EP 12
『現代最強の定跡、その300年後の評価は?』
区民センターの大会ホールに満ちていた空気は、一回戦の開始前とは完全に異質なものへと変貌していた。
長机が整然と並ぶ広い会場の中央、加藤清麿が座るテーブルの周囲には、すでに自分の対局を終えた選手や観戦者たちが幾重にも人垣を作っていた。
一回戦、大学将棋界のホープであるアマ四段をわずか三十八手で粉砕した謎のスーツ姿の男。その噂は、瞬く間にホール全体へと知れ渡っていた。続く二回戦でも、清麿は一切の隙を見せず、相手の仕掛けを『絶対不敗の受け潰し』によって完璧に無力化し、四十二手で圧勝を収めていた。
二局指して、消費した考慮時間は合計で五分にも満たない。
「おい、あの人……本当に四年もブランクがあるのかよ」
「二回戦も相手の攻めが全部空振りしてたぞ。まるで相手の手が最初から全部見えてるみたいだ」
囁き交わされるざわめきを背中に感じながら、清麿はパイプ椅子の上で静かに目を閉じ、深く息を吐き出した。
指先には心地よい痺れが残っている。
かつて三段リーグで味わっていた、胃を針で刺されるような恐怖や吐き気は、不思議なほど湧いてこなかった。頭の中には、和令から叩き込まれた膨大な未来定跡の樹形図が、透き通った水のように静かに広がっている。
「……調子に乗ってんじゃないわよ、雑魚先祖」
人垣の隙間から、聞き慣れた棘のある声が飛んできた。
通路の脇に立つ和令が、腕を組んで冷ややかな視線を投げて寄越す。光学迷彩のせいで周囲にはごく普通の付き添いの少女に見えているはずだが、その整った眉根の吊り上がり方は、いつも通り容赦がない。
「二連勝したくらいで名人気取り? 鼻の下が伸びてるわよ」
「伸びてない。……集中を高めてるんだよ」
「嘘おっしゃい。内心で『俺の将棋、すげえだろ』ってドヤ顔してるのが毛穴からダダ漏れよ」
「毛穴から漏れるドヤ顔ってなんだよ! 少しは素直に応援できないのか!」
「応援するわけないでしょ。三百年後の加藤家の運命が懸かってんのよ。……それに、次からが本番よ」
和令の視線が、清麿の対面へとスッと向けられた。
「次の相手は、現代のアマチュア界じゃちょっとした有名人らしいわ。あんたが部屋で腐ってた四年間、ずっと最前線で研究を積み重ねてきた現代の強豪よ」
和令の言葉通り、対局席の対面に一人の男が静かに腰を下ろした。
年齢は四十代半ば。仕立ての良い紺色のブレザーを着こなし、知的なメタルフレームの眼鏡を光らせている。
机の上に置かれた名札には、『神谷克己・アマ六段』と記されていた。
全国アマチュア竜王戦で準優勝、アマ名人戦でも東京代表として何度も全国大会の舞台を踏んでいる、社会人アマチュア界の重鎮である。大手IT企業に勤めながら、最新の将棋AIを駆使した序盤研究を徹底的に行っている理論派として知られていた。
「加藤さん、ですね」
神谷は静かな、だが腹の据わった声で口を開いた。
「一回戦、二回戦のあなたの将棋、拝見させてもらいました。……驚きましたよ。現代の定跡体系では説明がつかない手が、完璧な論理で盤上を制圧していた」
「……恐縮です」
「失礼ながら、事前のデータにはあなたの直近の実績はありませんでした。元奨励会三段だとか。四年のブランクを経て、これほどの序盤構想を隠し持っていたとは……。正直、胸が高鳴っています」
神谷は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、薄く笑った。
「私はね、現代の将棋AIが導き出した最新研究を、誰よりも信じています。あなたの一回戦の指し手も、控室のノートパソコンで最新ソフトに読み込ませてみました」
「……解析を?」
「ええ。ソフトの判定は『序盤の疑問手』でした。つまり、相手が最善を尽くせば成立しないはずの手だ。……私の研究が正しいか、あなたの直感が正しいか。白黒つけさせてもらいましょう」
敵意ではない。純粋な知的好奇心と、己の研究に対する絶対の自負が、神谷の言葉には満ちていた。
清麿は背筋を正し、座り直した。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
三回戦、準々決勝の対局が始まった。
振り駒の結果、神谷が先手、清麿が後手番となった。
神谷の初手は、淀みのない▲2六歩。飛車先を突く、現代将棋の王道である居飛車の宣言。
清麿もすぐに応じる。△8四歩。互いに飛車先を突き合う、相掛かりの出だしとなった。
