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『未来の将棋は暗記ゲーでした~30歳でプロを諦めた元奨励会三段、300年後の子孫に「必勝定跡」を叩き込まれて無双する~』   作者: 月神世一


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EP 5

『妹からの着信』

 東の空が、薄墨を水で溶かしたような白さに染まり始めていた。

 木造アパートの薄い壁を隔てて、新聞配達のバイクが遠くを走り去る音が、冷え切った六畳間に微かに響く。

 一睡もしていなかった。

 加藤清麿は、畳の上に正座したまま、本榧の盤を見つめていた。

 頭がカッカと熱い。眼球の奥が焼け付くように痛み、首筋は鉄板が入ったかのように強張っている。

 三十歳の衰えた肉体にとって、徹夜の将棋研究は拷問に等しかった。だが、胸の奥で燻り始めた炎は、どれほど体が悲鳴を上げようとも、消えるどころか激しさを増すばかりだった。

 盤上には、未来の完全定跡から引き出された、三十手目以降の分岐が無数に展開されている。

 和令が呼び出す青白い光の樹形図を睨みつけ、一手動かしては脳内で枝分かれを追い、和令に反撃されては頭を抱え、また最初から指し直す。その繰り返し。

 四年間、完全に錆びついていたはずの清麿の思考回路は、凄まじい摩擦熱を上げながら、猛烈な勢いで回転を取り戻しつつあった。

「……はあ、はあ……。これで、どうだ。四十五手目、桂馬を跳ねて……玉の退路を封じる」

 清麿が震える指で駒を進めると、向かいに座る加藤和令は、冷え切った夜明けの光の中で大きくあくびを噛み殺した。

「……五十五点ね。落第点は免れたけど、三百年後なら小学生の研修生でも三秒で指すわよ」

「五十五点でも……さっきよりはマシだろ」

「当たり前でしょ。同じ局面で四回も同じ罠に引っかかってたくせに、威張らないでちょうだい」

 和令は膝の上の透明な端末をパチンと軽く叩き、光の投影を消した。

 肩口まで伸びた艶やかな黒髪が、疲労の滲む少女の頬を掠める。口は相変わらず減らないが、さすがに一晩中付き合わされた彼女の顔にも、隠しきれない疲労の色が浮かんでいた。

