威張るんじゃないわよ。で、何か食べるものはあるの?」
清麿は立ち上がり、台所の戸棚を開けた。
中に入っていたのは、賞味期限が三ヶ月前に切れた乾燥うどんの切れ端と、使い古した塩の袋だけだった。冷蔵庫の中は、空のペットボトルが一本転がっているだけだ。
「……何もないな」
「絶望的ね。三百年後の難民キャンプのほうがまだ食糧事情がいいわ」
「うるさい。……千代の金には手をつけないって決めたんだ。飯を食うなら、まず金を稼ぐ」
「稼ぐって、あんた携帯代も払えなかった無職でしょ? 今日中に手に入る現金なんてあるわけ――」
「ある」
清麿はスマートフォンの画面を操作した。
回線が復活したおかげで、各種のアプリが使えるようになっていた。
清麿が開いたのは、近隣地域の単発仕事や不用品取引を仲介する地域掲示板のマッチングアプリだった。
「先週、スーパーの面接に落ちた後、藁にもすがる思いで登録だけしておいたんだ。『将棋の指導・対局相手・初心者レッスン、一時間二千円で承ります』ってな」
「はあ? そんな怪しい個人レッスン、誰が頼むのよ」
「頼むやつがいるんだよ。……ほら、昨日の夜、一件問い合わせが入ってた」
清麿が見せた画面には、近所の将棋好きの小学生の母親からのメッセージが表示されていた。
『息子が将棋教室に通っているのですが、なかなか勝てずに悩んでいます。今日の午後、一時間だけ見てもらえませんか? 場所は駅前のコミュニティセンターのフリースペースでお願いします』
「……本気?」
和令が目を丸くする。
「元奨励会三段のプライドはどうしたのよ。町の子ども相手に一時間二千円の家庭教師なんて、あんたにとっては屈辱なんじゃないの?」
「屈辱?」
清麿は自嘲気味に口元を緩め、首を横に振った。
「飯も食えずに妹に金を出させて、ベランダから飛び降りようとしてた男だぞ。プライドなんて、四年前の退会の日にドブに捨てたよ。……俺が今持ってるもので、誰かの役に立って、真っ当に千円でも二千円でも稼げるなら、頭だって何千回でも下げる」
その言葉には、気負いも衒いもなかった。
ただ、地に足の着いた、生きていくための覚悟だけがあった。
和令は小さく息を呑み、何かを言いかけて口を閉じた。そして、ぷいと横を向いた。
「……あっそ。せいぜい粗相のないようにしなさいよ。加藤家の名前を汚したら承知しないから」
午後二時。
清麿は四年ぶりに袖を通した皺くちゃのスーツを着て、駅前のコミュニティセンターへ向かった。
待っていたのは、小学四年生の少年と、その母親だった。
「よろしくお願いします……!」
緊張でガチガチになっている少年を前に、清麿は腰を低くして畳の上に座った。
かつての清麿なら、「なんで元三段の俺が、駒の動かし方を覚えたばかりのガキの相手をしなきゃならないんだ」と内心で腐っていただろう。
だが、今の清麿は違った。
少年の小さな手が、おぼつかない手つきで歩を進めるのを見て、清麿はかつて妹の千代に将棋を教えていた、遠い日の記憶を思い出していた。
「うん、いい手だね。自分の玉を守りながら、相手の隙をしっかり狙えてる」
「え……本当ですか?」
「ああ。でもね、ここでもう一枚、銀を応援に呼んであげると、もっと強くなるよ。ほら、駒たちがスクラムを組むみたいに」
清麿は専門用語を使わず、少年の目線に合わせて丁寧に言葉を選んだ。
少年の目が、みるみるうちに輝きを帯びていく。
六枚落ちの手合いで、清麿はわざと少年が良い手を指せるような隙を作り、少年が自力でその急所を発見できるように優しく誘導した。
――パチン!
