EP 11
『30歳、もう一度大会に出る』
二月下旬の朝の空気は、吐き出す息を一瞬で白く染めるほど冷え切っていた。
東京都城東地区の区民センター。年季の入った鉄筋コンクリート造りの建物の前には、開館前だというのに数十人の男たちが列をなしていた。
分厚いダウンジャケットを着込んだ現役の大学将棋部の若者たち。強豪道場の名前が刺繍されたベンチコートを羽織る、全国大会の常連とおぼしき壮年の猛者たち。あるいは、我が子の引率として緊張した面持ちで付き添う親と、詰将棋の本を熱心にめくる小学生の県代表。
誰もが、盤上の勝負に人生の一片を懸けている者特有の、研ぎ澄まされた熱気を身に纏っていた。
その列の最後尾から少し離れた植え込みの脇で、加藤清麿は自分の両手を見つめていた。
身にまとっているのは、四年前に奨励会を去って以来、一度も袖を通していなかった古いリクルートスーツだ。昨夜、六畳間の片隅でアイロンを丁寧にかけ、皺だけは伸ばしたが、生地の擦り切れや肩口のくたびれ感までは隠しようがなかった。
(……四年ぶり、か)
胃の奥が、ぎりぎりと雑巾を絞られるように痛む。
かつて奨励会三段リーグという、全国の神童たちが人生を削り合って潰し合う修羅場に身を置いていた清麿にとって、アマチュアの地区予選など、十代前半で通過した過去の風景に過ぎないはずだった。
だが、今の自分は何者だ。
二十六歳で夢破れ、社会から弾き出され、職歴もなく、妹の施しで食いつないできた三十歳の無職。
周囲を見渡せば、二十代前半の若者たちが眩しいほど堂々と将棋の議論を交わしている。その中に混じっている自分が、ひどく場違いで、みっともない亡霊のように思えてならなかった。
「……おい、和令」
清麿は隣に立つ少女へ、消え入りそうな声で話しかけた。
「やっぱり……目立ちすぎるんじゃないか、この格好。みんな私服だし、三十過ぎてボロいスーツ着て一人で並んでるやつなんて、俺くらいだぞ……」
「はあぁぁぁ? 何を寝ぼけたこと言ってんのよ、この雑魚先祖は!」
加藤和令は、銀と藍色のライダースーツの胸元で腕を組み、心底軽蔑しきったような視線を清麿に突き刺してきた。
彼女の透明端末による光学迷彩のせいで、周囲の人間にはただの「普通の私服を着た連れの女性」に見えているはずだが、その声のトゲトゲしさは三百年後の最新兵器並みに鋭い。
「服装なんかどうでもいいでしょ! スーツを着てきたのはあんた自身の覚悟の表れじゃないの!」
「覚悟っつったって、周囲の視線が痛いんだよ。さっきから『あいつ、就活の帰りに間違えて迷い込んだのか?』みたいな顔で見られてる気がする……」
「被害妄想乙! 誰も三十歳の無職の服装なんて一ミリも気にしてないわよ!」
「無職無職って連呼するな! 少しはオブラートに包め!」
「包む価値もないわ! だいたいね、何よその借りてきた猫みたいな猫背は! 肩にゴミがついてるし、顔色は青白いし、今すぐ吐きそうな顔してんじゃないわよ!」
「吐きそうなんだよ! 四年間、実戦の大会なんて出てないんだぞ!? ネット将棋とは背負ってるプレッシャーの桁が違うんだ!」
「情けない声出さないで! あんたが背負ってんのはプレッシャーじゃなくて、三百年後の加藤家の天文学的な借金なの! それに比べたら、地区予選のプレッシャーなんて原子レベルの軽さよ!」
「スケールがデカすぎて逆に実感が湧かんわ!」
ギャーギャーと小声で繰り広げられる口喧嘩に、近くに並んでいた高校生が怪訝そうにこちらを振り返った。清麿は慌てて咳払いをし、うつむいて視線を逸らした。
「……まったく、世話が焼けるわね」
和令は大きな溜息をつくと、清麿のスーツの襟元に手を伸ばし、乱暴な手つきでネクタイの結び目をキュッと締め直した。
「ぐえっ、苦しい……!」
