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『未来の将棋は暗記ゲーでした~30歳でプロを諦めた元奨励会三段、300年後の子孫に「必勝定跡」を叩き込まれて無双する~』   作者: 月神世一


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EP 4

『未来の将棋は暗記ゲーでした』

 六畳間の冷気配が、肌を刺すように痛かった。

 擦り切れた畳の上、加藤清麿は額を擦りつけるようにして頭を下げていた。

 指先は震え、膝にはじっとりと嫌な汗が滲んでいる。

 三十歳。職歴なし。親に絶縁され、かつて愛した人さえも自暴自棄になって傷つけて逃げ出した、人生の落伍者。数分前にはベランダから飛び降りて全てを終わらせようとしていた自分が、今、見ず知らずの少女――三百年後からやってきたという子孫の前に平伏している。

 屈辱だった。惨めさで舌を噛み切りたいほどだった。

 だが、それ以上に――あの六十数手で盤上に展開された、息を呑むほど美しく冷酷な『未来の将棋』の残影が、清麿の魂を鷲掴みにして離さなかった。

「……頭を上げなさいよ、見苦しい」

 頭上から、呆れ果てたような声が降ってきた。

 清麿が恐る恐る顔を上げると、加藤和令は腕を組み、長い黒髪を指先で弄びながら、冷ややかな視線を向けていた。

「見苦しくて結構だ。……教えてくれるまで、俺はここから動かん」

「誰がタダで教えるって言ったのよ。三十歳の無職に手取り足取り将棋を教える私の身にもなりなさい。エネルギーの大半を使って時空跳躍してきただけでも大損害なのに」

「金なら……ないが、お前の目的だって、俺をプロにして未来の借金を帳消しにすることなんだろ!」

「開き直るんじゃないわよ、雑魚先祖! あんたが作った借金でしょ!」

「ぐっ……そ、それは……」

「だいたいねぇ、人に教えを乞う態度じゃないのよ。『教えてください、和令様』でしょ」

「誰が様付けするか! 俺はお前の三百年前の先祖だぞ! 年長者を敬え!」

「三百年遅れた文明の原始人に敬意を払う未来人がどこにいるのよ。ほら、口を動かしてないで端末を見なさい」

 和令が細い指先で空を薙ぐと、彼女の膝の上に置かれた透明な薄型端末から、青白い光の粒子が立ち上った。

 光は六畳間の天井付近まで広がり、夜空の星座のように複雑怪奇な樹形図を描き出した。

「なっ……なんだ、これ……」

 清麿は圧倒されて息を呑んだ。

 無数の光の点が、幾重にも連なる枝となって四方八方へ伸びている。ひとつひとつの光の結節点に、極小の文字と将棋盤の局面図が浮かんでいた。

「これが、西暦二三二六年の将棋界を支配する『完全定跡アーカイブ』よ」

 和令が端末を軽く叩くと、中央の光の幹がぐんと拡大された。

「あんたたちの時代でも、将棋AIはプロを凌駕してるんでしょ? でもね、現代のAIなんて、三百年後の視点から見ればただの電卓よ」

「で、電卓だと……? 現代のソフトだって、毎秒何千万手も読んで人間じゃ絶対に思いつかない手を指すぞ」

「甘いわね。現代のAIがやってるのは、膨大な計算に基づいた『確率と評価値の推測』に過ぎないわ。『たぶんこの手が一番良さそうだ』っていう統計の域を出てないの。でも、未来のアーカイブは違う」

 和令は残酷なまでに平然と言い放った。

「三百年間のスーパーコンピューターの進化と、何億局もの自己対戦の果てに、将棋の枝分かれはほぼ極限まで解析されたわ。つまり『推測』じゃないの。『最初から最後まで、双方の最善手を尽くした絶対的な結論』が、ここには全部記録されてるのよ」

「絶対的な……結論……?」

「そう。未来の将棋は、盤上の宇宙を人間が悩んで読み合う競技じゃない。この膨大なアーカイブから、最適解をどれだけ脳内に正確にインプットし、実戦で誤差なく引き出せるかという『暗記ゲー』なのよ」

