EP 3
『元奨励会三段、未来の美少女に完敗する』
六畳間の空気が、ぴんと張り詰めていた。
擦り切れた畳の中央に鎮座する、本榧の脚付き将棋盤。四年間、厚い布を被せられ、部屋の隅で死んでいた盤面は、蛍光灯の頼りない光を浴びて鈍い飴色に光っている。
加藤清麿は、正座した膝の上に両手を置き、静かに息を吸い込んだ。
冷えた空気が鼻腔を通り、肺の奥を満たす。
指先には、まだ駒箱から取り出したばかりの黄楊の駒の、滑らかで硬質な感触が残っていた。
(……嘘みたいだ)
数分前まで、自分はこの手すりから身を投げようとしていたのだ。二十六歳でプロ棋士への道を断たれ、社会に弾き出され、大切な人さえ傷つけて逃げ出した、何の価値もない三十歳の無職。
それが今、盤を挟んで座っている。
対面にいるのは、銀と藍色の奇妙な光沢を放つスーツを着た、自称「三百年後の子孫」である加藤和令。
彼女は長い黒髪をかき上げ、不遜極まりない態度で肘をつきながら、膝の上にあの薄い透明端末を載せていた。
「何ぼんやりしてんのよ、雑魚先祖。まさか、四年前のトラウマを思い出して手がお留守になってるわけ?」
「……誰がお留守だ」
清麿は鋭く眉を寄せ、歩を五枚手元に引き寄せた。
「振り駒だ。先手後手を決める」
「はあ? そんな面倒な儀式、いらないわよ。あんたが先手でいいわ。現代の三段相手に後手を引いたところで、結果は何も変わらないし」
「ふざけるな。将棋はルールに則って指すものだ。お前みたいなぽっと出に、最初からハンデをもらう筋合いはない!」
「あっそ。プライドだけは一丁前なのね。じゃあ好きにしなさいよ」
和令が鼻を鳴らす。
清麿は手の中で五枚の歩を擦り合わせ、畳の上へと軽く放った。
からからと乾いた音がして、駒が散らばる。
表が三枚、裏のと金が二枚。
「……俺の先手だ」
「どうぞご自由に。どれだけ足掻いても、あんたの詰み筋は変わらないけどね」
「口先だけの生意気な小娘が……。三段リーグの厳しさも知らないくせに、調子に乗るなよ」
「知らないわけないでしょ。あんたが三段リーグで指した全対局の棋譜、未来のデータベースに全部入ってるわよ。『終盤で日和って自ら勝ちを逃す加藤清麿の典型例』としてね」
「っ……! 言わせておけば……!」
清麿の血管が怒りで沸騰しそうになる。自分の最も触れられたくない弱点、プロになれなかった根本的な原因を、こうも正確に抉り取ってくる人間が他にいるだろうか。
だが、盤を前にして怒りに呑まれるのは愚か者のすることだ。
清麿は呼吸を整え、雑念を振り払うように右手を伸ばした。
人差し指と中指で、香車の手前にある歩を挟み、凛とした手つきで盤上へ滑らせる。
――バチィン。
四年間のブランクを微塵も感じさせない、美しく澄んだ駒音が室内に響いた。
初手、▲7六歩。
清麿が最も得意とし、十代の頃から何万回と繰り返してきた、居飛車の王道へ通じる一歩である。
「ほう……。一応、指し手の手筋だけは身体が覚えてるわけね」
和令は冷ややかな笑みを浮かべると、一切の躊躇なく、右手を伸ばした。
その所作には、現代の棋士が持つような深い呼吸や、盤面を俯瞰するような溜めが一切なかった。まるで、最初からそこに指すことが宇宙の真理として決まっていたかのような、恐ろしいほどの無駄のなさ。
――パチッ。
返された手は、△3四歩。
角道を開ける、現代でも極めて自然な応手。
だが、清麿の背筋に、わずかな悪寒が走った。
(……なんだ? この違和感は)
手付き自体は素人くささがない。それどころか、駒を置いた瞬間の指の引き方、視線の据え方が、洗練されすぎていて不気味ですらあった。
だが、清麿はすぐに思考を切り替えた。
序盤の二手など、誰が指しても同じだ。本番はここからだ。
清麿は飛車先の歩を突き、自陣を固める準備に入る。目指すは、現代将棋の頂点と謳われる緻密な最新研究形。プロ公式戦でも通用する、清麿自身が奨励会時代に魂を削って構築した「自慢の序盤構想」だった。
これなら、どんな小手先の奇襲にも絶対に負けない。百パーセントの自信を持って駒を進める。
――しかし。
十手を過ぎたところで、和令の手が、現代の将棋の常識を無残に叩き壊した。
和令は、清麿の攻め筋を警戒するでもなく、玉を囲うでもなく、ふらりと盤の端にある歩をひとつ押し上げたのだ。
(……は? 端歩……? こんな序盤の、このタイミングでか?)