 すきま風が障子を揺らし、部屋の温度が一段と下がる。

 清麿が息を吐くと、白い煙となって虚空に消えた。

 その時だった。

 ――ピロリロリン、ピロリロリン。

 静まり返った六畳間に、けたたましい電子音が突如として鳴り響いた。

「……っ!?」

 清麿はびくりと肩を跳ね上がらせた。

 音の発生源は、万年床の脇、督促状の紙くずに埋もれていた清麿のスマートフォンだった。

 画面が激しく明滅し、震えながら畳の上を滑っている。

「な、なんでだ……? 携帯の回線は、滞納で昨日から止まってたはずじゃ……」

 清麿が呆然と呟くと、和令がジト目でスマホを指差した。

「あんたの頭のメモリだけじゃなくて、耳まで狂ったわけ? 鳴ってるんだから早く出なさいよ。近所迷惑でしょ」

 清麿は這うようにしてゴミの山へ手を突っ込み、端末を拾い上げた。

 液晶画面に表示されていたアンテナピクトは、しっかりと三本の電波を捉えている。

 そして、画面の中央に浮かび上がっていた発信元の名前を見た瞬間、清麿の心臓がドキンと跳ねた。

『千代』

 妹からの着信だった。

 さらに画面の隅には、先ほど届いたばかりのショートメッセージの通知が小さく表示されていた。

『ご利用料金のお支払いが確認できました。サービスの利用を再開いたします』

「……千代が、払ったのか……?」

 清麿の指先が、凍りついたように動かなくなった。

 携帯代の未払い分。妹が、自分の給料から肩代わりして支払ったのだ。

 ここ数ヶ月、電話をかけてくる妹を疎ましく思い、惨めさから着信を拒絶し続けていたというのに。

 胸の奥を、熱く焼けた鉛を流し込まれたような痛みが貫いた。情けなくて、申し訳なくて、消えてしまいたかった。

「……出ないの?」

 和令の静かな声が降ってきた。

 振り返ると、和令は先ほどまでの不遜な態度を消し、冷徹なまでに真剣な眼差しで清麿の手元を見つめていた。

「……出られるわけないだろ。合わせる顔がない。金もないのに、妹に携帯代まで払わせて……。俺は、どこまであいつに甘えれば気が済むんだよ」

「出なさい」

 和令の声は低く、だが有無を言わさぬ迫力があった。

「千代おばあちゃんが、どんな思いであんたの携帯代を払って、どんな思いで今ボタンを押してるか、少しは考えなさいよ」

「……っ」

 清麿は唇を噛み締め、震える親指で通話アイコンを右へスワイプした。

 端末を耳に当てる。

「……もしもし」

『――お兄ちゃん!?』

 受話器の向こうから、弾かれたような声が飛び込んできた。

 息を切らし、焦りと安堵が綯い交ぜになった、懐かしい妹の声だった。

『よかった……! 繋がった……! 本当によかった……!』

「千代……。お前、携帯代……」

『電話が急に止まったから、もしかして部屋で倒れてるんじゃないかって、心配で……! 勝手に手続きしてごめんね。でも、連絡がつかないと、どうしていいかわからなくて……』

 早口で捲し立てる千代の声の奥から、ピピピという医療機器の電子音と、忙しなく行き交う足音が微かに混じって聞こえた。

 夜勤明けだ。総合病院の看護師として、一晩中患者の命を預かって走り回り、疲労困憊の体でナースステーションの片隅から電話をかけてきているのだ。

 それに引き換え、自分はどうだ。

 暖かい部屋に引きこもり、勝手に人生に絶望し、妹の善意にすら顔を背けていただけではないか。

「……勝手なことすんなよ」

 喉の奥から絞り出した声は、自分でも嫌悪感を覚えるほど、冷たく刺々しいものになってしまった。

「お前には関係ないだろ。俺がどうなろうと、お前が金を払う筋合いなんかないんだ」

『関係ないわけないでしょ!』

 千代の声が、受話器越しに鋭く響いた。

『お兄ちゃんでしょ!? たった一人の、私の家族じゃない! ……お父さんもお母さんも、あんな頑固で意地っ張りで、お兄ちゃんのこと突っぱねたままだし……。私が連絡取らなくなったら、本当にお兄ちゃん、一人になっちゃうじゃない……!』

「俺は一人で生きていける。余計なお世話だ」

『嘘ばっかり! 一人で生きていけないから、ご飯も食べずに部屋に閉じこもってるんでしょ!?』

 痛烈な正論が、清麿の胸を抉る。

 千代は深く息を吸い込み、少しだけ声を落とした。怒りを抑え、必死に兄を思い遣ろうとする、切ない声音だった。

『……怒らないで、お兄ちゃん。責めてるわけじゃないの。ただ……心配なの。お願いだから、ご飯だけはちゃんと食べて。……さっき、少しだけ口座にお金振り込んだから』

「は……? 振り込んだって、お前……!」

『二万円だけだけど。今月の私の生活費から、なんとか工面したから。……無駄遣いしちゃダメだよ。ちゃんと、お米とお肉買ってね』

「いらない! 送り返す! そんな金、受け取れるわけないだろ!」

『受け取って!』

 千代の叫びのような声が、鼓膜を震わせた。

『受け取ってよ……。お願いだから。……私ね、お兄ちゃんがプロになれなくたって、将棋を辞めたって、そんなのどうでもいいの。神童じゃなくなったって、ただの無職のおじさんになったって、生きててくれればそれでいいんだよ。……勝たなくたって、生きてていいんだよ、お兄ちゃん』

 視界が、急激に滲んだ。

 勝たなくたって、生きてていい。

 四年前、プロになれなかった自分には生きている価値などないと思い込み、周囲のすべてを拒絶して殻に閉じこもった清麿にとって、それは何よりも欲しかった、そして何よりも自分を許せない言葉だった。

