EP 15
『次の相手は、現役プロ棋士』
築四十年の木造アパートの六畳間に、やわらかな春告げの陽光が差し込んでいた。
擦り切れた畳の上には、ピカピカに磨き上げられた金色の優勝カップと、毛筆の墨文字が誇らしげに躍る『全国大会出場認定証』が、昨夜置かれたままの姿で朝日を照り返している。
加藤清麿は、薄い敷布団の上でゆっくりと上体を起こした。
全身の筋肉が軋むように重い。昨日の地区予選、五局に及んだ極限の頭脳戦の疲労が、心地よい怠惰となって手足の先まで沈殿していた。
だが、頭の中は驚くほど冴え渡っていた。
四年間、毎朝目を覚ますたびに清麿の胸を押し潰していた、あの鉛のような吐き気や、死にたくなるほどの自己嫌悪はどこにもなかった。
夢を見なかった。
あの三段リーグ最終戦で自爆した悪夢も、面接官に嘲笑された屈辱の記憶も、昨夜は一度として現れなかった。
清麿は布団の上に正座し、じっと自分の手のひらを見つめた。
指先には、まだ昨日盤上に叩きつけた黄楊の駒の、硬く熱い感触が残っている。
(……勝ったんだ。本当に、俺が……)
枕元に置いたスマートフォンを手に取ると、画面には妹の千代からのメッセージが表示されていた。昨夜の遅い時間、夜勤の休憩中に送られてきたものらしかった。
『お兄ちゃん! 真田さんから聞いたよ! 優勝したんだってね! 信じられない、本当におめでとう! 今度のお休みに、お祝いのケーキ買って持っていくからね!』
画面の文字が滲んで見えた。
かつて、自分の絶望に巻き込んで人生を狂わせるところだった、たった一人の妹。その千代が、心から喜び、笑ってくれている。
それだけで、昨日流した汗も、押し殺してきた涙も、すべて報われたような気がした。
「……朝っぱらからスマホ握りしめてウルウルしてんじゃないわよ、雑魚先祖」
台所の方から、冷ややかな、だがどこか機嫌の良さそうな声が飛んできた。
銀と藍色のライダースーツの裾をまくり上げ、和令がやかんを火にかけていた。
「起きたならさっさと布団を畳みなさい! 六畳しかないんだから、あんたが横たわってるだけで部屋の可動域が半分死ぬのよ!」
「起きて一秒で小言かよ……。少しは『昨日はよく頑張りましたね』とか労いの言葉はないのか」
「あるわけないでしょ! アマチュアの地区予選ごとき、三百年後の完全定跡を授けられたあんたにとっては勝って当たり前の前哨戦よ!」
「勝って当たり前って言うな! 決勝の倉持さんの勝負手、お前の端末のデータに載ってなかったんだぞ!?」
「あ、あれは……! 原始人の不条理な大暴発がたまたま確率の壁をすり抜けただけよ!」
「図星だからって声を荒らげるな。最後は俺の頭で読み切ったんだからな」
「ふん! 調子に乗らないで! ほら、朝ごはんのお湯が沸いたわよ! 今日の味噌汁の具は何なの!?」
「昨日買い出ししたもやしと、豆腐の残りだ。……お前、なんだかんだで俺の飯、毎日完食してるよな」
「エネルギー補給よ! 炭素系生命体の粗末な給餌に文句を言わずに付き合ってあげてるの!」
「粗末って言うな! 愛情込めて作ってるんだよ!」
「誰がアラサー無職の愛情なんか胃袋に入れたいわけ!? 鳥肌が立つわ!」
朝の六畳間に、けたたましい掛け合いが響き渡る。
清麿は苦笑しながら布団を畳み、押し入れに放り込んだ。口は相変わらず減らないが、やかんを火から下ろす和令の足取りは、いつになく軽やかだった。
ちゃぶ台の上に、湯気を立てるもやしと豆腐の味噌汁、そして少し焦げ目のついた目玉焼きが並んだ。
和令は行儀よく正座して手を合わせ、「いただきます」と小さく呟いて箸を動かした。
「……で、清麿。悠長に朝ごはんを噛み締めてる場合じゃないわよ」
和令はお椀を置くと、ポケットから清麿のスマートフォンを取り出し、画面をタップしてちゃぶ台の中央に滑らせて寄越した。
「これを見なさい。ネットの世界が、あんたのせいで蜂の巣をつついたような大騒ぎになってるわ」
「……え?」
清麿が覗き込んだ画面には、大手将棋ニュースサイトや、将棋専門のまとめブログのトップページがずらりと並んでいた。
赤太字の強烈な見出しが、目に飛び込んでくる。
