EP 14
『元奨励会三段、優勝する』
区民センターの大ホールは、暖房の熱気と百人を超える観戦者たちの体温によって、まるで初夏のような熱を帯びていた。
午後四時過ぎ。夕暮れの淡い朱色がステンドグラス風の窓から斜めに差し込み、ホール最前列に設けられた特設対局机を厳かに照らし出している。
机の脇には、豪奢な金色の優勝カップと、毛筆で『全日本アマチュア将棋名人戦・全国大会出場認定証』と記された漆塗りの盆が置かれていた。
加藤清麿は、特設席のパイプ椅子に深く腰を下ろし、冷めきった緑茶の紙コップを口に含んだ。
朝から四局を戦い抜いてきた指先は、微かに熱を持ち、衣服の下のシャツは乾いた汗で肌に張り付いている。
だが、かつて奨励会の三段リーグで味わっていた、胃を締め上げられるような吐き気や、逃げ出したいほどの息苦しさはどこにもなかった。
準決勝で戦った真田勇気の手のひらの温もりと、「また将棋が好きになったんだな」という言葉が、胸の奥底で消えることのない熾火となって燃え続けていた。
「……何ぼんやりしてんのよ、雑魚先祖」
横から、ピシャリと容赦のない声が飛んできた。
和令が壁に背を預け、腕を組んで冷ややかな視線を清麿に突き刺している。
「お茶なんか啜ってないで、首のストレッチでもしなさいよ。決勝の相手は、今日当たった連中の中で一番の難敵よ」
「分かってるよ。……ストレッチくらい、言われなくてもやる」
清麿は苦笑しながら首を左右に鳴らし、肩の力を抜いた。
「でもさ、和令。不思議なんだ。……怖くないんだよ。四年前、あれほど盤の前に座るのが怖くて、負けるのが恐ろしくて逃げ出したっていうのにさ」
「ふん。当たり前でしょ」
和令はツンと顎をそらし、鼻から小さく息を噴き出した。
「あんたの背中には、三百年分の叡智が詰まったアーカイブと、三百年分の借金を背負わされた可哀想な子孫の怨念が乗っかってんのよ。アマチュアの地区予選ごときでビビってる暇なんて、最初からあるわけないじゃない」
「怨念って言うな、縁起でもない。……でも、ありがとうな」
「なっ……! な、何よ急に! 気持ち悪いわね!」
清麿が素直に礼を口にすると、和令は鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くし、それからカッと頬を赤く染めて視線を逸らした。
「か、感謝なんて優勝してから言いなさいよ! 負けたら千代おばあちゃんから貰った二万円、全額利子をつけて回収するんだからね!」
「そいつは困る。……勝つしかないな」
清麿が小さく笑った、その時だった。
「――お待たせしました」
低く、地を這うような重厚な声とともに、対局席の対面に一人の大柄な男が腰を下ろした。
黒のタートルネックの上に濃紺のジャケットを羽織り、短く刈り込んだ無精髭と鋭い眼光が、まるで歴戦の格闘家のような威圧感を放っている。
机の上に置かれた名札には、『倉持猛・アマ六段』と刻まれていた。
城東地区の絶対王者。過去に全国アマチュア名人戦で三位に入賞し、学生時代には学生名人をも獲得した、アマチュア界屈指の超攻撃型棋士である。その重戦車のような破壊力あふれる踏み込みは、プロ棋士すらも恐れさせる『城東の猛虎』として知られていた。
「あなたが、加藤さんですね」
倉持は、分厚い両手を机の上に組み、射抜くような視線で清麿を凝視した。
「一回戦からずっと、あなたの将棋を拝見していました。……信じられない手順でしたよ。現代の将棋理論をあざ笑うような序盤の構想、そして相手の攻めを完全に吸い取る異次元の受け。元奨励会三段だそうですが、四年も姿を隠して、一体どれほどの研究を積み重ねてきたのですか」
「……自分一人の力ではありません。支えてくれた存在があってこそです」
清麿が静かに答えると、倉持は不敵に口元を吊り上げた。
「謙遜は結構。私はね、小細工や理屈を信じないタチでしてね。どれほど精緻な構想であろうと、上から力づくで叩き潰せば盤面は壊れる。……私の攻めが通るか、あなたの不可思議な受けが止めるか。存分に殺し合いをしましょう」
一切の虚飾を排した、剥き出しの闘志。
対局机の周囲を取り囲む何十人ものギャラリーたちが、息を呑んで後ずさりするのが分かった。
審判長が厳かに時計のボタンをリセットし、声を張り上げる。
「決勝戦、時間無制限・一手三十秒未満、考慮時間各十分。……対局を開始してください!」
振り駒の結果、清麿の先手番となった。
清麿は指先に全神経を集中させ、初手を放った。
――バシィッ!
