第一章 『人生の詰み筋を、ぶち壊せ』
『死ぬ前に、子孫からドロップキックを食らった』
二月の東京は、息を吸い込むだけで肺の奥が凍りつくように冷たかった。
築四十年の木造アパート、一階の角部屋。隙間風が黄色く変色した障子を震わせ、畳の擦り切れた青臭い匂いが、冷え切った六畳間に淀んでいる。
加藤清麿は、薄暗い部屋の真ん中で、じっと自分の両手を見つめていた。
指先は悴み、節くれだって、かつて駒を握っていた頃の滑らかさはどこにも残っていない。
(……俺の人生、完全に詰んだな)
三十歳。無職。所持金は財布の中に残った数百円と、残高が三桁を切った通帳が一冊。
四年前の春、清麿の時間は決定的に止まった。
かつては「神童」と呼ばれ、周囲の期待を一身に背負って日本将棋連盟のプロ棋士養成機関である奨励会に入会した。十代の青春のすべてを六十四マスの盤上に捧げ、二十代前半で三段まで駆け上がった。プロの一歩手前、年に四人しか勝ち抜けない三段リーグ。何度も四段昇段のチャンスに手をかけながら、最後の一番で勝ちきれず、残酷な年齢制限の壁――二十六歳の春を迎えて強制退会となった。
人生そのものだった将棋を失った日、清麿の精神は粉々に砕け散った。
荒れ狂い、自暴自棄になり、八つ当たりするように周囲を遠ざけた。そして何より、当時、精神的にも金銭的にも献身的に支えてくれていた恋人――理央の存在さえも、自分の手で突き放してしまったのだ。
『お前に俺の惨めさがわかるかよ! 同情なんかされたくない、もう二度と顔を見せるな!』
あんなに優しく微笑んでくれていた彼女に、最悪の怒声を浴びせ、逃げるようにアパートを引き払って連絡先を変えた。あれから四年。自分の幼稚さと弱さで大切な人を傷つけて逃げ出したという激しい後悔は、今も胸の奥底で、錆びたナイフのように清麿の心臓を抉り続けている。
退会後の現実は、想像を絶するほど無慈悲だった。
二十六歳まで将棋しか指してこなかった男に、社会の居場所などあるはずもなかった。履歴書の職歴欄は真っ白。資格欄に書けるものもない。
先週受けたスーパーの深夜品出しの面接でも、清麿より年下の面接官に履歴書をペラペラとめくられ、あからさまな嘲笑を浴びせられたばかりだ。
『将棋ねぇ。駒をパチパチ動かしてただけの三十歳を雇って、現場の二十代のバイトに示しがつきますかね? 世間を舐めないでくださいよ』
コンビニの夜勤バイトは、客からの理不尽な怒号とレジ操作のミスが重なり、一ヶ月持たずにクビになった。
実家の両親からは、奨励会を辞めた直後に「もうお前を援助する金はない。これ以上迷惑をかけるなら顔も見たくない」と絶縁を言い渡されていた。
唯一、看護師として激務をこなす妹の千代だけが、時折「お兄ちゃん、ちゃんとご飯食べてる?」と電話をかけてきては、少額の仕送りを送ろうとしてくれた。だが、妹に頼る惨めさに耐えかね、清麿はここ数ヶ月、千代からの着信すら無視し続けていた。
万年床の脇には、未払いの公共料金の督促状と、十通を超す不採用通知の紙くずが散乱している。
そして部屋の隅には、埃をかぶったまま布を被せられている榧の将棋盤。
四年間、一度も触れていない。触れる資格など、今の自分にはないと思っていた。
「……もう、いいよな」
声に出すと、奇妙なほど心が軽くなった。
社会の誰からも必要とされず、恩を仇で返して大切な人たちを傷つけ、ただ息をして迷惑を撒き散らすだけの存在。これ以上惨めな姿を晒して生きる理由が、どこを探しても見当たらなかった。
清麿はふらりと立ち上がり、ベランダへ続くアルミサッシに手をかけた。
ガラガラと音を立てて窓を開けると、凍てつく冬の夜風が容赦なく頬を殴りつけてくる。東京の空はどんよりと重い鉛色で、星ひとつ見えない。
築四十年のアパートの外廊下とベランダは、錆びついた薄い鉄柵で仕切られているだけだった。
手すりに両手を置く。冷え切った金属の感触が、手のひらを通して骨まで染み渡る。
誰にも見送られない、孤独な詰み筋。
目を閉じ、大きく息を吐き出して――手すりに体重を預けようとした、その刹那だった。
バリバリバリッ――!!
「――っ!? な、んだ……!?」
鼓膜を劈くような凄まじい放電音が、静まり返った夜のベランダに響き渡った。
突如として、ベランダの手すりの先、虚空の空間がガラスのようにぐにゃりと歪んだのだ。青白い幾何学模様の光がパチパチと火花を散らし、空間そのものが無理やり引き裂かれていく。
幻覚か? それとも酸欠による走馬灯か?
清麿が呆然と目を見開いた瞬間、裂けた空間の中心から、猛烈な突風とともに何かが飛び出してきた。
――いや、「何か」ではない。
それは、寸分の狂いもなく清麿の胸元へと一直線に繰り出された、人間の一対の足だった。
「は……?」
ドゴォッッ!!
