第ニ章『プロ棋士? 300年後では通用しません』
『全国大会、雑魚先祖の本気』
三月の上旬。東京・千駄ヶ谷の空気には、冬の終わりの冷たさの中に、わずかに湿り気を帯びた春の匂いが混じり始めていた。
駅から伸びる通りを抜け、鳩森八幡宮の緑を横目に歩いた先。銀杏並木の奥にそびえ立つ近代的なコンベンションホールのエントランス前には、朝早くから独特の張り詰めた空気が漂っていた。
『全日本アマチュア将棋選抜選手権・全国大会』
立て看板の太い筆文字を見上げながら、加藤清麿は無意識のうちにネクタイの結び目を指先でまさぐっていた。
着慣れないリクルートスーツの肩口には、先週の地区予選を戦い抜いた痕跡のように、微かに皺が残っている。
周囲を行き交う男たちの顔ぶれは、先日の城東地区予選とは明らかに空気の重みが違っていた。全国四十七都道府県の予選を勝ち抜いてきた代表選手、過去の学生名人、元アマ竜王。どの顔にも、地方の将棋界を背負ってきた自負と、剥き出しの闘争心が刻まれている。すれ違うだけで、皮膚を薄く切りつけられるような濃密な勝負師の殺気が、清麿の肌を粟立たせた。
(……全国大会。本当に、俺がこの場所に立っているのか)
胸の奥で、心臓がトクトクと硬いリズムを刻んでいる。
奨励会を去ってからの四年間、千駄ヶ谷という街そのものが清麿にとって呪われた地だった。夢に敗れ、自暴自棄になってすべてを投げ出し、逃げ去った街。
その聖地のすぐ隣で、もう一度、公の盤面に向かい合おうとしているのだ。
胃の奥がキュッと縮み上がるような緊張感が、じわりと足元から這い上がってきた。
「……ちょっと。いつまで看板の前で彫刻の真似事をしてんのよ、雑魚先祖」
真横から、鋭く尖った声が鼓膜を突いた。
銀と藍色のライダースーツの襟を整え、腕を組んでジト目を向けているのは、未来からやってきた清麿の子孫――加藤和令だった。
端末の光学迷彩機能によって、周囲の人間には「少し勝気そうな顔立ちの、私服の若い女性」にしか見えていないはずだが、その傲慢な立ち姿と容赦のない毒気は、いかなる迷彩でも隠しようがない。
「ちょうこく……って、誰が彫刻だ。呼吸を整えてるんだよ」
「嘘おっしゃい。膝が生まれたての子鹿みたいにプルプル震えてるじゃないの。まさか、全国の看板を見ただけでお漏らししそうになってるわけ?」
「震えてない! お漏らしなんて小学生でもしないわ!」
「声が裏返ってる時点で説得力ゼロよ。まったく、地区予選を全勝で抜けた男のツラとは思えない情けなさね」
「全勝したからこそプレッシャーなんだよ! ネットでも散々騒がれてるし、今日の対戦相手は全員、各地方のトップを張り倒してきた化け物揃いだぞ!?」
「化け物? どのツラ下げて言ってんのよ」
和令は心底呆れ果てたように鼻から大きく息を噴き出した。
「三百年後の視点から見れば、ここにいる連中なんて全員ただの古代の化石よ。あんたの頭の中には、その化石たちが束になっても逆立ちしても届かない、完全定跡アーカイブが入ってんでしょ!」
「化石って言うな! 生身の人間相手に指すのは、知識の暗記だけじゃねえんだよ。相手の息遣いとか、盤を睨みつける殺気とか、そういうのが――」
「はいはい、原始人のポエムは聞き飽きたわ」
和令はずいっと顔を近づけ、清麿の額にペシッと指先でデコピンを食らわせた。
「痛っ……! 何すんだよ!」
「気合いを注入してあげたのよ。いい? よく聞きなさい、清麿。あんたが今日目指すのは、ただの記念参加の勝利じゃないの。『上位入賞』……プロ公式戦『光星杯』への特別参加枠をもぎ取ることよ!」
「……分かってるよ」
「分かってないわ! ここでモタモタ負けたら、プロへの道どころか、千代おばあちゃんの未来も、三百年後の私の生活も全部パーなの! 全国大会の連中なんて、サクサク踏み台にして進みなさい!」
「サクサクって、お前なあ……」