『【速報】アマ名人戦・城東地区予選、元奨励会三段の加藤清麿(30)が全勝優勝!』
『四年の空白を経て突如現れた怪童! 元東京代表・神谷六段、城東の猛虎・倉持六段を連続撃破の衝撃』
『序盤で自ら玉を戦場へ? 大駒を躊躇なくタダ捨て? 加藤清麿が放った「謎の新定跡」にネット騒然!』
記事のコメント欄やSNSのタイムラインは、恐ろしい速度で更新され続けていた。
『うおおおお! 加藤清麿って、あの昔の小学生名人か!?』
『三段リーグで年齢制限で退会したって聞いてたけど、生きてたのか……!』
『神谷戦の棋譜見たけど、二十手目の角捨て、マジで意味不明すぎて鳥肌立った』
『将棋ソフトにかけたら最初は評価値マイナスなのに、二十手進むと突然必勝形になるんだが……なんだこの読み筋』
『倉持さん相手に一手一秒で指してたらしいぞ。どんな脳内メモリ積んでんだよ』
『ネット将棋で話題になってた「K-Zero」の正体、こいつなんじゃないか……?』
「なっ……なんだこれ……!?」
清麿は思わず目を剥いた。
自分の名前が、四年前の退会以来、誰の口からも上ることのなかった『元奨励会三段・加藤清麿』という名が、将棋ファンの間で熱狂とともに語られている。
「ふん。当然の反応ね」
和令は澄ました顔で目玉焼きを突いた。
「三百年後の完全定跡を現代の盤上に持ち込んだんだもの。現代の将棋理論からすれば、突然空から未確認飛行物体が墜落してきたようなものよ。……でもね、清麿。ネットで有名人になって喜んでる場合じゃないわよ」
和令の表情が、スッと引き締まった。
彼女は箸を揃えて置くと、人差し指を立てて清麿の鼻先を突いた。
「地区予選の優勝で手に入ったのは、あくまで『全国アマチュア選抜大会』の出場切符よ。そこを勝ち抜いて、上位入賞を果たして初めて――あんたの本当の目的地への扉が開くの」
「本当の目的地……」
「そうよ。プロ公式戦『光星杯』への、アマチュア特別出場枠!」
和令の口から出た棋戦名に、清麿の心臓がドクンと跳ねた。
光星杯。
全プロ棋士と、限られたトップアマチュアのみが参加を許される、伝統ある大型トーナメント棋戦。
「プロ公式戦で、現役のプロ棋士を相手に通算十勝以上、かつ勝率六割五分以上を叩き出す。それが、三十歳を過ぎたあんたがプロ棋士編入試験の受験資格をもぎ取るための、唯一絶対の条件よ」
和令の言葉が、朝の静かな部屋に重く響き渡る。
「アマチュアの大会でどれだけ無双しようが、プロ公式戦で負ければ何の意味もない。加藤家の未来の借金地獄を消し去るための本番は、プロの首を刈り取ることなのよ」
「……ああ。分かってる」
清麿は力強く頷いた。
かつて二十六歳で閉ざされたはずのプロへの道。それが今、手の届く場所にある。
胸の奥で、勝負師の血が静かに、だが熱く滾り始めていた。
*
同刻。
東京都渋谷区、千駄ヶ谷の将棋会館・特別研究室。
遮光カーテンが引かれた薄暗い部屋の中で、大型モニターの青白い光が、一人の男の彫りの深い横顔を照らし出していた。
桐生彰吾五段、三十四歳。
現代将棋界において「理論派の旗手」と称され、徹底したAI研究と自身の公式チャンネルでの明快な解説で絶大な人気を誇る若手実力派プロ棋士である。
桐生の指先が、マウスのホイールを静かに回していた。
モニターに映し出されていたのは、昨日行われたアマ名人戦・城東地区予選の全対局の棋譜だった。
画面の脇には、桐生が自ら何台もの高性能サーバーを連結させて構築した、現代最高峰の将棋解析AIがリアルタイムで評価値のグラフを描き出している。
「……あり得ないな」
桐生の口から、乾いた呟きが漏れた。
画面上の対局は、準々決勝の神谷克己アマ六段との一局。
先手の神谷が、現代の相掛かりにおける最高峰の最新研究形である「銀引き」を指した二十一手目の局面だった。
桐生自身、先月の順位戦でこの局面を採用し、後手のプロ棋士を完璧に作戦勝ちに追い込んだばかりの自信の布陣だ。現代のいかなる定跡書を見ても、いかなるトッププロの研究会でも、この局面は「先手優勢」で一致している。
――しかし。
画面の中の黒い駒が、二十二手目、ふらりと敵の飛車の目の前へと動いた。
角のタダ捨て。
