EP 13
『神童を覚えている男』
区民センターの廊下に敷かれた薄い赤絨毯の上を、軋むような革靴の足音が近づいてきていた。
トーナメント表が張り出された掲示板の前で、加藤清麿は立ち尽くしていた。
準決勝の枠に記された『真田勇気・アマ五段』という墨文字。その文字を見つめているだけで、喉の奥がからからに渇き、胸の奥底にしまい込んでいた苦い記憶が、冷たい水のようにじわりと染み出してくる。
「……本当に、お前なのか。清麿」
背後から掛けられた声は、低く、少ししゃがれていた。
振り返ると、そこに立っていたのは、見覚えのある――だが、かつて少年時代に共有していた幼さの消え失せた、精悍な顔つきの男だった。
仕立てのいい作業着の上に防寒用のジャンパーを羽織り、短く刈り込んだ黒髪に白いものが数本混じっている。右手の指先には、長年駒を握り続けてきた者特有の、硬いタコができていた。
「……真田」
清麿の口から、掠れた声がこぼれた。
真田勇気。
小学生の頃、全国大会の決勝で盤を挟んで以来の戦友だった。同じ年に奨励会に入会し、同じ榊原師匠の門下生たちと鎬を削り、同じ時期にあの過酷な三段リーグへと駆け上がった同期。
真田は清麿より二歳年上で、二十四歳の春、三段リーグの途中で自ら見切りをつけて退会していった。
『俺には、プロの壁を破る才能はなかったよ。……でも清麿、お前は絶対に四段になれ。お前は俺たちの希望なんだからな』
千駄ヶ谷の駅前、安い牛丼屋のカウンターで、缶コーヒーを握りしめながら笑っていた真田の横顔が、昨日のことのように脳裏に甦る。
その期待を背負いながら、自分は二十六歳で年齢制限に弾き出され、無様に逃げ出したのだ。
「……生きてたんだな、お前」
真田は眉を下げ、どこか泣き笑いのような表情で清麿に歩み寄ってきた。
「奨励会を辞めた後、連絡先も消して、アパートも引き払ったって聞いて……ずっと心配してたんだぞ。師匠のところにも顔を出さないし、同期の連中もみんな、お前がどうなっちまったのかって……」
「……すまない」
清麿は視線を落とし、小さく頭を下げた。
「合わせる顔が、なかったんだ。みんなに背中を押してもらったのに、プロにもなれず……全部が嫌になって、自分から全部捨てて逃げ出した」
「馬鹿野郎」
真田の手が、清麿の肩をドンと強く叩いた。
痛みはなかった。ただ、骨の芯まで響くような熱さがあった。
「誰がお前に怒るかよ。三段リーグの地獄を、誰よりも知ってるのは俺たち同期だ。逃げ出したくなる気持ちが分からない奴なんて、奨励会に一人もいねえよ」
真田は口元を綻ばせ、真剣な眼差しで清麿を見つめ返した。
「……さっきの神谷さんとの将棋、後ろから見てたぞ。震えたよ。あんな角捨て、あんな構想、今のプロだって指せねえ。お前……この四年、どこで何を勉強してたんだ?」
「それは……」
清麿が口ごもると、背後からツカツカと遠慮のない足音が響いてきた。
「ちょっと、いつまで昔の男友達と湿っぽいおセンチに浸ってんのよ、雑魚先祖」
腕を組み、冷ややかな視線を向けて割り込んできたのは加藤和令だった。
銀と藍色のスーツ姿は光学迷彩で周囲にはただの付き添いの私服姿に見えているはずだが、その傲慢な佇まいは少しも隠せていない。
「わ、和令……! 空気を読め、今いいところなんだよ!」
「空気なんて吸って吐くだけのものでしょ! だいたい準決勝の開始まであと五分よ。感傷に浸って脳みその血流を無駄遣いする暇があったら、糖分でも補給しなさい!」
和令はポケットから個包装の安いキャラメルを一つ取り出すと、清麿の口元へ力任せに押し込んできた。
「むぐっ……! ごほっ、喉に詰まるだろ!」
「噛んで飲み込め! 脳にブドウ糖を送るのよ!」
ギャーギャーと騒ぐ二人を見て、真田は目を丸くし、それから豪快に吹き出した。
「あっははは! なんだよ清麿、妹さんか? ずいぶん威勢のいいセコンドを連れてるじゃねえか」
「い、妹じゃない! ……まあ、身内みたいなもんだ」
「身内じゃないわよ、あんたを監視しに来た未来の――」