清麿は額を押さえながら苦笑した。だが、和令の遠慮のない毒舌のおかげで、足元に絡みついていた嫌な冷たさが、いつの間にか吹き飛んでいた。
午前十時。
コンベンションホールの大会場は、熱気でむせ返るようだった。
全国から集結した六十四名の精鋭たちが、ズラリと並んだ木製長机の前に着席している。
壁際には大盤解説用のスクリーンが設置され、報道関係者やアマチュア将棋連盟の重鎮たちが、熱のこもった視線を注いでいた。
「一回戦、対局を開始してください!」
審判長の太い号令とともに、乾いた駒音が津波のように一斉に会場を揺らした。
清麿の対面に座っていたのは、関西地区の代表として名高い、三十代後半の男だった。
胸元に刻まれた名札には『岩城鉄平・アマ六段』。
元奨励会三段で、かつて清麿と入れ違いで退会した経歴を持ち、現在は関西アマチュア界の重鎮として恐れられている実力者だった。
「加藤さん、ですね」
岩城は濁りのない、冷徹な視線で清麿の目元を射抜いた。
「城東地区予選の棋譜、見させてもらいましたよ。……奇妙奇天烈な序盤、そして相手の攻めを全部空振りさせる不可思議な受け。ネットじゃ『未知の新定跡』だの『次世代AIの落とし子』だの騒がれてますがね……あんなペテンが、全国の舞台で通用すると思ったら大間違いですよ」
岩城の言葉には、長年泥水を啜りながらアマチュア将棋を突き詰めてきた者特有の、誇りと敵意が滲んでいた。
「胸を借りるつもりで、ぶつからせてもらいます」
清麿は静かに頭を下げ、駒を並べた。
振り駒の結果、岩城の先手、清麿の後手番と決まった。
岩城が放った初手は、力強い▲7六歩。
清麿もすぐに応じる。△3四歩。
序盤の数手、岩城は現代将棋で最も警戒されている、緻密極まりない居飛車穴熊の持久戦を目指して駒を進めてきた。
相手が奇怪な急戦を仕掛けてこようと、自陣を金銀四枚で鉄壁に囲い込み、絶対に負けない形を作ってからロングゲームで叩き潰す。清麿の『奇襲』を徹底的に警戒し、盤面を膠着させるための盤石の戦略だった。
周囲で観戦していた他地区の代表たちが、頷き合う。
「さすが岩城さんだ。加藤の変則的な手順に付き合わず、自分の土俵に引きずり込んでいる」
「あの穴熊を組まれたら、どんな奇手も通用しないぞ」
観戦者たちの囁きが耳に届く。
だが――清麿の瞳は、静かに澄み渡っていた。
(……持久戦で受けて立つ気か)
清麿の脳裏に、和令から叩き込まれた『完全定跡・パターンA――常識破壊の序盤』の青白い樹形図が、鮮烈に浮かび上がった。
『相手が穴熊で引きこもろうとしたらね、絶対に囲いを完成させてあげちゃダメなのよ』
昨夜、アパートの六畳間で和令が言い放った言葉が蘇る。
『現代の感覚じゃ、囲いの完成を邪魔するのは無理攻めに見えるわ。でもね、未来の結論は違っているの。相手が玉を潜らせようとした、その最初の一手――そこが、致命的な隙なのよ』
十二手目。
岩城が、玉を深く囲うために一段下へと引いた、まさにその瞬間だった。
清麿の右手が、疾風のように動いた。
――バチィン!
清麿が放ったのは、自陣の飛車先ではなく、反対側の端歩をノータイムで鋭く突き捨てる一手だった。
「……あん?」
岩城の眉が、ピクリと跳ね上がった。
盤面を二度見し、清麿の表情を窺う。
(端歩の突き捨て……? 穴熊を組んでいる最中に、こんな小手先の嫌がらせが利くわけがない)
岩城は鼻を鳴らし、当然のように同歩と応じた。タダで歩をくれるなら貰うだけだ。
――しかし。
清麿の指先は、止まらなかった。
歩を取らせたコンマ五秒後、清麿は手元の桂馬を、敵陣の虚空へとふわりと跳ね上げたのだ。
――パシッ。
「なっ……!?」
岩城の息が止まった。
桂馬のタダ捨て。
現代の穴熊対策のいかなる定跡書にも、いかなる最新AIの候補手にも、こんな序盤での桂跳ねなど存在しない。歩で取れば、桂馬丸得で先手優勢になるはずだ。
だが――岩城の指が、歩の上でピタリと凍りついた。
(待て……。桂馬を取ると、どうなる……?)