▲7六歩。
倉持は一切の躊躇なく、間髪を入れずに駒を叩きつける。
――ズドンッ!
△3四歩。
耳を劈くような凄まじい駒音が、静まり返ったホールに響き渡る。
序盤の数手、倉持が選んだのは、自身の代名詞である超攻撃的な力戦振り飛車だった。
飛車を豪快に振り、銀を前面に押し出し、玉の守りもそこそこに清麿の陣形へと刃を突きつけてくる。相手の受けの形など知ったことではない、力と速度で最短距離を突き破るという凶暴極まりない布陣。
普通なら、相手の気迫に呑まれて腰が引けてしまうような威圧感。
しかし――清麿の脳内には、和令から授けられた『完全定跡・パターンD』が、青白い光の奔流となって展開されていた。
(……相手の攻め駒を、すべて虚空に空振りさせる)
清麿は呼吸を整え、現代の常識では考えられない位置へと玉を自ら歩ませた。
玉をあえて相手の飛車の射線近くへと進め、同時に自陣の金銀を絶妙な隙間を空けて配置する。
一見すると、どこからでも破綻しそうな薄い布陣。
倉持の目がギラリと光った。
「舐めるなよ……! そんなスカスカの陣形で、私の猛攻を受け止められると思うな!」
倉持の右手が唸りを上げた。
銀を力任せに敵陣へ突っ込ませ、歩を乱暴に叩き込む。
現代のアマチュア界を恐怖に陥れてきた、重戦車の突進。
だが――清麿の応手は、氷のように滑らかだった。
――パシッ。
取らない。相手の銀を素通りさせ、金が一枚、すっと横にスライドする。
――パシッ。
歩の成り捨てに対しても、玉をわずかに一歩だけ下段へ引いて当たりを外す。
「なっ……!?」
倉持の眉間に、深い亀裂のような皺が刻まれた。
手応えがない。
全速力で振り下ろした鉄パイプが、空気を切り裂いて空振りに終わったかのような異様な脱力感。
倉持が渾身の力で前進させた銀は、清麿の玉陣の急所を捉えるどころか、自陣の角の利きを塞ぐだけの「重たい邪魔駒」へと成り下がっていた。
二十手を過ぎ、三十手に達した頃には、盤上の主導権は完全に清麿の手の中にあった。
未来の定跡通りの完璧な展開。
人垣の中から、感嘆とどよめきが漏れ聞こえる。
「すげえ……倉持さんのあの怒濤の攻めが、完全に無力化されてる……」
「加藤さん、ほとんど持ち時間を使ってないぞ。一手一秒で指してるんじゃないか?」
「このまま押し切るぞ……加藤清麿の優勝だ!」
誰もが、清麿の圧倒的な勝利を確信し始めていた。
――しかし。
アマチュア王者・倉持猛の執念は、三百年後のデータすらも予想し得ない深淵から、怪物を呼び覚ました。
「……ぐ、ううぅぅぅ……っ!」
四十手を過ぎた局面。
考慮時間のタイマーが、倉持の残り時間が一分を切ったことを告げる警告音を鳴らした瞬間だった。
倉持の全身から、湯気のような凄まじい殺気が立ち上った。
男は血走った目をカッと見開き、自らの飛車を鷲掴みにした。
そして――。
――ドォォォンッ!!
