EP 10
『ネット将棋、元三段の逆襲』
六畳間の窓ガラスを叩く冬の朝風が、わずかに緩み始めていた。
畳の中央に置かれた本榧の盤を前に、加藤清麿はスマートフォンの黒い画面を見つめていた。
画面に映る自分の顔には、まだ先ほど流した涙の痕がかすかに残っていたが、その眼差しは別人のように鋭く澄んでいた。
妹の千代が、本来の歴史で背負うはずだった途方もない犠牲。自分の投げやりな弱さが引き起こすはずだった、三百年先まで続く加藤家の破滅。そのすべてを直視した今、清麿の心から「迷い」という贅沢な雑音は完全に消え失せていた。
「……おい、いつまでスマホの画面を鏡代わりに睨みつけてんのよ」
向かい側で腕を組み、長い黒髪を揺らした加藤和令が、心底じれったそうに眉を吊り上げた。
「アプリのインストールくらい、原始人でも三分でできるでしょ。まさか指先が震えてタップできないわけ?」
「震えてない。……四年間、一度も触ってなかったからな。アカウントの作り方を思い出してただけだ」
「はいはい、言い訳乙。ほら、さっさと登録しなさいよ。登録名は『雑魚先祖』でいいんじゃない?」
「誰がそんなふざけた名前にするか! 一生ネットの晒し者になるだろ!」
「じゃあ何にする気よ。まさか本名で『加藤清麿』とか登録する気じゃないでしょうね? そんな昭和くさい真似したら即座に特定されて炎上よ」
「昭和を馬鹿にするな! ……それに、本名でやる度胸はまだないよ。俺はまだ、何も成し遂げてないんだからな」
「へえ、少しは身の程を弁えてるじゃない。じゃあ記号でいいでしょ。ほら、私の端末から適当なダミーを割り振ってあげるわ」
和令が指先を滑らせると、清麿のスマホ画面のユーザーネーム欄に、機械的な文字列が勝手に打ち込まれた。
『K-Zero』
「ケー・ゼロ……? なんだその無機質な名前は」
「加藤のKに、原点のゼロよ。負け犬がゼロから這い上がるにはお似合いでしょ」
「……ふん。悪くない」
清麿は小さく息を吐き、利用規約に同意して決定ボタンを押した。
開かれたのは、現代の日本で最も多くの将棋指したちが集う、国内最大級のオンライン将棋対戦プラットフォーム『将棋クラウド』のトップ画面だった。
一日数十万局が指され、下は初心者から、上は全国大会の常連、元奨励会員、さらには正体を隠した現役のプロ棋士までが匿名で潜伏する、現代の電子魔境である。
「いい、清麿」
和令はちゃぶ台に身を乗り出し、真剣な顔で画面を指差した。
「ネット将棋の持ち時間は一手三十秒、考慮時間なしの超早指しよ。三百年後の定跡アーカイブから引き出した知識を、迷わず反射速度で盤上へ出力する訓練にはうってつけだわ」
「分かってる。一手三十秒なら、奨励会の記録係で嫌というほど経験してきたリズムだ」
「口先だけなら名人級ね。いいこと? 相手がどんな奇襲を仕掛けてこようと、現代の定跡で組んできようと、昨日の夜に頭に叩き込んだ『完全定跡・パターンA』を寸分違わず再現しなさい。途中でビビって自分のヌルい感覚に戻したら、鳩尾に二発目のドロップキックだからね」
「脅迫しながら背中を押すな! ……行くぞ」
清麿は『対局開始』のボタンをタップした。
マッチングは一瞬だった。
最初は最下層のレートからスタートしたが、清麿の指し手はもはや人間技の領域を遥かに逸脱していた。
一局目、アマ初段相手にわずか二十八手で相手玉を投了に追い込む。
二局目、アマ三段の得意とする振り飛車を、序盤の常識外れな端歩突きで完全に機能不全に陥らせ、三十五手で圧勝。
三局目、四局目、五局目――。
清麿の指先は迷いなく画面をタップし続けた。消費時間は全対局を通してほぼ一手一秒から二秒。和令から叩き込まれた未来の結論は、現代のアマチュアが何百時間研究した自慢の布陣を、まるで障子紙を突き破るようにあっけなく解体していった。
連戦連勝。勝率は十割のまま、レートの数値だけが恐ろしい勢いで垂直上昇していく。
そして――開始から二時間が経過した頃。
システムが弾き出した対戦相手の名前に、和令が「あ」と小さく声を漏らした。
「……引いたわね、清麿。現代の有名人よ」
画面に表示された対戦相手のアカウント名。
『虎田タイガー@配信中』
レート二千七百五十。最高段位・アマ八段。
元奨励会一級の経歴を持ち、歯に衣着せぬ軽快なトークと圧倒的な早指しの破壊力で、動画配信サイトで十万人以上の登録者を集める、将棋界屈指のインフルエンサーだった。
*
「――よーし! 今日もレート二千八百の壁、ぶち破りにいっちゃいますか!」
都内某所の防音マンションの一室。
ゲーミングチェアに深く腰掛けた青年・虎田タイガーは、高音質のスタンドマイクに向かって快活に吠えていた。