「背筋を伸ばしなさい! あんたは負け犬だけど、ただの負け犬じゃないでしょ。三段リーグで二十六まで戦い抜いた技術があって、その上に三百年分の完全定跡を叩き込んだのよ。……胸を張りなさいよ。加藤家の名前を背負って盤に向かうんでしょ」
「和令……」
「勘違いしないでよね。あんたが恥をかいたら、子孫である私の遺伝子まで傷つくから言ってるだけよ!」
ツンと横を向いた和令の耳が、寒さのせいか、わずかに赤くなっていた。
清麿は胸元に手を当て、深く息を吸い込んだ。
首筋に感じるネクタイの締め付けが、不思議と散り散りになりかけていた意識をひとつに繋ぎ止めてくれる。
ポケットの中のスマートフォンが、微かに震えた。
取り出して画面を見ると、妹の千代からのメッセージが届いていた。
『お兄ちゃん、今日は大会だよね。夜勤明けで応援には行けないけど、お昼ご飯ちゃんと食べてね。無理しすぎないで、頑張って』
それだけの、短い文面。
だが、千代が本来背負うはずだった残酷な未来を知った清麿にとって、その一行はどんな名人の推薦状よりも重く、温かかった。
(逃げるわけには、いかないんだ)
清麿はスマートフォンの画面を伏せ、コートのポケットにしっかりと仕舞い込んだ。
午前九時三十分。
区民センターの大ホールに、開会を告げるブザーがけたたましく鳴り響いた。
長机が幾重にも並べられた広い会場には、百人を超える参加者たちがひしめき合っている。壁際にはトーナメント表が張り出され、選手たちが自分の名前を探して群がっていた。
受付の長机で、大会役員の初老の男性が清麿のエントリー用紙を眼鏡越しに検め、眉をピクリと動かした。
「……加藤清麿さん、三十歳ね。所属クラブは……なし、と。フリーでの参加ですか」
「あ、はい」
「ブランクはあるのかい? 最近の段位認定戦の記録が見当たらないようだけど」
「四年間、公式の大会には出ていません」
「そうかい。……まあ、アマチュア名人戦の地区予選はレベルが高いからね。怪我のないように、胸を借りるつもりで頑張って」
悪気のない、だが明らかに「記念参加のおじさん」として扱う事務的な言葉。
さらに、トーナメント表の前で清麿の名前を見つけた数名の若者たちが、小声で囁き合うのが耳に入ってきた。
「おい、あいつ……加藤清麿って、まさか昔の小学生名人か?」
「え、あの榊原門下の? 三段リーグで年齢制限で散ったっていう……?」
「マジかよ。今さらアマチュア大会に出てくんのかよ」
「ブランク四年で三十歳だろ? 今の若い奴らの最新研究についてこれるわけないじゃん。昔の名前で出てきても、恥かくだけなのにさ」
刺すような視線が、背中に突き刺さる。
かつては「神童」ともてはやされ、挫折した瞬間に「過去の人」として嘲笑の対象になる。
勝負の世界の、冷徹で無慈悲な現実。
だが――清麿の胸の奥は、驚くほど冷え切っていた。
屈辱感も、怒りも湧いてこない。
ただ、かつて三段リーグの対局室を満たしていた、あの研ぎ澄まされた勝負師の感覚が、四年の空白を飛び越えて全身の血潮を急速に支配していくのを感じていた。
「一回戦、各席に着いてください!」
審判長のアナウンスが響く。
清麿の指定された席は、会場の端にある十三番テーブルだった。
パイプ椅子に腰を下ろすと、対面に座っていた対戦相手が、値踏みするように清麿を見上げてきた。
対戦相手の名札には『松本健太・アマ四段』とある。
都内の有名大学の将棋部員らしく、胸には大学のエンブレムが入ったスウェットを着ている。二十歳そこそこの、若さと自信に満ち溢れた精悍な顔つきだった。
「よろしくお願いします」
松本が軽く頭を下げる。その瞳の奥には、明らかに「初戦は楽な相手を引いた」という油断の色が透けて見えていた。
「よろしくお願いします」
清麿も静かに礼を返した。
駒箱から駒を取り出し、並べていく。
プラスチックの安価な盤と駒だが、指先に触れる感触は、本榧の盤と何ら変わらない。