盤が割れんばかりの轟音とともに、倉持は自慢の大駒を、清麿の玉の頭上、何の後ろ盾もない虚空へと力任せに叩きつけたのだ。
「…………っ!?」
ホールの空気が、凍りついた。
観戦者たちが一斉に息を呑み、前のめりになる。
タダ捨て。
誰の目にも明らかな、錯乱による大暴発に見えた。
しかし――清麿の脳内アーカイブが、狂ったような速度でエラーの警告音を鳴らし始めた。
(なっ……!? この手は……!?)
青白い樹形図が、目の前で激しく明滅し、プツリと途切れた。
存在しない。
和令の携帯端末に収められた『完全定跡』の枝分かれの中に、この局面での飛車のタダ捨てなど、一行たりとも記録されていなかった。
なぜなら、未来の超高度な論理計算において、この飛車打ちは「後手陣に何の戦果ももたらさず、ただ大駒を失うだけの勝率ゼロ%の暴挙」として、最初の数手で完全に破棄されていたからだ。
だが、現実は違った。
飛車を取れば、倉持の眠っていた桂馬と香車が一斉に火を噴き、清麿の玉を包囲する最短の急襲ルートが開通してしまう。
取らなければ、敵の飛車が自陣を蹂躙し、一瞬で玉が圧殺される。
どちらを選んでも、形勢の針が狂ったように激しく揺れ動く、混沌の泥沼。
(読めない……! アーカイブに、この先の答えがない……!!)
清麿の背筋を、嫌な汗が滝のように流れ落ちた。
ピピピ、ピピピと、無慈悲にカウントダウンを刻む対局時計の音。
心臓が早鐘を打ち、視界の端がチカチカと白く点滅し始める。
四年前のトラウマが、黒い濁流となって脳裏に押し寄せてきた。
あと一勝でプロになれた、あの三段リーグ最終戦。
相手のなりふり構わぬ勝負手に怯え、頭の中が真っ白になり、安全策を選んで自爆していった、あの地獄のような無力感。
(嘘だろ……。またなのか? 俺はまた、最後の一番で……プレッシャーに負けて、自滅するのか……!?)
震える指先が、盤上で宙を泳いだ。
持ち時間が削られていく。三分、二分、一分。
会場の息が詰まるような静寂の中、清麿の鼓膜に、あの声が突き刺さった。
『答えを知ってるだけじゃ駄目なのよ!』
『未来に答えがないなら、今ここで作ればいいでしょ!!』
――ハッと、息を呑んだ。
人垣の最前列。
和令が、唇から血が出るほど強く噛み締めながら、真っ直ぐに清麿を睨みつけていた。
その瞳は、怒っていた。
そして、誰よりも清麿を信じて、叫んでいた。
(……そうだ)
清麿は目を閉じ、深く、深く息を吐き出した。
未来の定跡は、自分をこの決勝の舞台まで連れてきてくれた。
だが、盤の前で戦っているのは誰だ。
未来のコンピューターか? それとも、三百年後の誰かか?
違う。
指しているのは、加藤清麿だ。
小学生の頃から六十四マスに魂を捧げ、二十代の青春のすべてを将棋に注ぎ込み、挫折の底から這い上がってきた、生身の将棋指しだ。
(逃げるな。読むんだ……! 俺自身の頭で、俺自身の命を削って……!!)
清麿は目を見開いた。
濁りのない、冷徹な瞳が盤上の四十枚の駒を捉える。
脳内の将棋盤が、凄まじい摩擦熱を上げながら猛烈な回転を始めた。
相手の狙いは何だ。飛車を取らせて、桂馬を跳ねて、玉の退路を断つこと。
ならば――その筋を、根本からへし折る手はどれだ。
十手先、十五手先、二十手先。
倉持の執念の猛攻をミリ単位で見極め、すべての刃を受け止めきったその先に、たった一条の、針の穴を通すような光の糸が見えた。
(……ここだ!)