岩城の卓越した読みが、猛烈な速度で先の手順を追っていく。
桂を取る。すると、清麿の角が自陣を睨みつけてくる。
それを防ぐために銀を上がると、先ほど清麿が突き捨てた「端」の空間から、清麿の香車が恐ろしいスピードで突撃してくるのだ。
(……え? 自陣の金と銀が、玉の退路を塞いでいる……!?)
岩城の額から、ツツーと一筋の冷や汗が流れ落ちた。
穴熊に組むために、自ら密集させた金銀。
それが、清麿の常識外れの端攻めと桂跳ねによって、玉を守る盾ではなく、玉を圧殺する「自陣の壁」へと変貌していたのだ。
完璧に見えた穴熊が、完成する前に、中から爆破される。
「馬鹿な……! こんな筋、成立するはずがない……!」
岩城の手が震えた。
桂を取れば、十手先で玉陣が崩壊する。
桂を取らなければ、清麿の桂馬が自陣の急所へ突き刺さる。
岩城は必死に考慮時間を使った。五分、十分。持ち時間の砂がサラサラと音を立てて消えていく。
対する清麿は、呼吸を乱すことすらなく、静かに盤面を見つめ続けていた。
三十分後。
会場の片隅に、重苦しい静寂が落ちていた。
岩城の自慢だったはずの穴熊は見る影もなくバラバラに解体され、清麿の駒たちが、寸分の狂いもない連携で敵玉を包囲していた。
清麿が指したのは、三百年後の完全定跡だけではない。
相手が苦し紛れに放ってきた渾身の勝負手に対しても、清麿は自分の頭で読みを深め、最も安全かつ最短の手順で相手の首筋に刃を添え続けた。
四十二手目。
清麿が、相手玉の頭上に静かに銀を打ち下ろした。
――パチリ。
乾いた駒音が響く。
どこにも、逃げ道はなかった。
「…………」
岩城は両手を膝に置いたまま、動かなくなった。
やがて、深く、重い溜息を吐き出すと、深々と頭を下げた。
「……参り、ました」
四十二手。
関西の雄として名を馳せたアマ強豪が、何一つ己の将棋を指せないまま、完膚なきまでに叩き潰された瞬間だった。
「ありがとうございました」
清麿が静かに礼を返すと、周囲を取り囲んでいた観戦者たちから、どよめきが沸き起こった。
「おい、岩城さんが……四十二手で投了したぞ……」
「穴熊に組ませてもらえなかった……なんだあの桂跳ねは!?」
「加藤清麿……地区予選の噂は本当だったのか……!」
驚愕と畏怖の視線が、一斉に清麿へと突き刺さる。
清麿は小さく息を吐き、立ち上がった。
一筋縄ではいかないはずの全国大会。だが、その初戦を、完璧な形で突破したのだ。
ホールの後方、自動販売機の前で缶コーヒーを買っていた清麿の背中に、ツカツカと小気味よい足音が近づいてきた。
「ふん。まあ、及第点ね」
和令が腕を組み、炭酸飲料の缶を指先で弄びながら立っていた。
「全国の強豪だかなんだか知らないけど、未来の定跡を前にすれば赤子同然よ。あんたも余計な雑音に惑わされずに、ちゃんと手順通りに指せたじゃない」
「手順通りだけじゃないぞ。相手が捻ってきた終盤は、ちゃんと俺の読みで詰ましたんだ」
「はいはい、分かってますよ。威張らないの」
和令はツンと唇を尖らせたが、その瞳の奥には、隠しきれない満足げな色が灯っていた。
「でもね、清麿。勝負はここからよ。二回戦、三回戦と勝ち進んで、ベストフォーに入らなきゃ、プロ公式戦への切符は手に入らないんだからね」
「ああ。分かってる」
清麿は缶コーヒーのプルタブを引き、温かい苦みを喉に流し込んだ。
身体の芯から、熱い闘志が湧き上がってくる。
勝てる。
三百年後の知識と、自らの将棋指しとしての魂が噛み合った今、自分は誰相手にだって戦える。
「行くぞ、和令。全部勝って、プロへの扉をこじ開けてやる」
「言ってくれるじゃない、雑魚先祖」
二人の視線が、静かに交錯した。
全国の頂点へ、そしてその先に待つ現役プロ棋士たちとの戦いへ向けて――加藤清麿の快進撃が、いま確実に幕を開けていた。
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