大橋流で四十枚の駒が盤上に並び終えた瞬間――清麿の纏う空気が、完全に変貌した。
伏せられていた視線が、すっと盤面の中央へと据えられる。
三十歳の無職の気弱な男は、そこにはもういなかった。
対面に座る松本が、思わず息を呑み、わずかに身じろぎした。まるで、温厚そうに見えた草食獣が、一瞬で獲物を狙う肉食獣へと変貌したかのような、圧倒的な気迫の変節。
――振り駒の結果、清麿の先手番となった。
「一回戦、対局を開始してください!」
合図とともに、会場のあちこちで一斉に駒音が鳴り響いた。
清麿は、呼吸を乱すことなく右手を伸ばした。
人差し指と中指で駒を挟み、凛とした手つきで盤上へ滑らせる。
――パシッ。
初手、▲7六歩。
松本も即座に応じる。
――バチィン。
△3四歩。
松本の手つきは強く、若者らしいスピード感に満ちていた。
序盤の数手、松本は現代の大学将棋界で大流行している、最新のAI研究に基づいた鋭角的な居飛車速攻の構えを取ってきた。相手の駒の配置を制限し、最短の手数で自陣の有利を確定させる、現代の「最先端の知性」が凝縮された布陣。
(おじさん、悪いけど瞬殺させてもらうよ。現代の将棋は、あんたの時代とはスピードが違うんだ)
松本の指し手から、そんな自負が雄弁に伝わってくる。
――しかし。
九手目。
清麿の手が、松本の計算を根底から粉砕した。
清麿は、自陣の囲いを発展させるでもなく、飛車先を突くでもなく、ふらりと盤の端にある歩を一手、無造作に押し上げたのだ。
――パチリ。
「……は?」
松本の指先が、空中でピタリと止まった。
盤面を二度見し、それから清麿の顔を凝視する。
(端歩……? このタイミングで端歩を突くのか……?)
松本の脳内にある膨大なAI定跡のデータベースが、激しいエラー音を立てて点滅し始めた。
現代の感覚では、明らかな緩手。悪手と言ってもいい。
角換わりや相掛かりの最先端の研究において、この瞬間に端歩を突くなど、自ら手番を放棄して相手に攻めの主導権をプレゼントする愚策とされている。
(舐められたのか……? それとも、四年のブランクで現代の定跡すら忘れた化石なのか……?)
松本の眉間に、青筋が浮かんだ。
現代の最先端を自負する若手アマ強豪としてのプライドが、猛烈な怒りとなって燃え上がる。
「……なら、受けて立つまでだ!」
松本は躊躇なく銀を繰り出し、中央から清麿の陣形を粉砕するための速攻の火蓋を切った。
定跡から外れた悪手を、最短の手数で咎め立てる。将棋の神理に忠実な、非の打ち所のない鋭角的な踏み込み。
――しかし。
松本が銀を進めた、コンマ五秒後。
清麿は、一切の考慮時間を使うことなく、自陣の玉をふらりと斜め上へ押し上げた。
――パシッ。
「なっ……!?」
松本の喉から、引き攣ったような声が漏れた。
玉が、自ら敵の攻撃目標である中段へ進み出たのだ。
守りを固めるどころか、自ら急所を晒すような奇怪極まりない一手。
周囲のテーブルで対局を終えた選手や、観戦に訪れていたギャラリーたちが、清麿の盤面に目を留め、ざわざわと足を止め始めた。
「おい、見ろよあの盤面……」
「なんだあの一手? 玉をあんな無防備なところに上げて……自殺行為じゃないか?」
「加藤って、昔の奨励会三段だろ? いくらブランクがあるからって、あんな無茶苦茶な手を指すわけが……」
観戦者たちの囁きが耳に届く。
だが、清麿の表情は氷のように冷徹だった。
(見えている……すべて、和令の端末の通りだ)
三百年後の未来において、この局面はすでに『過去の遺物』として完全に解剖され尽くしている。
松本が自信満々に繰り出す現代最先端の速攻は、未来の視点から見れば、自ら玉の逃げ道を塞ぎながら突撃してくる暴走に過ぎない。
松本が角を成り込んできた瞬間。
清麿は、自陣に控えていた桂馬を、敵陣の虚空へとふわりと跳ね上げた。
――バシィッ!