『……あ、呼ばれちゃった。次の申し送りがあるから、もう切るね』

 千代の声に、再び慌ただしさが戻る。

『また電話するから。絶対、出てね。……約束だよ』

 ブツッ、と通話が切れた。

 ツーツーという無機質な発信音が、受話器から虚しく響く。

「…………」

 清麿は腕をだらりと下ろし、スマートフォンの画面を見つめた。

 画面には、妹の短い通話履歴と、二万円が振り込まれたという銀行アプリの通知が冷酷に浮かび上がっていた。

 涙が、畳の上にポタリと落ちた。

 死のうとしていた。

 昨日の夜、自分はこの命を投げ捨てて、楽になろうとしていた。

 だが、もしあの時死んでいたら。いや、和令の言う通り中途半端に生き延びて、意識を失ったまま何十年もベッドの上に転がっていたら。

 千代は、その細い肩にどれだけの地獄を背負わされていたのか。

「……バカだな、あいつは」

 清麿はかすれた声で呟いた。

「俺みたいなクズ兄貴なんか、さっさと見捨てて、自分の幸せだけ考えてりゃいいのに……」

「そうね。大バカよ」

 部屋の隅から、和令の声が静かに響いた。

 和令は壁に背を預け、腕を組んだまま、虚空を見つめていた。

 その横顔には、いつもの勝気な毒舌はなく、どこか遠い時代を幻視しているような、深い哀愁が漂っていた。

「千代おばあちゃんはね、未来の加藤家の記録資料でも、ずっと笑ってたわ」

「……え?」

「病院の激務に追われて、自分の結婚も諦めて、あんたの莫大な医療ローンを返すためにボロボロになって働いて……それでも、あんたの病室で撮った写真の中の彼女は、いつも優しそうに笑ってたのよ」

 和令の拳が、ぎゅっと握りしめられた。

「『お兄ちゃんは、いつか目を覚ますから』って。その一言のために、あのおばあちゃんは人生のすべてをドブに捨てたの。……あんたがここで勝手に絶望して飛び降りようとした、そのちっぽけな逃げ腰のせいでね」