残り時間、二十秒。
清麿の右手が、疾風のように盤上へと振り下ろされた。
――バチィンッ!!
「なっ……!?」
倉持の息が止まった。
飛車を取るのではない。
玉を逃げるのでもない。
自陣の底深くに、ぽつりと銀を打ち据える、異様なまでに冷徹な「受け」の一手だった。
倉持の飛車の利きを完全に遮断し、同時に倉持の桂馬が跳ねてくるはずだった急所を、あらかじめ鉄壁の厚みで埋め立てる神業のような防壁。
倉持の渾身の勝負手が、巨大な綿の壁に吸い込まれるように、音もなく威力を失っていく。
「う……ぐあああぁぁぁっ……!」
倉持の喉から、血を吐くような呻きが漏れた。
攻めが、切れた。
命を削って放ったはずの渾身の特攻が、最後の一歩で、完全に受け切られていた。
そして――清麿の反撃が始まった。
清麿の指先は、もはや迷わなかった。
相手の玉の頭上へ、流れるような歩の突き捨て。
自陣から飛び出す、電光石火の角の睨み。
手数にして、わずか七手。
寸分の狂いもない、芸術的なまでの即詰み手順が盤上に描かれた。
「…………」
長い、長い沈黙が流れた。
倉持の握りしめていた手が、力なく解けた。
男は天を仰ぎ、深く息を吐き出すと、両手を畳について深々と頭を下げた。
「……参り、ました」
八十四手。
城東地区の絶対王者が、己のすべてをぶつけ、そして完敗を認めた瞬間だった。
「ありがとうございました」
清麿が静かに頭を下げた瞬間――。
ホール全体を揺るがすような、割れんばかりの拍手と大歓声が爆発した。
「うおおおおっ! 勝った! 加藤さんが勝ったぞ!!」
「全勝優勝だ! アマチュア名人の予選を、元奨励会員が全勝で駆け抜けたぞ!」
「なんだあの最後の銀打ちは……! 震えたぞ、鳥肌が止まらねえ!」
何十人もの観戦者たちが対局席を取り囲み、惜しみない賞賛の声を浴びせかけてくる。
真田が人垣の間から満面の笑みで親指を立て、準々決勝で戦った神谷が力強く拍手を送っていた。
大会役員の初老の男性が、興奮で紅潮した顔で賞状と優勝カップを掲げて歩み寄ってくる。
「優勝、加藤清麿殿! 見事な戦いぶりでした! 全国大会への出場権を授与いたします!」
手渡された金色の優勝カップの重みが、手のひらを通してずっしりと伝わってきた。
(……勝ったんだ)
清麿はカップを見つめ、それから自分の両手を見つめた。
かつては、勝つことが当たり前で、負ければ人生が終わるという恐怖しかなかった。
四年間、誰にも必要とされず、社会の片隅で消えようとしていた男が、今、盤の上で正々堂々と戦い、勝利を掴み取ったのだ。
胸の奥底から、熱いものがこみ上げてきた。
嬉しい。
ただただ、勝てたことが、将棋を指せたことが、心の底から嬉しかった。
視界が滲み、目頭が熱くなるのを、清麿は隠そうともしなかった。
歓声と人垣の向こう側。
ホールの出口付近の柱の陰で、和令が一人、腕を組んで立っていた。
彼女はツンと顎を上に向けて、いつものように「ふん、当然よ」と毒舌を吐こうとしていた。
だが――その大きな瞳には、ポロポロと大粒の涙が溢れ、零れ落ちていた。
手の甲で乱暴に涙を拭いながら、和令は誰にも見えないように、くしゃくしゃになった笑顔を清麿に向けていた。
清麿はカップを抱え、和令に向かって小さく、誇らしげに頷いてみせた。
人生の詰み筋は、確かにぶち壊されたのだ。
そして、この先にある全国の舞台、さらにその先に待つプロ公式戦への扉が、今、力強く開かれようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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