「わーーっ! 喋るな、それ以上は言うな!」
清麿は慌てて和令の口を手で塞いだ。和令は「んぐぐ!」と唸りながら、清麿の脛を容赦なくローキックで蹴りつけてくる。
激痛に顔を歪める清麿を見て、真田は懐かしそうに目を細めた。
「……よかったよ。お前が、ちゃんと人と笑えるようになってて」
真田はジャンパーのジッパーを喉元まで引き上げると、表情を引き締めた。
温和な先輩の顔から、一瞬で獲物を睨む勝負師の顔へと戻る。
「清麿。俺は今、工務店で働きながら、休日はアマチュア大会を荒らし回ってる。今の俺はな、奨励会にいた頃よりも将棋が強えぞ」
「真田……」
「お前がどれだけ化け物じみた研究を隠し持っていようと、俺は全力でお前を叩き潰しに行く。……手加減なんかしたら、承知しねえからな」
「……ああ。望むところだ」
二人の視線が、静かに火花を散らした。
区民センターの大会ホール、中央の特設対局席。
準決勝という大一番を前に、周囲を取り囲むギャラリーの数は、先ほどの準々決勝を遥かに超えていた。
全国大会の元東京代表・神谷六段を完膚なきまでに叩き潰した『謎の元三段・加藤清麿』。
対するは、泥臭い力戦と不屈の粘りでアマチュア界のタイトルを幾度も掻っ攫ってきた『不屈の重戦車・真田勇気』。
奨励会を去った二人の男が、数年の時を経て、再び公の盤上で激突する。将棋を愛する観戦者たちにとって、これほど胸を熱くさせるカードはなかった。
「準決勝、対局を開始してください!」
審判長の声が響く。
振り駒の結果、真田の先手、清麿の後手番と決まった。
真田が、人差し指に力を込めて初手を放つ。
――バシィッ!
▲7六歩。
清麿もすぐに応じる。
――パシッ。
△3四歩。
序盤の二手を終えたところで、真田の口元に不敵な笑みが浮かんだ。
真田が指したのは、現代の定跡体系からは完全に外れた、自陣の銀をふらりと中央へ繰り出す奇怪な力戦調の構えだった。
(……相掛かりにも、角換わりにも組ませない気か)
清麿は心の中で舌を巻いた。
真田は、清麿が神谷戦で見せたような「最新研究の隙を突く鋭利な手順」を徹底的に警戒していたのだ。定跡が存在しない混沌とした力勝負へ引きずり込み、純粋な腕力と読みの深さでねじ伏せる――それこそが、泥水を啜りながらアマチュア界を勝ち上がってきた真田の真骨頂だった。
(……甘いわね、原始人の力戦派が)
人垣の最前列で腕を組む和令の心の声が、テレパシーのように清麿の脳裏に響いた。
清麿は深く息を吐き、頭の中の『完全定跡アーカイブ』の引き出しを開けた。
三百年後の未来において、力戦という概念すらも無秩序ではない。
相手が形を崩して乱戦を挑んできた場合の迎撃法――『パターンD・絶対不敗の受け潰し』の膨大な分岐が、清麿の網膜の裏に青白い光となって展開される。
真田が銀を力強く押し込み、清麿の陣地に圧力をかけてくる。
現代の感覚なら、こちらも強く反発して攻め合いを挑みたくなる局面。
だが、清麿の手は――氷のように冷徹だった。
――パチリ。
自陣の金を、ただ一筋、静かに引き締める。
――パチリ。
相手の歩の突き捨てに対し、取らずに玉をわずかに移動させて当たりを避ける。
「ぐっ……!?」
真田の喉から、詰まったような声が漏れた。
渾身の力で繰り出したはずの右ストレートが、相手の顔面を捉える直前、ふわりと虚空を泳がされるような感覚。
攻めても、攻めても、清麿の陣形に響かない。
清麿の駒たちは、まるで重力を持たないかのように滑らかに連携し、真田の攻め駒の勢いを、音もなく、完璧に吸収し尽くしていく。
「おいおい……真田さんのあの怒濤の攻めが、全部空振りさせられてるぞ……!」
「なんだあの受けは!? 派手な手は何一つ指してないのに、真田さんの攻め駒がどんどん立ち往生していく……!」
観戦者たちの囁きが、対局席の空気を重く震わせる。
三十手を過ぎた。
真田の額から、大粒の汗がボタボタと畳の上に落ちていた。
持ち時間は残りわずか。対する清麿の消費時間は、ほとんどゼロに等しかった。
(強い……。なんだよこれ、本当にあの頃の清麿なのか……!?)