 清麿は奥歯を噛み締めた。

 和令の言葉は、清麿の魂を直接殴りつけるような重みを持っていた。

 未来の悲劇は、ただの数字や借金の額面だけの問題ではなかったのだ。

 千代という、たった一人の優しい妹の人生を、丸ごと呪いの中に引きずり込むことだったのだ。

「……変えなきゃ、ダメだな」

 清麿は、手の甲で乱暴に目元を拭った。

「こんな未来、絶対に千代に背負わせるわけにはいかない」

「当然よ。そのために私が三百年分の時空を跳び越えて、あんたの鳩尾にドロップキックを叩き込んだんだからね」

 和令はふっと息を吐き、いつもの不敵な表情を取り戻した。

 だが、その瞳の奥には、清麿をただの「ダメな先祖」として見下すだけではない、かすかな共犯者としての光が宿っていた。

 清麿はゆっくりと立ち上がった。

 徹夜の疲労で足元がふらついたが、不思議と心は澄み渡っていた。

 四年間、朝を迎えるたびに思っていたのは「早く今日が終わればいい」「なぜ自分はまだ息をしているのか」ということだけだった。

 だが、今は違う。

「……明日は、何をする?」

 無意識に、その言葉が口からこぼれ落ちていた。

 明日。

 自分の未来に対して、何のアクションを起こすべきか。自らの意思で「次の一手」を考えたのは、奨励会を去ってから実に四年ぶりのことだった。

 すると、和令がツンと顎を上に向けて、鼻から激しく息を噴き出した。

「はあ? 明日の心配をする前に、まずその足元を見なさいよ!」

「……足元?」

「そうよ!」

 和令は長い脚を伸ばし、清麿の足元に散らばるゴミの山をトスッと爪先で突いた。

「散乱したカップ麺の容器! 脱ぎ散らかした靴下! ホコリまみれの督促状! 何よこの部屋は、豚小屋のほうがまだ清潔感があるわ!」

「豚小屋とは何だ! 俺なりに生活の導線は確保してある!」

「どこが導線よ! 地雷原の間違いでしょ! だいたいね、空気が悪すぎるのよ! 畳の粉とハウスダストで私の肺が悲鳴を上げてるわ!」

「お前が勝手に未来から飛び込んできたんだろうが! 文句があるなら三百年後に帰れ!」

「帰れるもんならとっくに帰ってるわよ! あんたがプロになって歴史を変えるまで、私はここに居座るの! だから、まず部屋を片付けなさい!」

「なんで俺がお前の命令で掃除しなきゃならんのだ!」

「将棋の前に人間生活を覚えろ、雑魚先祖!!」

 和令は叫ぶなり、押し入れの戸をガラリと開け放ち、中から埃をかぶったゴミ袋の束を引っ張り出して清麿の胸元へ投げつけた。

「ほら、受け取りなさい! 燃えるゴミと燃えないゴミを分別するわよ!」

「ちょ、まっ……いきなり仕切るな! 燃えるゴミの日は明日なんだよ!」

「だったら今日中に袋詰めしとけばいいでしょ! 四の五の言わずに手を動かす!」

「くそっ……俺の家なのに、なんでお前にこき使われなきゃいけないんだ……!」

「千代おばあちゃんから貰った二万円を、こんなゴミ溜めに置いとく気!? あんたが今すぐできる千代おばあちゃんへの恩返しはね、まともな部屋で人間らしい生活を送ることよ!」

「ぐっ……!」

 痛いところを突かれ、清麿はぐうの音も出なくなった。

 二十分後。

 築四十年のボロアパートの一室で、奇妙な大掃除が始まった。

 清麿が床のゴミを次々と袋に放り込み、和令が窓を全開にして換気扇を回す。

 凍てつく冬の朝の風が吹き抜け、部屋に澱んでいた埃と絶望の匂いを、容赦なく外へと押し流していく。

 散らばっていた督促状は綺麗に重ねて机の端にまとめられ、万年床の万年シーツは引っ剥がされて洗濯機へと放り込まれた。

 掃除機をガーガーと唸らせながら畳の溝の埃を吸い取っていく清麿の横で、和令は濡れ雑巾を器用に操り、本榧の将棋盤の脚を丁寧に拭き清めていた。

「……おい、和令」

「なによ、手を止めないで掃除機かけなさいよ」

「その盤……手入れ、知ってるのか?」

「舐めないでちょうだい。未来の棋士だって、盤を大事にする心くらい受け継いでるわよ。……榧の盤はね、乾拭きが基本だけど、この枠の汚れはこうやって落とすの」

 和令の手つきは驚くほど優しく、どこか慈しむようだった。

 口は悪く、態度は傲慢だが、この少女の将棋に対する情熱だけは、紛れもなく本物なのだと清麿は改めて感じていた。

 朝日が、窓から真っ直ぐに差し込んできた。

 ゴミ袋でパンパンになった三つの大袋が部屋の隅に並び、見違えるように広くなった六畳間。

 擦り切れた畳は相変わらずだが、埃っぽさは消え、澄んだ冬の光が部屋の隅々まで行き渡っていた。

 中央に鎮座する将棋盤が、飴色の艶を取り戻して誇らしげに光っている。

「ふう……」

 清麿は額の汗を拭い、部屋を見渡した。

 四年間、足を踏み入れることすら苦痛だった自分の部屋が、ほんの少しだけ、呼吸のしやすい場所に変わっていた。

「……よし。次は生活費だ」

 清麿は千代から振り込まれた二万円の通知画面を見つめ、静かに息を吸い込んだ。

「千代の金には、極力手をつけない。……俺自身の手で、稼ぐ方法を見つける」

「言ったわね、雑魚先祖」

 和令は雑巾をバケツに放り込み、悪戯っぽく口元を歪めた。

「生活費を稼ぎつつ、将棋の腕を磨く。……あんたのその錆びついた三段の脳みそを叩き直すためのメニューは、もう私の頭の中に三百年分揃ってるわよ」

「望むところだ。……やってやるよ」

 清麿の返答に、迷いはなかった。

 動き出した人生の時計の針が、静かに、だが力強く、次の秒針を刻み始めていた。

読んでいただきありがとうございます。

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