 清麿の背筋に、冷たいものが走った。

 暗記ゲー。

 神聖なる六十四マスの戦いが、命を削る読み合いが、ただの記憶力テストに成り果てているというのか。

「信じられないなら、あんたが命懸けで信奉してた現代将棋の『正義』を壊してあげるわ」

 和令が指を滑らせると、ひとつの局面図が目の前に大きく浮かび上がった。

 それを見た瞬間、清麿の目が丸くなった。

「これは……相掛かりの最新形……!」

 奨励会を去る直前、清麿が血の滲むような思いで研究し、現代のトッププロたちもこぞってタイトル戦で採用している、現代将棋の最高峰とされる局面だった。

「先手の手堅い銀引きに対して、後手がどう反撃するか。現代の結論では、先手の手陣が引き締まっていて+三百点――先手がわずかに作戦勝ち、とされてるはずよね?」

「あ、ああ……そうだ。この銀引きは現代の定跡書でも『絶対の一手』として絶賛されてる。隙がなく、相手の攻めを完全に封じる手だ」

「大間違いよ」

 和令は冷笑を浮かべ、光の盤面の銀を指先で弾いた。

「この銀引き、西暦二一一五年に『歴史的悪手』として完全論破されたわ。評価値は後手+二千点。後手必勝よ」

「は……!? に、二千点……!? 馬鹿な、銀を一枚引いただけだぞ!?」

「その銀を引いたせいで、玉の逃げ道が将来的に一手分狭まるのよ。あんたたちの時代の貧弱な計算力じゃ、三十手後に訪れる即詰み筋が見えなかっただけ。ほら、見てみなさい」

 和令が端末を操作すると、光の駒が滑らかに動き出した。

 後手からの猛烈な反撃。銀を引いて鉄壁に見えたはずの先手陣が、嘘のようにバラバラに解体されていく。急所を突く桂馬の捨て駒、虚空を睨むような端歩の突き捨て――清麿の知る現代の感覚では「無理攻め」に見える手が、パズルのピースが完璧に嵌まるように先手玉を追い詰めていく。

 最後は、逃げ道を塞がれた先手玉が、盤の中央で美しく討ち取られていた。

「な……ん……だよ、これ……」

 清麿の口から、掠れた呻きが漏れた。

 自分が二十代の青春のすべてを費やし、三段リーグで夜を徹して盤にかじりつき、正しいと信じ込んでいた手順。それが、未来の記録では「三十手後に確実に死ぬ大悪手」として片付けられているのだ。

「これが、あんたが戦ってた世界の現実よ。あんたが才能がないから負けたんじゃないわ。あんたが信じてた『現代の正解』そのものが、ただ間違ってただけよ」

「俺の……信じてたものが……」

 清麿は膝の上に置いた拳を、白くなるほど強く握りしめた。

 虚しさと、悔しさと、そして――言葉にできない巨大な衝撃が、胸の奥で激しく渦巻いた。

「……悔しがってる暇があったら、頭を動かしなさい」

 和令がピシャリと告げた。

「あんたの脳みそがまだ腐ってないなら、この局面に対する『後手の完全手順』を三十手分、今すぐ暗記しなさい。さっき見せた、先手の美しい陣形を粉々に粉砕する必勝ルートよ」

「三十手……? 今すぐか!?」

「元奨励会三段でしょ? 駒の動きと符号の並びくらい、一回見れば覚えられるんじゃないの? それとも、やっぱり記憶力まで退化したただのゴミ虫?」

「誰がゴミ虫だ! 見くびるな!」

 挑発され、清麿の負けん気に火がついた。

 清麿は目を凝らし、空中に浮かぶ光の手順を凝視した。

 一手、一手、駒が動く意味を頭の中で咀嚼する。なぜここに歩を叩くのか、なぜ飛車を逃げずに放置するのか、なぜここで玉自ら危険地帯へ一歩寄るのか。

 最初は奇怪に見えた指し手が、三段時代に培った読みの回路と結びついた瞬間、鳥肌が立つような合理性の美しさが脳を貫いた。

(全部……繋がってる……! 敵の反撃を完全に無力化しながら、最短で喉元に刃を突きつける手順……!)