「……っ!?」
その瞬間、松本の全身から血の気が引いた。
成ったはずの馬が、清麿の跳ねた桂馬と、最初に突いたはずの「端歩」によって、退路を完全に塞がれていたのだ。
攻めているはずだった。
相手の悪手を咎め、一方的に圧倒しているはずだった。
それなのに――気がつけば、松本の最強の攻め駒は完全に無力化され、逆に清麿の駒たちが、蜘蛛の巣のように張り巡らされた見えない包囲網で、松本の玉陣をじわじわと締め上げ始めていた。
「馬鹿な……! こんな筋、どの定跡書にも、どのAIの推奨手にも載ってないぞ……!?」
松本の額から、ボタボタと大粒の汗が盤上に落ちる。
考慮時間が容赦なく削られていく。
読めば読むほど、逃げ道がない。
清麿が最初に指した、あの意味不明に見えた「端歩」と「玉の移動」。
そのすべてが、十手後、十五手後に訪れるこの局面のために寸分の狂いもなく計算された、悪魔のような罠だったのだ。
「う……ぐっ……!」
松本の手が震えた。
震える指先で、なんとか自陣に銀を打ちつけ、形を取り繕おうとする。
だが、清麿の応手は――容赦のないノータイムだった。
飛車を見捨てる。
大駒を相手に差し出す代わりに、相手の玉の頭上へ、冷徹な歩を一枚、ぽつりと落とす。
――パチリ。
その乾いた駒音が響いた瞬間、松本の玉陣は、完全に息の根を止められた。
「…………」
対局机を囲んでいたギャラリーの息が、一斉に止まった。
誰一人として言葉を発することができない。
会場の喧騒の中で、十三番テーブルの周囲だけが、まるで真空地帯のように静まり返っていた。
松本は青ざめた顔で盤面を見つめ、何度も喉を上下させた。
三十手台。
現代の大学将棋界で鳴らしたアマ四段の猛者が、何一つ自分の将棋を指せないまま、未知の暴力のような手順で手足を捥がれていた。
やがて――松本の手から、握りしめていた駒が力なく滑り落ちた。
「……負け、ました」
絞り出すような投了の声。
わずか三十八手。
一回戦の中で、最も早く、そして最も圧倒的な決着だった。
「ありがとうございました」
清麿は静かに一礼し、駒を片付け始めた。
手は震えていなかった。
四年ぶりの公式大会。その最初の一歩を、完璧な勝利で踏み出したのだ。
周囲を取り囲んでいた観戦者たちが、ざわざわと激しいどよめきを上げ始めた。
「おい……今の将棋、見たか……?」
「三十八手って……相手、県代表クラスのアマ四段だぞ!?」
「なんだあの手順……見たことないぞ、あんな構想……!」
「加藤清麿……本当に四年もブランクがあったのか……!?」
畏怖と驚愕の混じった視線が、一斉に清麿へと注がれる。
かつての嘲笑は、跡形もなく消え去っていた。
清麿は立ち上がり、ネクタイを少し緩めた。
人垣の向こう、会場の入り口付近の柱の陰で、腕を組んでこちらを見つめている和令の姿があった。
和令はツンと顎を上に向けて、いつものように傲慢にフンと鼻を鳴らした。
だが、その勝気な瞳の奥には、「当然でしょ」と言わんばかりの、眩しいほどの誇らしげな光が宿っていた。
清麿は小さく息を吐き、静かに拳を握りしめた。
これはまだ、最初の一勝に過ぎない。
人生の詰み筋をぶち破るための、本当の戦いは、ここから始まろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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