真田の指先が、小刻みに震えていた。
かつての清麿は、切れ味鋭い攻めが自慢の「神童」だった。だが、終盤で追い詰められると脆さを見せ、プレッシャーに潰されて自滅することが多かった。
だが、今目の前にいる男はどうだ。
隙がない。焦りがない。
三百年分の知識に裏打ちされた絶対の防御壁を背に、真田の心をじわじわとすり潰すような、冷酷無比な指し手を淡々と積み重ねてくる。
(……だがな、清麿)
真田の瞳の奥で、カッと赤い炎が燃え上がった。
(俺だってな……奨励会を辞めてから、ただ漫然と生きてきたわけじゃねえんだよ!!)
四十五手目。
真田は、震える手で自らの飛車を掴み、清麿の玉陣のど真ん中へと叩きつけた。
――ドガァンッ!!
会場全体を揺るがすような、凄まじい駒音が鳴り響いた。
「…………っ!?」
清麿の息が止まった。
大駒の自爆特攻。
常識ではあり得ない、将棋のセオリーを完全に踏み躙るような、魂の咆哮のような勝負手だった。
清麿の脳内アーカイブが、激しく点滅した。
(なっ……!? この局面で、飛車の叩き込み……!?)
和令の端末から授かった三百年分のデータ。
その中にある『最善の枝分かれ』の中に、この手は存在しなかった。
なぜなら、未来の解析において、この飛車打ちは「後手陣に傷をつけることもできず、ただ大駒を捨てるだけの明確な大悪手」として、最初の数手で枝刈りされ、破棄されていた手だったからだ。
しかし――。
目の前で盤を睨みつける真田の形相は、鬼気迫るものがあった。
悪手だろうと何だろうと知るものか。泥水を啜り、自分の肉を切らせてでも、相手の骨を一本へし折ってやるという、勝負師の狂気。
盤上の空気が、一瞬で歪んだ。
飛車を取れば、真田の角が清麿の玉の急所を睨みつけてくる。
取らなければ、飛車が暴れ回って自陣が崩壊する。
未来の定跡アーカイブは、ただ「後手圧倒的勝勢」という評価値の数字を冷酷に示すだけで、この泥沼のような局面をどう収束させるべきか、具体的な三十手先の手順を清麿の脳内に教えてはくれなかった。
(読めない……! アーカイブに、この先の具体的な寄せが載っていない……!?)
清麿の背中を、嫌な汗が伝い落ちた。
三段リーグの悪夢が、頭をもたげる。
相手のなりふり構わぬ勝負手に怯え、安全策を選んで自爆していった、あの日の記憶。
(どうする……? 飛車を取るのか? それとも玉を逃げて持久戦にするのか……!?)
清麿の考慮時間のタイマーが、カチカチと音を立てて削られていく。
一分、二分、三分。
会場が息を呑んで見守る中、人垣の後ろから、鋭い視線が清麿の横顔を射抜いていた。
和令だった。
和令は眉を吊り上げ、唇を噛み締めながら、声を出さずに瞳だけで叫んでいた。
『答えを知ってるだけじゃ駄目なのよ! 最後まで、あんた自身の頭で指し切りなさい!!』
あの日、ボロアパートの六畳間で叩き込まれた言葉が、脳内で雷鳴のように鳴り響いた。
(……そうだ)
清麿は目を閉じ、深く、深く息を吸い込んだ。
和令の知識は、自分をこの圧倒的有利な局面まで連れてきてくれた。
だが――ここから先、相手の剥き出しの魂を受け止め、介錯を果たすのは、加藤清麿自身の仕事だ。
逃げるな。
相手は、かつて共に夢を追った最高の戦友だ。
その男が命を削って放ってきた渾身の勝負手を、未来のカンニングペーパーのせいで見失ってどうする。
清麿は目を開けた。
濁りのない、透き通った瞳が、盤上の四十枚の駒を捉える。
脳内の将棋盤が、猛烈な速度で回転を始めた。
十手先、十五手先、二十手先。
真田の執念の攻め筋をすべて読み切り、自玉の安全をミリ単位で見極め、最短で敵玉を討ち取る、たった一本の細い光の糸。
(……見えた)
清麿の右手が、迷いなく伸びた。
飛車を取るのではない。
玉を逃げるのでもない。
自らの角を、真田の玉の退路を断つ絶妙な位置へと、静かに打ち下ろしたのだ。
――パシッ。
「…………っ!!」
真田の目が、カッと見開かれた。