 五分後。

「……覚えた」

 清麿が顔を上げると、和令は片眉をピクリと跳ね上げた。

「へえ……。本当に三十手、一言一句狂わずに頭に入ったわけ?」

「試してみろ」

「いい度胸ね。じゃあ、さっきの局面から盤上で実践よ。私が先手を持って、あんたがさっきまで『絶対の一手』だと信じ切ってた銀引きを指してあげるわ」

 二人は再び、六畳間の本榧の盤を挟んで対峙した。

 和令が先手として駒を進め、問題の局面を再現する。

 パチリ。

 和令が、現代最強と謳われる「銀引き」を盤上に放った。

「さあ、指しなさい。未来の答えを」

 清麿は呼吸を整えた。

 指先を伸ばす。頭の中に焼き付けた、青白い光の手順。

 ――バチン!

 清麿の指先が、迷いなく後手の桂馬を敵陣深くへ跳ね上げた。

 和令がノータイムで応手を返す。歩を突いて桂馬を取りにくる。

 だが、清麿の頭の中には、すでにその先の映像が完璧に投影されていた。

 ――バチン!

 取らせる。桂馬などくれてやる。代わりに、相手の角の利きを遮る絶妙な歩を敵陣に叩き込む。

 ――バチン、バチン、バチン!

 冷え切った六畳間に、心地よい駒音が激しく連続して鳴り響いた。

(すごい……! 本当に、手が吸い付くように進む……!)

 清麿の心臓が早鐘を打っていた。

 相手は、さっき自分を赤子のように捻り潰した未来人だ。その和令の手が、清麿の繰り出す一手ごとに、ほんのわずかずつ――だが確実に、受けに回らされている。

 現代の感覚なら、自陣が薄くなって恐怖で指せないような手が、未来の定跡通りに進めるだけで、恐ろしいほどの破壊力を発揮して相手の陣形を切り裂いていく。

 二十手を過ぎた。

 清麿の攻め駒が、完璧な連携で先手陣を蹂躙していた。

 和令の玉は完全に包囲され、逃げ場を失いかけている。

「どうだ……!」

 清麿は思わず声を張り上げた。

 盤面を制圧している。あの圧倒的だった和令を、完全に追い詰めている。

 四年間、味わうことのなかった勝利の予感。脳内に快楽物質がドバドバと溢れ出すような全能感が、清麿の全身を支配した。

(勝てる……! これなら、現代のプロどころか、誰相手にだって勝てるぞ……!)

 そして、暗記していた三十手目。

 清麿は力強く、金を手元から盤上へと叩きつけた。

 先手玉の退路を断つ、完璧な封鎖の一手。

 これで、アーカイブに記録されていた三十手の手順はすべて終了した。盤面を見れば、誰の目にも後手――清麿の圧倒的優勢、勝勢に見えた。

「ふっ……どうだ和令! お前の言った通り、完璧に手順を再現してやったぞ!」

 清麿が勝ち誇った笑みを浮かべた、その時だった。

「…………」

 和令は、眉ひとつ動かしていなかった。

 焦る様子も、悔しがる素振りもない。ただ冷徹な瞳で盤面を見つめ、静かに右手を伸ばした。

 パチッ。

 和令が指したのは、清麿がまったく予想していなかった手だった。

 玉を逃げるでもなく、金を外すでもない。

 自陣の底深くに、ぽつりと香車を打ち据える、異様な粘りの一手。

「……え?」

 清麿の思考が、唐突に真っ白になった。

「あ、あれ……? なんで香車……?」

「三十手で終わりよ」

 和令は淡々と告げた。

「あんたが暗記したのは、アーカイブに載ってる基本手順の三十手目まで。……その先は?」

「そ、その先って……えっと、金で銀を取って、いや、飛車を走れば……」

 清麿の指が空中で泳いだ。

 頭の中にあった青白い光の映像が、ぷつりと途切れている。

 三十手目までは、ただの暗記だった。だからノータイムで、完璧な精度で指すことができた。

 しかし、その先は――『自分の頭』で読まなければならない領域だった。

「ちょ、ちょっと待て……読めばわかる、俺は元三段だ、この圧倒的優勢なら、適当に寄せていけば詰むはず――」

 清麿は額に青筋を浮かべ、必死に脳内盤を動かした。

 だが、焦れば焦るほど、盤上の駒が歪んで見えてくる。

 和令が打った一本の香車。それが、清麿の攻め駒の退路を絶妙に牽制し、清麿自身の玉への危険な王手筋を虎視眈々と狙っていることに気付いた。

(あれ……? 攻めを間違えたら、逆に俺の玉が危ないのか……!? どれだ、どれが正解なんだ!?)