序盤の十数手、神谷の手つきには一切の迷いがなかった。
カチリ、カチリと、秒針が刻むような正確さで駒が進められていく。
それは現代のトッププロたちがタイトル戦の舞台で命を削って構築した、現時点で『先手有利・勝率五割八分』と結論づけられている、現代最強の相掛かり最新定跡だった。
銀を中央に引きつけ、玉の守りを固めつつ、相手の飛車先からの反撃をミリ単位の精度で封じ込める。隙が一切ない、鋼鉄の要塞のような布陣。
人垣の中から、感嘆の吐息が漏れた。
「神谷さんの研究手順だ……。完全に決まってる」
「加藤さん、身動きが取れなくなってるんじゃないか?」
「現代のAI研究の最先端だぞ。これに後手番で対抗できる手なんて、プロの公式戦でもまだ見つかってないはずだ」
周囲の観戦者たちは、神谷の圧倒的な作戦勝ちを確信し始めていた。
しかし――。
その神谷の完璧な陣形を前にして、清麿は深く息を吸い込み、頭の中のアーカイブを呼び出していた。
(……相掛かり、先手銀引き最新型)
かつて、清麿自身が奨励会時代に信奉していた局面だ。
だが、その局面に対する和令の言葉が、脳裏に鮮烈に蘇る。
『この銀引き、西暦二一一五年に「歴史的悪手」として完全論破されたわ。評価値は後手必勝よ』
『現代の貧弱な計算力じゃ、三十手後に訪れる即詰みが見えなかっただけ。……常識を捨てなさい、清麿。相手が最も堅いと信じてるその瞬間こそが、最大の急所なのよ』
神谷が、自慢の銀を自陣深くへと引きつけ、陣形を完成させた二十一手目。
神谷は小さく頷き、清麿の次の一手を待った。
現代の常識なら、後手は自陣の金を上がって受けに回るか、飛車を引いて持久戦を目指す一手しかない。
だが。
清麿は、考慮時間を使うことすらなく、手元の駒を指先で挟んだ。
迷いは微塵もなかった。
――バチン!
清麿が放った一手は、自らの角を、相手の飛車の目の前へと無造作に放り出す、狂気の捨て駒だった。
「…………っ!?」
静まり返っていたホールに、神谷の息を呑む音が響いた。
神谷の目が、見開かれたまま凍りつく。
観戦者たちからも、悲鳴に近いどよめきが上がった。
「な、なんだあの一手は!?」
「角をタダで捨てたぞ!? 相手の飛車先だぞ!?」
「暴発か!? 神谷さんのプレッシャーに耐えきれなくなって自滅したのか!?」
誰もが清麿の狂気を疑った。現代の常識において、この局面で角を差し出すなど、敗退行為以外の何物でもない。
神谷の額に青筋が浮かんだ。
(……悪手だ。絶対に成立するはずがない)
神谷は必死に脳内の盤面を動かした。
飛車で角を取る。当然の一手だ。タダで大駒が手に入り、先手の優勢は決定的になるはずだ。
しかし――神谷の指が、駒の上でピタリと止まった。
(待て……。角を取ると、何が起こる……?)
神谷の優れた頭脳が、十手先、十五手先の変化を読み進めていく。
角を取る。すると、清麿の桂馬が跳ねてくる。
それを防ぐために歩を打つと、清麿の玉がふらりと中段へ上がり、自陣の香車を犠牲にしながら、神谷の玉の退路を遥か遠くで塞ぎにくる。
(……え? 自陣の銀が……邪魔になっている……!?)
神谷の背筋を、氷水のような悪寒が駆け抜けた。
先ほど、自らが「鉄壁の守り」として誇らしげに引きつけたはずの銀。
その銀のせいで、自玉の逃げ道が、わずか一手分だけ、狭まっているのだ。
もし銀がそこにいなければ、玉は悠々と下段へ逃げ込めた。だが、その銀がいるせいで、清麿の捨て身に見えた攻め駒たちが、寸分の狂いもなく神谷の玉を包囲する凶悪な足場へと変わってしまう。
『パターンB・大駒放棄のカウンター』。
三百年後の未来において、神谷の信じる「現代最強の定跡」は、この角捨ての一手によって完全に解剖され、葬り去られていたのだ。
「馬鹿な……! そんなはずはない……! 最新のAIが、最高評価を与えた定跡なんだぞ……!!」
神谷の指が激しく震えた。
汗が眼鏡のレンズにボタボタと滴り落ちる。
角を取らなければ、清麿の角が神谷の急所を直撃する。
角を取れば、見えない即詰みのレールに乗せられる。
どちらを選んでも、破滅へと直結している。
神谷は必死に考慮時間を使った。十分、十五分。持ち時間が刻一刻と削られていく。
対する清麿は、微動だにせず、静かに盤面を見つめ続けていた。
やがて、神谷は震える手で飛車を伸ばし、清麿の角をもぎ取った。
苦渋の決断。毒入りの林檎を、自ら呑み込むしかなかった。
その瞬間――清麿の右手が、疾風のように動いた。
――バシィッ!