「…………」
桐生の眉間に、深い皺が寄った。
マウスをクリックし、その手を最新AIに読み込ませる。
解析エンジンのファンが、キィィィンと甲高い音を立てて回転数を上げた。
画面上の評価値ゲージ。
角を捨てた瞬間、AIは即座に【先手+800点(先手有利)】の判定を下す。当然だ。大駒を理由もなく差し出すなど、現代の計算力では明らかな大悪手としか認識されない。
だが――桐生が、加藤清麿が指した通りの手順を、一手、一手と進めていくと。
三十手目。
先手+400点。
四十手目。
互角(0点)。
そして、五十手を超えた瞬間――。
ピピッ、と警告音が鳴り響き、評価値のグラフが突如として垂直落下した。
【後手+2500点(後手勝勢)】。
「……っ!?」
桐生の背筋に、氷水を浴びせられたような悪寒が走った。
「評価値が……反転した……? そんな馬鹿な……!」
神谷の指した手に、目立った悪手など一つもなかった。現代のプロ公式戦でも通用する、非の打ち所のない自然な応手の連続だった。
それなのに、加藤清麿の角捨てから始まった一連の手順は、まるで二十手先、三十手先に訪れる先手玉の「わずかな呼吸の詰まり」を最初から知っていたかのように、寸分の狂いもなく相手の退路を封鎖していたのだ。
「なんだ、この構想は……」
桐生は両手で頭を抱え、モニターに顔を近づけた。
「神谷戦だけじゃない。倉持戦の受け、松本戦の端歩……。一手ごとの意味が、現代の将棋理論の範疇を完全に逸脱している。……今の研究会のどの議論からも、こんな手は絶対に出てこない」
桐生の脳裏に、不穏な疑惑が鎌首をもたげた。
(不正か……? 未知の次世代型AIを用いたカンニングか……?)
だが、桐生はすぐにその考えを首を振って打ち消した。
地区予選の会場は厳格な管理下にあり、通信機器の持ち込みは禁止されていた。何より、決勝の倉持戦で見せたあの終盤の銀打ち――あれは、持ち時間が切迫した極限のプレッシャーの中で、生身の人間が己の肉を削って放った「本物の勝負手」の匂いがしていた。
「加藤清麿……三十歳。元奨励会三段」
桐生はスマートフォンの画面に映る、スーツ姿でトロフィーを抱えた清麿の写真をじっと見つめた。
四年前、挫折して盤を去ったはずの男。
その男が、どこで、何を糧にして、これほどの深遠な怪物を育て上げてきたというのか。
「……面白い」
桐生の唇が、獰猛な笑みの形に歪んだ。
全身の血が騒いでいた。理論派として、現代の最先端を自負するプロ棋士として、この未知の怪物を解剖せずにはいられなかった。
「勝ち上がってこい、加藤清麿。全国大会を抜けて、光星杯の盤上まで。……君が隠し持っているその『未来』の正体、プロの意地にかけて、私がすべて暴いてみせる」
*
ボロアパートの六畳間では、朝食を終えた清麿が、本榧の将棋盤の前に座り直していた。
居間の中央に置かれた盤面は、朝の光を浴びて静謐な黄金色に輝いている。
対面に座った和令が、膝の上の透明な薄型端末をカチリと鳴らした。
「……さて、雑魚先祖」
和令の瞳には、いつもの挑戦的な、そしてどこか誇らしげな光が宿っていた。
「地区予選の優勝、おめでとう。……でもね、言った通り、ここからが本当の地獄の始まりよ」
「ああ。分かってるよ」
清麿は駒箱に手を伸ばし、蓋を開けた。
黄楊の駒が擦れ合う、澄んだ乾いた音が室内に響く。
「全国の猛者たち、そしてプロ棋士たち。……今の俺の知識と読みが、どこまで通用するのか、試してやりたくてたまらないんだ」
「ふん、大きく出たわね。全国大会で一回戦負けしたら、ベランダから逆さ吊りにしてやるんだから!」
「物騒なこと言うな! 勝つよ、全部な!」
二人の笑い声が、すきま風の吹く小さな部屋に明るく溶けていった。
人生を諦めかけた元神童と、三百年後からやってきた傲慢な子孫。
絶望の詰み筋をぶち壊した男の、将棋界の頂点を揺るがす新たなる戦いが、今まさに始まろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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