EP 2
『300年後の子孫は、口が悪すぎる』
すきま風が、開け放たれたサッシの隙間から吹き込み、六畳間の冷え切った空気をさらに凍りつかせる。
加藤清麿は、畳の上に這いつくばったまま、目の前に仁王立ちする少女――自称・三百年後の子孫である加藤和令を、ただ呆然と見上げていた。
鳩尾には、いまだにズキズキと焼けるような鈍痛が居座っている。
幻覚ではない。ドロップキックの衝撃も、目の前で腕を組んでこちらを睨みつけている美少女の存在も、すべてが生々しい現実だった。
だが、言っている内容が狂っている。
(西暦二三二六年……? 三百年後の子孫……?)
清麿の三十年間の常識が、激しい警報を鳴らし続けていた。そんな漫画やSF映画のような話が、築四十年のボロアパートの一室で起きてたまるものか。
「……おい」
清麿は痛む腹を押さえ、擦り切れた畳に手のひらをついて、なんとか上体を起こした。
「……おい、じゃないでしょ。まずは命の恩人に対して『助けていただきありがとうございました』じゃないの?」
和令は小鼻を膨らませ、心底不満そうに眉を吊り上げる。
「ふ、ふざけるな! 何が命の恩人だ! いきなり人の腹に飛び蹴り食らわせておいて!」
「飛び蹴りじゃなくてドロップキックよ。衝撃を分散させつつ確実に運動エネルギーを伝達して室内へ押し戻す、極めて合理的な物理制動よ」
「屁理屈をこねるな! そもそも、なんだその恰好は! それに……おい、土足だぞ! 人の部屋に土足で上がり込むな!」
「はあ? 何言ってるのよ。床一面にゴミと未払いの督促状が散らばってて、畳の角は擦り切れて粉を吹いてるじゃないの。こんなバイオハザード一歩手前の床に靴を脱いで上がれっていうほうが無茶よ。むしろ私の高機能ナノスーツの靴底が汚れるわ」
「俺の部屋をバイオハザード扱いするな! 出て行け! 警察を呼ぶぞ!」
「呼べるもんなら呼んでみなさいよ。滞納で携帯電話の回線、とっくに止まってるくせに」
「うっ……!」
痛烈な急所を突かれ、清麿の喉から詰まったような声が漏れた。
確かに、所持金が尽きた清麿のスマートフォンは、昨日の朝から通話も通信も完全に遮断されている。なぜ初対面の女がそんなことまで把握しているのか。
「……な、なんでそれを知ってる」
「言ったでしょ、あんたの情けない個人データは未来の歴史記録に全部残ってんのよ。西暦二〇二六年二月、加藤清麿、三十歳。元奨励会三段、職歴なし、預金残高七百四十二円」
「個人情報を暗唱するな!」
「暗唱したくもないわよ、恥ずかしい! なんで私のご先祖様が、こんな救いようのないダメ人間なわけ!?」
「誰がダメ人間だ! 俺は……俺はただ、人生に詰んだだけだ!」
「それを世間ではダメ人間って言うのよ!」
和令はピシャリと言い放つと、腰のホルダーから先ほどの透明な薄型端末を取り出した。
彼女が指先を流れるように滑らせると、端末の上部に青白い光の粒子が収束し、何もない空間に立体的なホログラム映像が浮かび上がった。
「なっ……!?」
清麿は思わず息を呑んだ。プロジェクターの光を投影するスクリーンもないのに、鮮明な文字とグラフ、そして写真が空中に浮かび上がっている。現代のいかなる最新技術でも不可能な、正真正銘の未来テクノロジーだった。
「……これが、本来あんたが辿るはずだった『正史』の記録よ」
和令の声から、先ほどまでの激しい怒気が引いた。代わりに、氷のように冷たく、重苦しい響きが部屋を満たす。
ホログラムに表示されたのは、病院のベッドに横たわる、無数の管に繋がれた男の姿だった。
髪は伸び放題で、頬はこけ、目を閉じたままピクリとも動かない。その顔立ちは、紛れもなく――数年後の、あるいは数十年後の清麿自身だった。
「あんたは今日、このベランダから中途半端に飛び降りるのよ」
和令が指を動かすと、カルテのような医療データが展開された。
「一階だから死ねない。下の駐輪場の屋根に激突して、頭部を強打。重度の脳損傷を負って、意識不明の植物状態になる」
「お、俺が……?」
「そう。死ぬ勇気すらないくせに投げやりになって、最悪の形で生き延びるのよ。……そして、その尻拭いを全部背負わされたのが、あんたの妹の千代おばあちゃんよ」
千代の名前が出た瞬間、清麿の心臓が激しく跳ねた。
「千代が……?」
「千代おばあちゃんは看護師として働きながら、意識の戻らないあんたを絶対に見捨てなかった。両親が匙を投げても、たった一人で費用を工面し続けたのよ。やがて時代が進んで、未来の先端医療による『コールドスリープ長期保存技術』が実用化された時も、千代おばあちゃんは一縷の望みに縋って、あんたを冷凍保存の対象に指定したわ」