モニターの片隅には、生配信の視聴者数がすでに一万人を超えてリアルタイムで表示されている。
「お、マッチングした! 相手は……ん? 『K-Zero』? レート二千六百八十……え、戦績が五十戦五十勝!? 全勝のアカウント!? なんだこいつ、プロの裏垢か!?」
画面上のチャット欄が、一瞬で猛烈な速度で流れ始めた。
『全勝のアカウントきたあああああ!』
『五十連勝は草。プロの息抜きか?』
『いや、最近流行りのソフト指し(不正AI利用者)のアカウントじゃね?』
『タイガー、チーターならボコボコにして晒し上げてくれ!』
「オッケーみんな、相手が誰だろうと関係ねえ! 俺の伝家の宝刀、超速角換わりでひとひねりにしてやんよ! 先手は相手か、かかってこい!」
対局開始の電子音が鳴り響いた。
先手番の『K-Zero』――清麿の初手は、ごく自然な▲7六歩だった。
虎田も迷わず△3四歩と応じ、角道を開ける。
互いに飛車先を突き合い、銀を繰り出す。現代の将棋界で最も深く研究されている、角換わりの王道手順へと進むかに見えた。
――しかし。
わずか七手目。
画面の向こうの『K-Zero』が、ノータイムで指した一手を見た瞬間、虎田の口が半開きになった。
――パシッ。
先手の玉が、ふらりと斜め上、角の睨みが直撃する危険地帯へ一歩上がったのだ。
「……は?」
虎田は思わずマイクから顔を離し、画面を二度見した。
「ちょ、待って待って! 何これ!? 玉上がり!? このタイミングで!?」
配信のコメント欄が一気に草で埋め尽くされる。
『wwwwwwwww』
『操作ミス乙www』
『タップミスしたなこれ』
『レート2600超えてスマホの誤タップは恥ずかしすぎる』
「いやいやリスナーのみんな、これはミスじゃないかもよ? 俺を舐め腐った完全な舐めプだよ! 角換わりで序盤に玉を自ら晒すなんて、現代の定跡書じゃ『即座に敗勢』って太字で書いてあるレベルの愚手だからね!」
虎田の目がギラリと光った。
「舐めた真似してくれたなK-Zero! プロだろうがチーターだろうが、その無謀な玉頭を五分で粉砕してやるよ!」
虎田は躊躇なく角を打ち込み、清麿の玉陣の急所へ向けて猛烈な速攻の火蓋を切った。アマチュア屈指の破壊力を誇る、一切の妥協のない咎めの一手。
――だが。
虎田が指したコンマ五秒後。
画面の『K-Zero』は、一切の考慮時間を使うことなく、自陣の端歩をスッと突き捨てた。
「……あ?」
虎田の指が止まった。
「端歩……? 中央を攻められてんのに、なんで端? 無視して銀を突っ込めば……あれ?」
虎田はモニターに顔を近づけた。
銀を突っ込んで清麿の玉を攻めようとすると、先ほど清麿が自ら上がった玉の位置が、絶妙に自陣の角の利きを遮り、逆に虎田の攻め駒を自ら罠に誘い込む形になっていることに気付いたのだ。
「待て……え? 攻めが……引っかかる? いや、そんなはずはない。角を成れば……成れば馬ができるだろ!」
虎田は焦りを振り払うようにマウスを叩いた。
しかし、『K-Zero』の指し手は狂気的なまでに冷徹だった。
馬を作らせる。惜しげもなく大駒を相手に渡す。
その代わり、相手が馬を作って満足したその一瞬の隙に、清麿の歩と桂馬が、まるで最初からそこに置かれることが定められていたかのように、虎田の陣地の最も脆い急所へ正確無比に突き刺さった。
――バシッ。
――バシッ。
「う、嘘だろ……!? なんで馬を作った俺の陣形が、一手でバラバラに崩壊してんだ!?」
虎田の額から、ツツーと大粒の汗が流れ落ちた。
考慮時間のカウントダウンが鳴り響く。
『十秒……二十秒……二十五秒……』
「クソッ! 金で受ける! いや、銀を引くか!? どれを指しても、相手の桂馬が突き刺さってくるぞ!?」
配信画面のコメント欄の空気が、完全に一変していた。
『おい……タイガーの手が止まったぞ……?』
『ちょ、これガチでやばくないか?』
『今、手元の最新将棋AIにこの局面読み込ませたんだけど……』
『どうなった!?』
『AIの評価値、最初はタイガー+800点だったのに、K-Zeroが端歩突いた瞬間から評価値が暴落して、今【K-Zero+2500点(勝勢)】に跳ね上がったぞ!!!』
『は!? 評価値がバグった!?』
『AIすら推奨してなかった手が、実は最強のカウンターだったってこと!?』
『何だこの構想……現代の定跡にこんな手順、一度も見たことねえぞ……!!』
「参った……! 受からない! どこにも逃げ場がねえ!!」
虎田の絶叫がマイクに響き渡った。
四十五手目。
清麿が手元から落とした一枚のと金が、虎田の玉の退路を完全に消滅させた。
画面の中央に、無慈悲な文字が浮かび上がる。