 五分が経過した。

 十分が経過した。

 冷え切った部屋の中で、清麿の額からボタボタと大粒の汗が畳に落ちる。

 読めない。優勢なはずなのに、勝ち筋が多すぎて、どれを選べば最短で勝てるのかがわからない。三段リーグの悪夢――プレッシャーで手が震え、安全策を選んで自爆していった過去の記憶が、黒い霧のように思考を覆い尽くしていく。

「……時間切れね」

 和令が冷たく言い放ち、清麿が迷った末に指した緩手を、瞬時に咎めた。

 ――バチン!

 和令の反撃が始まった。

 たった一手、清麿の攻めが淀んだ瞬間を逃さず、和令の駒が怒涛の勢いで押し寄せてくる。

 清麿の金が外され、銀が剥がされ、盤面を制圧していたはずの攻め駒たちが、次々と木偶の坊に変えられていく。

「嘘だろ……あんなに、あんなに圧倒的だったのに……!」

「バチン!」

 和令の容赦ない王手が飛ぶ。

 清麿の玉は、逃げ道を求めて無様に盤上を這い回るしかなかった。

 そして――四十手目。

 和令の桂馬が鮮やかに跳ね、清麿の玉は完全に退路を断たれた。

「…………っ!」

 またしても、詰みだった。

 あれほど圧倒的な優勢を握っていたはずなのに、気がつけば、盤上には再び清麿の惨めな敗北だけが残されていた。

 六畳間に、すきま風の音だけが虚しく響く。

 清麿は荒い息を吐きながら、項垂れた。両手が小刻みに震えている。

「……なんでだよ……。答えを、未来の最強の手順を知ってたのに……なんで逆転されるんだよ……」

 和令は深く溜息をつき、膝の上の端末をカチリと鳴らした。

「ほらね。言ったでしょ」

 和令の瞳には、先ほどの冷笑ではなく、どこか厳格な、師匠のような光が宿っていた。

「答えを知ってるだけじゃ、駄目なのよ。未来の定跡は、あんたを『有利な局面』まで連れて行ってはくれる。でもね、そこから相手の玉を詰まし、最後まで指し切るのは――あんた自身の精神力と、泥臭い終盤の力なの」

 清麿は息を詰めて、和令を見つめ返した。

「三百年分の知識があっても、指す人間がチキンで、途中で思考を止めたら将棋には勝てないわ。……プロになりたいんでしょ? 加藤家の破滅を止めて、あんた自身の狂った人生をやり直したいんでしょ?」

 和令はずいっと顔を近づけ、清麿の鼻先を指差した。

「だったら、答えを丸暗記しただけで勝った気にならないことね。知識を詰め込んで、その先を自分の頭で読み切る。それができないなら、あんたは三百年後でも、現代でも、一生ただの雑魚先祖よ」

「…………」

 清麿は唇を噛み締めた。

 悔しかった。だが、さっきまでの絶望や惨めさとは、全く違う感情だった。

 胸の奥で、何かがカッと熱く燃え盛っていた。

 未来の答え。

 それは、ただの楽をして勝つためのチートアイテムではない。

 自分の信じていた限界を破壊し、その先にある途方もない深淵へ連れて行ってくれる、最強の武器なのだ。

 この武器を使いこなし、最後まで指し切る力を手に入れたなら――自分は、本当にプロの壁をぶち破れるかもしれない。

「……おい、和令」

「なによ」

 清麿は顔を上げた。

 その瞳から、迷いと怯えが消え去っていた。三十歳の無職の顔ではない。かつて奨励会の修羅場で、狂ったように盤面を睨みつけていた勝負師の目が、そこにあった。

「……三十一手目からの分岐、もう一度全部見せろ。今夜中に、全部頭に叩き込んでやる」

 和令は一瞬、虚を突かれたように目を丸くした。

 そして、すぐに不敵な、挑戦的な笑みを口元に浮かべた。

「いい度胸じゃない。……徹夜覚悟で付き合いなさいよ、雑魚先祖」

読んでいただきありがとうございます。

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