ホログラムの画面が切り替わり、巨大なカプセルが整然と並ぶ、冷徹な施設が映し出された。
「それが、悲劇の始まりよ。千代おばあちゃんは私財をすべて投げ打って『加藤家生体保存維持基金』を設立した。でもね、人間の体を何十年、何百年も冷凍維持して治療研究を続けるのに、どれだけの天文学的な費用がかかると思う?」
和令が端末を弾くと、赤い警告色のグラフが右肩上がりに跳ね上がった。
「基金は更新されるたびに借金を重ねた。利子が利子を呼び、負債は雪だるま式に膨れ上がったわ。千代おばあちゃんが亡くなった後も、その負債は子々孫々へと義務として引き継がれていったのよ。……三百年後の二三二六年、私たち加藤家の一族が、あんた一人の医療ローンを返済するためだけに、どれだけ過酷で惨めな生活を強いられてるか、あんたに想像できる!?」
和令の瞳に、悔しさと怒りが滲んでいた。
「私はね、物心ついた時から狭い共同カプセル住宅で、合成タンパク質の不味いブロックを齧りながら育ったのよ! 稼いだクレジットの七割は、見たこともない三百年前に眠ったきりの先祖の維持費に自動天引き! 破産申請も認められない特種医療債務! あんたがここで無責任に落ちたせいで、未来の加藤家は丸ごと地獄に叩き落とされたのよ!!」
六畳間に、和令の悲痛な叫びが木霊した。
清麿は言葉を失い、喉をからからに乾かせながら、空中に浮かぶデータを凝視した。
千代の顔写真があった。白衣を着て、疲れ切った笑顔で、それでもどこか誇り配りそうに微笑んでいる妹の姿。
『お兄ちゃん、ちゃんとご飯食べてる?』
最近、着信があるたびに居留守を使い、無視し続けていた妹の優しい声が、脳裏に甦る。
千代が、俺のために。自分の人生のすべてを犠牲にして、そんな重荷を背負い込んだというのか。
胸が焼けるように痛かった。
死ぬことで、これ以上誰にも迷惑をかけずに済むと思っていた。だが現実は違った。死にきれず、生き地獄を妹に押し付け、未来の子孫にまで呪いのような借金を残す――それが、自分の選ぼうとした結末だったのか。
「……っ、そんなの……」
清麿の唇が小刻みに震えた。
だが、あまりにも巨大で不条理な現実に、心が拒絶反応を起こす。
「そんなの、信じられるかよ……! 急に出てきて、未来人だの子孫だの、借金だの……! 全部、お前の作り話なんじゃないのか!? 俺を騙して、何の宗教に勧誘する気だ!?」
清麿が声を荒らげて叫ぶと、和令は深く、心底呆れ果てたような溜息を吐き出した。
「はあ……。やっぱりね。現実を受け入れる脳のメモリすら足りてないわけね、このポンコツ先祖は」
「ポンコツって言うな! いきなり三百年後から来ましたって言われて、はいそうですかと信じる人間がどこにいる!」
「じゃあこのホログラムは何よ? あんたの時代の技術でこれができるわけ?」
「そ、それは……最新のプロジェクションマッピングとか、手の込んだドッキリ番組の類だろ! 隠しカメラはどこだ!?」
部屋を見回す清麿に、和令は冷たい視線を投げかけた。
そして、ふっと自嘲するように口元を歪めた。
「……まあいいわ。信じられないのも無理はないわね。私だって、こんな過去に来たくて来たわけじゃないもの」
和令は視線を落とし、自分の手のひらを見つめた。
その瞳の奥に、一瞬だけ、清麿と同じ――敗北と挫折を知る者特有の、深く暗い翳が差したのを、清麿は見逃さなかった。
「私もね、未来でプロ棋士を目指してたのよ」
「え……?」
「でも、勝てなかった。何百局指しても、何千時間研究しても、負けて負けて負け続けたわ。未来の将棋界は、あんたたちの時代とは比べ物にならないくらい過酷なの。才能のない人間が足掻いたところで、完璧なデータの前には一歩も届かない。……借金まみれの生活の中で、将棋にすら見放されて、もう私の人生も終わりかけてたのよ」
淡々と語る和令の横顔に、清麿は息を詰めた。
その孤独と絶望の匂いは、奨励会を追われ、社会の片隅で膝を抱えていた自分自身のそれと、驚くほど酷似していた。
「だから、一発逆転を狙ってここに来たの」
和令は顔を上げ、再びいつもの勝ち気で不遜な笑みを浮かべた。
「エネルギーの九割を使って、一方通行に近い時間跳躍をしてね。あんたを救うためじゃないわよ。あんたをプロ棋士にして、しっかり稼がせて、加藤家の破滅の歴史を根底から書き換えるため。そうすれば、未来の私も借金地獄から解放されて、もう一度自分の人生をやり直せる」