清麿の思考が急停止した。
現代の感覚では、明らかな緩手。いや、疑問手だ。
この局面で端歩を突くなど、一手損どころの話ではない。手番を無駄にし、自陣のバランスを崩す愚策とされている。
「おい、お前……ルールは知ってても、定跡の『じ』の字も知らないのか? そんな手、現代の奨励会なら一級の手合いでも指さないぞ」
「うるさいわね。つべこべ言わずに指しなさいよ。これが『答え』よ」
和令は顎をクイと動かし、退屈そうに急かしてくる。
(舐めやがって……! そんな無理攻めが、現代の精緻な矢倉に通じるわけがないだろうが!)
清麿は眉間を寄せ、鋭い踏み込みを敢行した。
相手が手を緩めたのだ。ならば、中央から圧力をかけ、手番の得を活かして一気に作戦勝ちを収める。それが将棋の絶対的な真理、棋理というものだ。
清麿は銀を繰り出し、相手の陣形の歪みを咎めにいった。
完璧な手順。咎める気満々の一手。
だが――清麿が駒を置いたコンマ一秒後。
――バチン!
和令は、ノータイムで角を飛び出させてきた。
「なっ……!?」
清麿の喉から、掠れた声が漏れた。
考慮時間がゼロ。考える素振りすらなく、反射のように繰り出された一手。
しかも、その角の位置が、あまりにも異常だった。
普通なら自ら当たりにいくような、急戦の標的になりやすい危険な筋。現代の研究では「隙が多すぎて成立しない」と結論づけられているはずの悪手筋だ。
(成立するはずがない……! 角を引かせれば、俺の銀が中央を制圧して圧倒的に有利になる!)
清麿は頭の中で盤面の枝分かれを急速に読み進めた。
三段リーグで培った、超人的な演算能力。脳内の将棋盤で、十手、十五手先へと駒を猛烈な勢いで動かしていく。
――だが。
(待て……え……? 嘘だろ……?)
読めば読むほど、冷たい汗が背中を伝い落ちていくのが分かった。
角を引かせるために歩を突けば、和令の飛車が信じられないルートから回り込んでくる。
銀を引いて受けると、先ほど和令が無駄に突いたはずの「端歩」が、凶悪なクサビとなって清麿の玉陣の退路を完全に塞いでしまうのだ。
あの一手。
数手前に和令が指した、あの意味不明な端歩。
あれは緩手でも疑問手でもない。十手後に訪れる清麿の最善手をあらかじめ見越して仕掛けられた、悪魔のような時限爆弾だったのだ。
「気付いたかしら?」
和令が、冷酷な笑みを口元に浮かべた。
「あんたたちの時代では『疑問手』とされてるその端歩、三百年後じゃ『加藤崩し』って呼ばれてる基本定跡なのよ。あんたがその美しい矢倉を目指した瞬間に、もう後手必勝のレールに乗せられてるの」
「ば、馬鹿な……! そんな定跡、プロの公式戦でも一度も指されたことなんてないぞ!」
「ないでしょうね。だってこの局面が完全に解析されて結論が出たのは、西暦二一一〇年代だもの。三百年遅れてるあんたに、理解できるわけがないじゃない」
「ふざけるな……! 将棋を、千変万化の盤上を、そんな簡単に結論づけられるわけがない!」
清麿は歯を食いしばり、必死に別の変化を探した。
本筋がダメなら、変化球だ。泥臭く、形を崩してでも相手の研究を外す。奨励会の修羅場で何度もやってきた、生き残るための勝負手。
清麿は盤の端から無理やり歩を叩き、局面を混沌へと引きずり込もうとした。
常識外れの乱戦。現代の将棋ソフトですら評価値が激しく揺れ動くような、人間同士の読み合いの泥沼。
これならどうだ――!
しかし。
和令は眉ひとつ動かさなかった。
パチッ、と乾いた音。
清麿の勝負手に対して、和令が指したのは、攻め合いではなく――自陣の金を、ただ一筋横に寄せるだけの、驚くほど地味な「受け」だった。
「……っ!?」
その瞬間、清麿の息が止まった。
派手な攻め合いではない。反撃でもない。
ただ金が一枚寄っただけで、清麿が命を削って放ったはずの勝負手が、まるで巨大な綿の壁に吸い込まれるように、完全に無力化されていた。
攻め駒が、すべて空振りに終わる。
前にも進めず、引くこともできない。清麿の盤上の駒たちが、目に見えない鎖でがんじがらめに縛り上げられていく。
(なんなんだよ……これ……!)
手が震えた。
恐怖だった。未知の怪物と対峙しているような、底知れない絶望。
清麿の持ち時間がどんどん削られていく中、和令の消費時間はほぼ一秒未満。
和令は盤面を深く考え込んでなどいない。ただ、手元の端末にインプットされている「最適解」を、淡々と、機械のように盤上へ出力し続けているだけだった。
バチン。
バチン。
バチン。
清麿がどれだけ頭を抱え、血を吐くような思いでひねり出した一手も、和令にとっては「想定された無数の枝葉のひとつ」に過ぎなかった。
清麿が悪手を指せば、即座に最短のルートで首を刈り取られる。
清麿が最善の手を絞り出しても、あらかじめ用意された未来のカウンターによって、じわじわと形勢の差を広げられる。
手番が進むごとに、清麿の陣地は削られ、退路は塞がれ、呼吸すら苦しくなっていく。
まるで、深海へ沈められていく潜水艦の中にいるようだった。外からの圧倒的な水圧が、鉄板を軋ませ、自陣を内側から圧壊させていく。
(読めない……。どこまで行っても、全部この女の手のひらの上なのか……!?)