桂馬が跳ねる。
神谷が必死に受けの銀を打つ。
――パシッ。
清麿は歩を突き捨てる。
一手進むごとに、神谷の陣形がボロボロと砂のように崩れていく。
神谷が何十時間、何百時間と研究してきた現代の叡智が、三百年後の圧倒的な結論の前に、一枚の木の葉のように蹂躙されていく。
周囲の観戦者たちは、もはや声を出すことすら忘れていた。
奇妙な手だった。見たこともない手順だった。
だが、その指し手が進むにつれて、盤上に現れてくる圧倒的な必然性と美しさに、誰もが息を呑み、魅入られていた。
そして――五十六手目。
清麿が、神谷の玉の頭上に、ぽつりと銀を打ち下ろした。
静かな駒音が、静まり返ったホールに響く。
逃げ場は、どこにもなかった。
神谷の玉は、自陣の自慢の駒たちに退路を塞がれ、盤の中央で美しく息絶えていた。
「…………」
長い沈黙が流れた。
神谷は両手を膝に置いたまま、動かなくなった。
やがて、深く、重い溜息とともに、深々と頭を下げた。
「……参り、ました」
五十六手。
社会人アマチュア界の最高峰が、己の誇る最新研究を真っ向から粉砕された瞬間だった。
会場のあちこちから、割れんばかりの拍手とどよめきが沸き起こった。
「神谷さんが負けた……!」
「なんだあの角捨て……! あんな手、プロの対局でも見たことないぞ!」
「加藤清麿……本物の化物だ……!」
ざわめく人垣の中で、神谷は眼鏡を外し、ハンカチで汗を拭った。
その顔には、敗北のショックとともに、信じられないものに出会った少年の知的好奇心が滲んでいた。
「……加藤さん」
神谷が、真摯な眼差しで清麿を見つめてきた。
「感想戦をお願いできますか。……どうしても、教えていただきたい。あの二十二手目の角捨て……あれは、一体どういう構想だったのですか?」
周囲の観戦者たちも、固唾を呑んで清麿の口元を凝視した。
清麿は一瞬、言葉に詰まった。
(三百年後の未来人が解析した結果です、なんて言えるはずがない)
だが、今の清麿は、ただ手順を丸暗記しただけの男ではなかった。
昨夜、和令と盤を挟んで夜を徹して検証し、なぜその手が成立するのか、なぜ現代の定跡が破綻するのかを、自らの頭で血を吐くように考え抜いた記憶があった。
清麿は盤上の駒を指差し、静かに口を開いた。
「……神谷さんの引いた自陣の銀は、現代の感覚では最も堅固な守りです。しかし、あの銀は自玉の退路を一手分塞いでしまっている」
「退路を……一手分?」
「はい。現代の定跡は、目先の駒の連結と評価値のプラスにとらわれすぎています。しかし、あそこで角を捨てて相手に手番を渡しても、相手の攻め駒を自陣の厚みで包み込んでしまえば、二十手先には必ず先手の銀が『玉の逃げ道を塞ぐ邪魔駒』に変わるんです」
清麿は、自分の言葉で、未来の概念を現代の言葉へと翻訳して語っていた。
「将棋の陣形は、堅さだけでは測れません。盤面全体の速度と、退路の広さ……それが、この局面における本当の急所なんです」
神谷は目を丸くし、盤面を食い入るように見つめた。
そして、何度も頷いた。
「……なるほど。評価値の数値に惑わされ、二十手先の玉の呼吸を見落としていたわけですか……。参りました。完敗です。これほど深く将棋の深淵を見つめている方がいたとは……」
神谷は立ち上がり、清麿に向かって深々と一礼した。
「素晴らしい将棋を、ありがとうございました。ぜひ、優勝してください」
「……ありがとうございました」
清麿が頭を下げると、周囲のギャラリーからも、惜しみない拍手が降り注いだ。
対局席を離れ、洗面所で顔を洗って戻ってきた清麿を、和令が腕を組んで待ち構えていた。
「ふん。生意気にも、自分なりの言葉で解説なんてしちゃって。偉そうに語る暇があったら、顔の汗をしっかり拭きなさいよ」
「偉そうになんか語ってないだろ。聞かれたから、お前と研究したことをそのまま答えただけだ」
「まあ、及第点よ。未来のアーカイブをただの呪文じゃなくて、ちゃんと自分の知識として出力できてる証拠ね」
和令はツンと鼻を鳴らしたが、その口元には、清麿の成長を誇らしく思うような微かな笑みが浮かんでいた。
「で、次はいよいよ準決勝よ。相手は誰か確認した?」
「あ……いや、まだトーナメント表を見てないな」
「見てきなさいよ。……あんたにとって、因縁の相手みたいだから」
和令の言葉に促され、清麿は壁に張り出されたトーナメント表の前へと歩み寄った。
準決勝の枠。
清麿の名前の隣に勝ち上がってきた、その対戦相手の氏名を見た瞬間――清麿の心臓が、ドキンと大きく跳ねた。
『真田勇気・アマ五段』
(……真田……!?)
忘れもしない名前だった。
かつて、奨励会で机を並べ、同じ時期に三段リーグを戦い、そして清麿よりも一足先に夢破れて退会していった、かつての同期にして最大の戦友。
人垣の向こうから、懐かしい、だが引き締まった勝負師の足音が近づいてくるのが聞こえた。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