『相手が投了しました』
わずか四分足らず。
アマ最高峰の猛者が、何一つ自分の力を発揮できないまま、電子の盤上で粉々に粉砕された瞬間だった。
*
六畳間の静寂の中、清麿のスマホ画面に『勝者:K-Zero』の文字が静かに灯っていた。
「……勝った」
清麿は画面を見つめたまま、小さく息を吐き出した。
指先には心地よい熱が残り、心臓は激しく高鳴っていた。
相手は現代のアマ八段、ネット将棋の最高峰に君臨する猛者だ。その相手の研究を、和令から教わった未来の定跡は、影すら踏ませずに完膚なきまでに叩き潰した。
「ふん。まあ、ウォーミングアップとしては及第点ね」
向かいの和令が、鼻から得意げに息を噴き出した。
「見たかしら、雑魚先祖。三百年後の解析力にかかれば、現代のトップアマの研究なんて児戯に等しいのよ。あんたが正確に手順をトレースできれば、現代に敵なんて存在しないわ!」
「……ああ。すごいよ、本当に」
清麿は素直に頷いた。自分の力ではない、三百年分の叡智の結晶だ。だが、それを自分の指で盤上に出力し、勝利を捥ぎ取った感覚は、魂を芯から震わせるものがあった。
清麿がおもむろにSNSのアプリを開くと、すでにタイムラインは蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
『【悲報】タイガー将棋CH、謎の新人「K-Zero」に45手で公開処刑される』
『K-Zeroの手順、プロの研究会でも誰も見たことない新手らしい』
『新手のAI開発者か? それとも正体を隠したタイトルホルダーか?』
ネットの海が、名もなきアカウントの出現に熱狂し、驚愕していた。
四年間、誰の視界にも入らず、社会の底辺で透明人間のように生きてきた加藤清麿の存在が、電子の世界を激震させている。
清麿の口元に、自然と誇らしげな笑みが浮かびかけた――その時だった。
「――調子に乗るんじゃないわよ、雑魚先祖」
ピシャリと、冷たい刃のような声が六畳間に落ちた。
見上げると、和令が腕を組み、氷のように冷徹な瞳で清麿を見下ろしていた。
「画面見てニヤニヤしてんじゃないわよ。何よその締まりのない顔は」
「なっ……! 勝ったんだから少しは喜んでもいいだろ!」
「何が勝ったのよ。言っておくけどね、ネット将棋で何百連勝しようが、SNSでどれだけバズろうが、そんなものは現実の世界じゃただの『ゼロ』よ」
和令はずいっと顔を近づけ、清麿の胸元を指先で強く突いた。
「ネット対局の勝利なんて、プロ棋士編入試験の公式成績には一勝たりとも算入されないわ。履歴書の職歴欄と同じ、ただの真っ白な空白よ。あんたはまだ、現実のプロへの道を一歩も進んでないの!」
痛烈な現実が、清麿の浮き足立った心を真っ向から撃ち抜いた。
清麿は息を呑み、握りしめていたスマートフォンの冷たさを手のひらに感じた。
そうだ。和令の言う通りだ。
画面の向こうでどれだけ喝采を浴びようと、自分はまだ、築四十年のボロアパートに住む三十歳の無職に過ぎない。
千代の背負うはずだった地獄を消し去ることも、榊原師匠の前に胸を張って立つことも、ネットの画面の中では何一つ成し遂げられないのだ。
「……分かってるよ」
清麿はスマホの画面を伏せ、深く息を吸い込んだ。
瞳の奥に宿っていた浮かれ気分は完全に消え去り、鈍い鋼のような決意だけが残っていた。
「ネットの画面の向こうじゃない。……生身の人間が、人生を懸けて盤を挟む現実の場所に、俺は行く」
「ふん。分かればいいのよ」
和令は満足そうに口元を吊り上げ、ポケットから一枚のプリント用紙を取り出して畳の上に放り出した。
「ほら、これ。駅前の将棋会館で見つけて、勝手にエントリー用紙を印刷してきたわよ」
畳の上に落ちた用紙の見出しを、清麿は凝視した。
『全日本アマチュア将棋名人戦・東京都城東地区予選大会』
開催日は、来週の日曜日。
優勝者だけに与えられるのは、全国大会への出場切符。そして、その先にあるプロ公式戦への特別推薦枠へと続く、唯一無二の扉だった。
「三十歳の元奨励会員が、泥にまみれてアマチュアの予選から這い上がるのよ」
和令が不敵に笑う。
「逃げ出すなら今のうちよ、清麿」
「逃げるわけがないだろ」
清麿はボールペンを手に取り、エントリー用紙の氏名欄に、力強い筆跡で自らの名前を刻み込んだ。
加藤清麿、三十歳。
止まっていた人生の逆襲劇が、いよいよ現実の盤上へと舞台を移そうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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