攻め合い。真田の飛車の暴虐を完全に無視し、一歩早く相手の喉元へ刃を届かせる、冷徹にして苛烈な踏み込み。
真田が歯を食いしばり、飛車を成り込んで王手をかける。
だが、清麿の玉は、あらかじめ計算し尽くされたルートを通って、ふわりと上部へ脱出した。
王手が続かない。
そして――清麿の打ち下ろした角が、真田の玉を逃げ場のない即詰みの檻へと閉じ込めていた。
「…………」
静寂が、対局席を包み込んだ。
真田の肩から、すっと力が抜けた。
握りしめていた駒が、指の間からパタリと盤上に落ちる。
「……負け、ました」
掠れた、だがどこまでも清々しい声だった。
六十八手。
渾身の勝負手を放ち、すべてを出し尽くした真田が、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
清麿もまた、深く頭を下げた。
背中にはびっしょりと汗をかいていたが、胸の中には、言葉にできない温かい充実感が満ちていた。
未来の定跡に頼り切るのではない。
最後の一手、勝利を手繰り寄せたのは、紛れもなく自分自身の頭で読み切った決断だった。
パチパチパチと、観戦者たちから惜しみない拍手が沸き起こる。
「いやあ……参った!」
真田は頭を掻きながら、豪快に笑った。
「最後の角打ち、鳥肌が立ったよ。あそこで飛車を取らずに踏み込んでくるなんてな……。完敗だ。ぐうの音も出ねえ」
「真田……お前の飛車打ち、本当に怖かったよ。手が震えそうだった」
「へへっ、元三段をビビらせただけでも、俺のアマチュア生活の勲章だ」
真田は盤上の駒を片付け始めながら、ふと顔を上げ、清麿の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、かつて千駄ヶ谷の道場で机を並べていた頃の、純粋な敬愛と親しみが満ちていた。
「……なあ、清麿」
「ん?」
「お前……また、将棋が好きになったんだな」
――ドキン、と清麿の心臓が跳ねた。
息が詰まる。
四年間、将棋を憎んでいたはずだった。
自分の人生を狂わせ、大切な人を傷つけ、自分を無職の負け犬に叩き落とした、呪いのようなゲーム。
勝たなければ価値がないと思い詰め、負ける恐怖から逃げ出して、部屋の隅で盤に布を被せていた。
だが――。
今日の盤上はどうだったか。
苦しくて、怖くて、それでも一手一手を悩み、真田の執念を受け止め、自らの手で勝利を掴み取ったあの瞬間。
自分は、心の底から盤上の宇宙に魅了されていたのではないか。
「……ああ」
清麿の視界が、不意に滲んだ。
喉の奥から絞り出すように、小さく頷く。
「……好きだよ。俺はやっぱり……将棋が、大好きなんだ」
真田は満足そうに破顔し、立ち上がると、清麿の肩を再び力強く叩いた。
「だったら、絶対に優勝しろよ。俺たち奨励会で散っていった連中の分まで……お前が、上へ行け」
「……ああ。行ってくる」
対局席を離れると、人垣の途切れた壁際で、和令が腕を組んで待っていた。
彼女はツンと顎を上に向けて、いつものようにフンと鼻を鳴らした。
「何よ、男同士で泣きそうな顔しちゃって。見苦しいわね、雑魚先祖」
「泣いてない。……目から汗が出ただけだ」
「はいはい、原始人の強がり乙。……でもまあ、最後の角打ちは、三百年後の視点で見ても九十点はあげていいわよ」
「珍しいな、お前が九十点なんて高得点をくれるなんて」
「調子に乗らないで! 残りの十点は、途中でビビって持ち時間を三分も浪費した減点よ!」
和令はぷいと横を向いたが、その口元には、隠しきれない誇らしげな笑みが浮かんでいた。
「さあ、いよいよ決勝戦よ。全国大会の切符まで、あと一勝。……あんたの人生の詰み筋、完全に粉砕してやりなさい!」
「言われなくても、そのつもりだ」
清麿はネクタイを締め直し、大ホールの最前列、優勝旗の飾られた決勝の舞台へと、迷いなき足取りで歩みを進めた。
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