「な……何を言ってるんだ……!? プロ棋士だと!?」
清麿は思わず噴き出した。
「無理に決まってるだろ! 俺は二十六の年齢制限で三段リーグを退会した元奨励会員だぞ! もう三十だ! 正規のルートでプロになる道なんて、とっくに閉ざされてるんだよ!」
「編入試験があるでしょ」
和令は事も無げに言った。
「アマチュア大会で優勝して、プロ公式戦への出場資格を得る。そこでプロ相手に十勝以上、勝率六割五分以上を叩き出して、棋士編入試験の資格を捥ぎ取るのよ。それしかないわ」
「簡単に言うな! アマチュア大会のレベルだって年々上がってるし、公式戦でプロに十勝なんて、現役のアマ名人クラスでも至難の業だ! ブランクが四年もある三十歳の無職にできるわけがないだろうが!」
「できるわよ」
和令は一歩、清麿に詰め寄った。
「未来の将棋はね、あんたたちがやってるような『才能の読み合い』じゃないの。極限まで解析され尽くした『完全定跡』の暗記ゲーなのよ。三百年分の研究の結論を頭に叩き込めば、現代のプロなんて赤子同然に捻り潰せるわ」
「将棋を……舐めるな!」
清麿の胸の奥で、カッと熱い炎が燃え上がった。
四年間、押し殺してきた感情だった。
人生を狂わされ、すべてを奪われた将棋。憎くて、怖くて、それでも忘れられなかった盤上の宇宙。
それを、未来の小娘が「ただの暗記ゲー」だと吐き捨てたのだ。三段リーグで血反吐を吐きながら一手一手を削り出してきた青春を、真っ向から愚弄されたような激しい屈辱が、清麿の理性を吹き飛ばした。
「暗記ゲーだと……? ふざけるな! 将棋はそんな底の浅いゲームじゃない! 盤上の千変万化を、人間が命を削って読むからこそ崇高なんだ! 未来人か何だか知らないが、将棋もろくに指せないくせに知ったような口を利くな!」
「あら、吠える元気はあるじゃない」
和令は清麿の激昂を意に介さず、冷笑を浮かべた。
そして、部屋の隅――四年間、一度も外されることのなかった埃まみれの布が被せられた、正方形の塊を指差した。
「だったら、私と将棋をしなさいよ」
「なに……?」
「あんたが勝ったら、私の言ったことは全部嘘だったと認めてあげる。土下座して謝って、二度とあんたの前に現れないわ。……でも、もし私が勝ったら、あんたのその腐った性根を叩き直して、私の言う通りに未来の定跡を全部頭に叩き込んでもらう」
和令は挑発するように顎をクイッと上げた。
「どうしたの、元三段? 三百年後の負け犬の小娘相手に、指す前からビビって逃げ出すわけ? それとも、やっぱりただの雑魚先祖だったかしら?」
「……言ったな」
清麿の目が据わった。
胃の痛みも、寒さも、自分が自殺しようとしていたことすら、一瞬で頭から吹き飛んでいた。
売られた喧嘩を、盤上で買わずにいられるほど、加藤清麿の将棋指しとしての魂は腐りきっていなかった。
「後悔するなよ。ブランクがあるとはいえ、俺は三段リーグを戦い抜いた男だ。ぽっと出の素人に負けるほど落ちぶれちゃいない!」
清麿は立ち上がり、部屋の隅へ歩み寄った。
四年間、触れることすら恐れていた布を、力任せに引き剥がす。
パッと舞い上がった埃の向こうから現れたのは、かつて清麿が奨励会に入会した際、父が無理をして買い与えてくれた、本榧の脚付き将棋盤だった。
盤面は少し飴色に褪せていたが、漆の目盛りは、変わらぬ凛とした佇まいで清麿を迎え入れた。
横に置かれた駒箱の蓋を取る。黄楊の駒が擦れ合う、カラカラという乾いた澄んだ音が、冷え切った六畳間に四年ぶりに響き渡った。
清麿は盤の前に正座し、駒を並べ始めた。
手は震えていなかった。指先が、染み付いた記憶の通りに滑らかに駒を滑らせ、大橋流の手順で自陣の駒を配置していく。
対面に、和令が音もなく腰を下ろした。
彼女の膝の上には、あの透明な端末が置かれている。
盤上に、四十枚の駒が整然と並び終えた。
張り詰めた静寂が、二人の間に落ちる。
「……手加減はしないぞ。泣いて謝っても許さん」
「あっそ。泣くのはあんたのほうよ、雑魚先祖」
不遜に笑う和令の瞳を、清麿は鋭く射抜くように見据え返した。
人生を諦めかけた元神童と、未来からやってきた傲慢な子孫。
時空を超えた、最初の対局が幕を開けようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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