三段リーグで戦っていた頃の記憶が、濁流のように脳裏をよぎる。
あと一勝でプロになれた、あの日の最終局。
相手の指し手が見えなくなり、手元が暗くなり、頭の中が真っ白になって、ただ惨めに玉を追い詰められていった、あの地獄のような無力感。
――そして。
六十五手目。
和令が、清麿の玉の頭上に、ぽつりと銀を打ち下ろした。
何の派手さもない、静かな一手。
だが、その銀が盤上に落ちた瞬間、清麿の視界からすべての光が消え去った。
詰みだ。
王手ではない。だが、清麿の玉にはもはや一手たりとも逃げ場がなく、次に何を指しても、和令の確実な即詰みから逃れる術は存在しなかった。
完全なる必至。
「…………」
六畳間に、重苦しい静寂が落ちる。
聞こえるのは、すきま風が障子を揺らす音と、清麿の荒い呼吸の音だけだった。
清麿の手から、駒が力なく滑り落ちた。
畳の上に、パタリと小さな音を立てて転がる。
「……負け、ました」
絞り出すような声だった。
四年間、決して口にしなかった敗北の宣告。
それを、こんなボロアパートの一室で、三百年後から来たという小娘相手に口にさせられるとは、夢にも思っていなかった。
「嘘だろ……?」
清麿は両手で顔を覆った。
指の間から、熱い息が漏れる。
「手も足も……出なかった……。序盤から、何一つ自分の将棋を指せなかった……。これが……本当に、将棋なのかよ……?」
呆然と呟く清麿を見下ろし、和令はふんと鼻を鳴らした。
「三段の雑魚が。これが、三百年分の研究の差よ」
和令は冷たい声で言い放ち、手元の透明端末を指先で弾いた。
「言ったでしょ。未来の将棋は、あんたたちがやってるような感覚や才能の読み合いじゃないの。すべてが解析され尽くした『完全定跡』の暗記勝負なのよ。あんたがどんなに必死に頭を捻ったところで、人類が三百年かけて導き出した『正解』に勝てるわけがないじゃない」
和令の言葉は、氷の棘のように清麿の心臓を突き刺した。
悔しかった。惨めだった。
二十代の青春のすべてを捧げ、心身をすり減らして戦い抜いた自分の将棋が、たったの六十数手で、赤子のように捻り潰されたのだ。
だが――。
その激しい屈辱の奥底で。
冷え切り、死に絶えていたはずの清麿の心の奥底で、何かが小さく、しかし激しく爆ぜた。
(……なんだ、今の指し手は)
顔を覆っていた手を、ゆっくりと下ろす。
清麿の目は、盤上に残された四十枚の駒に釘付けになっていた。
美しかった。
恐ろしいほどに無駄がなく、冷徹で、合理的で――それでいて、現代のどんな名人の棋譜にも存在しない、息を呑むような深遠な盤面構成。
知らなかった。
こんな将棋の世界が、この盤の先にあるなんて、二十六歳で挫折した自分は、何一つ知らなかったのだ。
「……おい」
清麿はかすれた声で、和令を見上げた。
「なによ。往生際悪く、もう一局泣きの勝負でも頼む気?」
「違う」
清麿の瞳に、四年間宿ることのなかった光が、微かに宿っていた。
「……さっきの、七手目の端歩。あれは、どうしてあのタイミングなんだ? 角を引かせた後の変化は、どうしてあんな受けが成立するんだ? ……教えてくれ」
「は……?」
和令が、呆気にとられたように目を丸くした。
「あんた、完敗してプライドをズタズタにされた直後によくそんなこと言えるわね。少しは落ち込みなさいよ」
「落ち込んでるよ! 死ぬほど惨めで、恥ずかしくて、消えてなくなりたいよ!」
清麿は膝を強く握りしめ、叫ぶように言った。
「でも……知りたいんだよ! 俺が人生を懸けて、プロになれずに諦めた将棋の先に、そんな世界があるなんて知らなかった! ……頼む。俺に、その三百年分の将棋を教えてくれ!」
土下座せんばかりに頭を下げた清麿を、和令はじっと見つめた。
その勝気な瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、意外そうな、そしてどこか毒気を抜かれたような色が走る。
やがて、和令は「ふん」とわざとらしく大きな溜息をついた。
「……まったく。救いようのない将棋バカね、この雑魚先祖は」
彼女は透明な端末を起動し、青白い光の画面を清麿の目の前へと突き出した。
「いいわよ。あんたの詰み散らかした人生、この三百年分の定跡で、根底から叩き直してあげるわ!」
読んでいただきありがとうございます。
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