「ぶっっっげぇぇえええええっ!?」
鳩尾に、芸術的なまでに完璧な両足ドロップキックが直撃した。
肺の中の空気が一瞬で強制排出され、声にならない悲鳴が喉から漏れる。清麿の体は宙を舞い、開け放たれたサッシを突き破って、六畳間の畳の上を猛烈な勢いで転がった。散らばった督促状とゴミ袋を巻き込みながら、部屋の対角線の壁に背中から激突してようやく止まる。
「ケホッ……! ゲホッ、オエッ……! な、なん……だ……!?」
胃液が逆流しそうなほどの激痛にのたうち回り、涙目で腹を押さえる清麿。
ベランダの方から、トスッと軽い足音が聞こえた。
開いた窓の敷居を、土足のままズカズカと踏み越えて部屋に入ってくる人影がある。
「……ったく、転送座標がコンマ三秒ズレてたら外の道路に真っ逆さまだったじゃない! 死ぬなら一人で勝手に死になさいよ! あんたのせいで、三百年後まで借金地獄なのよ!!」
凛としてよく通る、だが怒気を孕んだ凄まじい怒声が六畳間に響き渡った。
清麿は荒い息を吐きながら、痛む首を無理やり持ち上げて侵入者を睨み上げた。
「……がっ……だ、誰だ……あんた……っ」
そこに立っていたのは、息を呑むほど整った顔立ちの少女だった。
年は二十歳前後だろうか。艶やかな黒髪を肩口で切りそろえ、勝気そうな大きな瞳が、燃えるような怒りの炎を宿して清麿を見下ろしている。
だが、その顔立ち以上に異常だったのは彼女の身なりだった。
現代の日本どころか、世界のどこのブランドでも見たことがない、マットな銀と深い藍色が複雑に組み合わさった光沢のあるライダース風のスーツ。継ぎ目が一切なく、布地そのものが微かに淡い光を帯びている。そしてその手には、まるで透明な下敷きのように薄い、手のひらサイズの端末が握られていた。
「な、なんだよお前……! いきなり人の家にベランダから飛び込んできてドロップキックって、どんな凶悪な不法侵入だ!?」
清麿が這いつくばったまま叫ぶと、少女は腰に手を当て、鼻から激しく息を噴き出した。
「不法侵入ですって!? 感謝しなさいよ! こっちはエネルギーの九割を使い果たして、命がけで時空跳躍してきたの! あんたがそこで間抜けに飛び降りてたら、私の人生どころか、一族の歴史が丸ごと破滅するところだったのよ!」
「じ、時空……!? 一族……!? お前、さっきから何を訳のわからないことを言って――」
「うるさいわね、この三段の雑魚!」
「ざ、雑魚……!?」
思わず声が裏返った。
胸の奥に眠っていた、元奨励会員としてのプライドが痛烈に疼く。三段リーグという過酷な魔境を知らない人間に、雑魚などと呼ばれる筋合いはない。
「雑魚って言うな! 俺はこれでも、二十六まで三段リーグで戦い抜いたんだぞ!」
「だから雑魚なのよ! プロになれなきゃただの元奨励会員、社会的には職歴なしの無職! しかも三十歳で親に絶縁されて、バイトもクビになって、部屋の隅で埃かぶった盤も見ないふりして、いざとなったらベランダから黄昏れて逃げ出そうとしてる正真正銘の負け犬じゃない!」
「なっ……! な、なんでそこまで知ってるんだよ!?」
「記録に残ってんのよ! あんたの情けないプロフィールなんて、未来の教科書に反面教師として太字で載せてやりたいくらいだわ!」
少女は長い脚で散乱した紙くずを蹴散らし、ずいっと清麿の鼻先まで詰め寄ってきた。
「いい? よく聞きなさい、間抜けな先祖! あんたがここで中途半端に飛び降りて重度の障害を負って、何十年もベッドの上で意識不明になって生き延びたせいで! 千代おばあちゃん……私の先祖が作った加藤家の保存基金が、代々莫大な医療ローンと利子を背負い続ける羽目になったの! 三百年後の加藤家が、その借金のせいでどれだけ悲惨な極貧生活を送ってるか、あんた想像もつかないでしょ!?」
「ち、千代……? 保存基金……? 三百年後……!?」
あまりの情報の濁流に、清麿の頭は完全にショートしかけていた。
目の前の少女は、明らかに正気ではないことを言っている。だが、その瞳に宿る怒りと切迫感、そして空間を切り裂いて現れた超常の現象は、どう考えてもタチの悪いドッキリや精神錯乱で片付けられるものではなかった。
「ま、待て……落ち着け! 意味がわからない! そもそもお前、名前はなんて言うんだよ!」
清麿が床に手をついて必死に距離を取ろうとすると、少女は「はあ」とわざとらしく大きな溜息をついた。
そして、手元の透明な端末を指先で滑らせる。
端末の表面からスッと淡いグリーンの光の帯が投射され、清麿の顔を上から下へとスキャンした。
『――生体波長、DNAパターン照合完了。対象:西暦2026年時点の加藤清麿。歴史記録上の最重要特異点と確認』
どこか無機質な、しかし現代のいかなるスマートフォンよりも滑らかな合成音声が室内に響く。
少女は端末を腰のホルダーにカチリと戻すと、ツンと顎を上に向けて名乗った。
「名乗りが遅れたわね。私の名前は加藤和令。西暦2326年から来た、あんたの直系の子孫よ」
「し、子孫……!?」
「そうよ。あんたが作った借金地獄をチャラにするために、未来からわざわざあんたをぶん殴りに来てあげたの」
和令と名乗った美少女は、不敵に、そしてどこか追い詰められた光を宿した瞳で、清麿を真っ向から見据えた。
「喜ぶといいわ、雑魚先祖。あんたの詰み散らかした人生、私が未来の定跡でぶち壊して、勝たせてあげるから!」
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