「あ……詰んだ!」
少年が歓声を上げた。
「すごい! 先生、僕、勝てた!」
「お見事。最後まで集中を切らさずに、よく玉を追い詰めたね」
清麿が微笑んで頭を撫でると、見守っていた母親が感激したように頭を下げた。
「先生、本当にありがとうございます! あの子、教室の先生が厳しくて、ずっと将棋が嫌いになりかけてたんです……。こんなに楽しそうに指す姿、初めて見ました!」
指導が終わると、母親から丁寧にお礼を言われ、封筒に入った二千円の現金を手渡された。
さらに、帰り際には「もしよろしければ、来週もお願いできませんか?」と頭を下げられたのだった。
夕方。
夕焼けで真っ赤に染まった商店街を、清麿は歩いていた。
ポケットの中には、自分の手で稼いだ二千円札が入っている。
駅前のスーパーに立ち寄り、値引きシールの貼られたもやしを一袋二十円で二つ、特売の鶏胸肉を一枚百五十円、卵のパックを百八十円、そして特売の米を二キロ買い込んだ。
締めて、千二百四十円。
お釣りの七百六十円をポケットにしまい、レジ袋を提げて歩く足取りは、羽が生えたように軽かった。
たった二千円だ。
社会的に見れば、何の自慢にもならない、微々たる日銭に過ぎない。
だが――スーパーの面接で『世間を舐めるな』と嘲笑され、コンビニのバイトすらクビになって社会から完全に弾き出されていた清麿にとって、それは四年ぶりに『人間として社会に存在することを許された』証拠だった。
アパートへ戻ると、和令が六畳間で退屈そうに寝転がり、天井に向けて透明端末を弄んでいた。
「遅い! 飢え死にするかと思ったわよ!」
「文句を言うな。ほら、飯にするぞ」
清麿は台所に立ち、手際よくもやしと鶏胸肉を刻み、醤油と酒で簡単な鍋を作った。
ご飯が炊き上がり、小さな六畳間のちゃぶ台の上に、湯気を立てる素朴な夕食が並ぶ。
「……何これ。質素極まりないわね」
和令は箸を持ち、鍋の中をツンツンと突いた。
「未来の合成タンパク質ブロックよりはマシだろ。千代の金には頼らず、俺が稼いだ金で買ったんだ。文句があるなら食うな」
「食べるわよ! 誰のせいで腹ペコになったと思ってんの!」
和令は鶏肉を一口放り込み、もぐもぐと咀嚼した。
そして、一瞬だけ目を丸くし、すぐにそっぽを向いた。
「……まあ、原始人の手料理にしては、及第点ね」
「素直に美味いって言えないのかよ」
清麿も温かいご飯を口に運んだ。
米の甘みと、熱いスープの旨味が、空っぽの五臓六腑に染み渡っていく。
生きている。
昨日まで、死ぬことばかり考えていた自分が、今は温かい飯を食い、目の前の少女と憎まれ口を叩き合っている。
それだけで、胸の奥から熱いものが込み上げてきそうだった。
食事が終わると、和令は端末をちゃぶ台の上に置き、真剣な顔で清麿を見据えた。
「……さて、雑魚先祖」
「なんだ」
「宿題の第一段階は、概ね頭に入ったようね。あんたの記憶力だけは、認めてあげるわ」
「お前に褒められると背筋が寒くなるな」
「減らず口叩かないの。……明日は、いよいよ実戦よ」
和令の言葉に、清麿の箸が止まった。
「実戦……?」
「そうよ。部屋の中でいくら手順を覚えたって、生身の人間相手に指さなきゃ意味がないわ。あんたのその錆びついた勝負勘を、叩き起こしに行くの」
和令は不敵に笑い、端末の画面を清麿に向けた。
そこに表示されていたのは、近隣の駅前にある、年季の入ったビルの写真だった。
『千寿将棋道場』――看板には、力強い筆文字でそう書かれていた。
「町の将棋道場よ。アマチュアの高段者や、腕自慢の猛者たちが集まる場所。……そこで、三百年後の定跡を実際にぶつけてみなさい」
清麿の心臓が、トクンと小さく跳ねた。
町の道場。
かつて奨励会三段まで登りつめた自分にとって、アマチュアの道場など、十代の頃に通り過ぎた場所に過ぎない。
だが、今の自分は――四年の空白を抱えた、ただの三十歳の男だ。
恐怖がないと言えば嘘になる。
だが、それ以上に。
胸の奥で、かつてないほど熱く、激しい勝負師の血が騒ぎ始めていた。
「……いいだろう。行ってやるよ」
清麿の静かな返答に、和令は満足そうに口元を吊り上げた。
読んでいただきありがとうございます。
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