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『未来の将棋は暗記ゲーでした~30歳でプロを諦めた元奨励会三段、300年後の子孫に「必勝定跡」を叩き込まれて無双する~』   作者: 月神世一


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EP 2

『プロ公式戦への切符』

 千駄ヶ谷のコンベンションホールに立ち込める熱気は、昼を過ぎても冷めるどころか、対局が進むにつれて密度を増していた。

 一回戦で関西の雄・岩城六段の堅陣穴熊を、常識外れの端攻めと桂跳ねによって四十二手で解体した加藤清麿の快進撃は、偶然やフロックなどでは決してなかった。

 続く二回戦、東北代表の居飛車党を相手に、清麿は『絶対不敗の受け潰し』を発動させた。相手の放つ鋭い仕掛けを金銀の連携でことごとく空振りさせ、焦れた相手がバランスを崩した瞬間に、最短の手順で急所を刺し貫いて五十一手で粉砕。

 さらに三回戦――ベストフォー進出を懸けた準々決勝。

 相手は元学生名人にして、社会人最強の一角と謳われる九州代表のアマ六段だった。相手は清麿の変則的な序盤を徹底的に警戒し、最新のAI定跡に沿った緻密な持久戦を挑んできたが、清麿の脳内にインプットされた三百年後の完全定跡は、その現代の最高峰すらも「すでに結論の出た過去の遺物」として冷徹に切り捨てた。相手が最も堅いと信じて玉を引き締めたまさにその瞬間、清麿の放った意表を突く飛車の成り捨てが炸裂し、相手の陣形を内側から崩壊させたのだ。

 六十六手。相手が青ざめた顔で頭を下げた瞬間、ホールの周囲を取り囲んでいた観戦者たちから、どよめき混じりの感嘆が漏れ響いた。

 三戦全勝。全対局を合わせても、清麿が消費した考慮時間はわずか二十分足らず。

 四年のブランクを抱えた三十歳の無職が、全国の各地区を制覇してきた猛者たちを赤子のように薙ぎ倒し、堂々のベストフォー――準決勝進出を決めた瞬間だった。

「――全日本アマチュア将棋選抜選手権、準々決勝の全対局が終了しました」

 場内アナウンスの落ち着いた声が、ホール全体に響き渡る。

「ベストフォーに進出された四名の選手は、大会本部前までお越しください」

 清麿が席を立ち、大会本部の長机へと向かうと、日本将棋連盟の腕章を巻いた役員の男性が、畏敬と興奮の入り混じった眼差しで清麿を迎えた。

「加藤清麿さん、見事な勝ち上がりでした。……規定に基づき、今大会のベストフォー進出者であるあなたに、こちらの資格を授与いたします」

 恭しく両手で差し出されたのは、金色の菊花紋が押された重厚な漆塗りの証書フォルダーだった。

 開かれた中身を、清麿は息を詰めて見つめた。

『プロ公式戦・第四十八期光星杯 アマチュア特別参加推薦証』

 その文字を目にした瞬間、清麿の指先がピクリと跳ねた。

 光星杯。

 若手からベテラン、そしてタイトルホルダーまでが鎬を削る、伝統ある本格棋戦。全国のアマチュア大会で極めて限られた上位入賞者のみに与えられる、現役プロ棋士ひしめく公式トーナメントへの片道切符だった。

「……これ、を」

「ええ。加藤さん、あなたはこれで、日本将棋連盟の公式棋戦への出場資格を得ました。初戦の相手は、プロ棋士の四段となります。健闘を期待していますよ」

 役員から力強く握手を求められ、清麿は震える手でそれを握り返した。

 四年前、二十六歳の春に強制退会となり、永遠に閉ざされたはずだった「プロの世界」。

 その扉の前に、三十歳になった今、自分の足で再び辿り着いたのだ。

 胸の奥底から熱い塊がせり上がり、喉の奥をぎゅっと締め付けた。

「……ちょっと、いつまでその紙切れを拝んでんのよ、雑魚先祖」

 ホールを出たエントランスホールの片隅。自動販売機の陰から、ピシャリと容赦のない声が飛んできた。

 腕を組み、長い黒髪を揺らしながらジト目で清麿を睨みつけているのは、加藤和令だった。光学迷彩で周囲にはただの付き添いの少女に見えているが、そのツンと上を向いた顎と尖った口調は、いつもの生意気な未来人そのものだった。

「か、紙切れって言うな! プロ公式戦の推薦証だぞ! 俺がプロ編入試験を受けるための、絶対に必要な一歩なんだ!」

「はいはい、分かってますよ。でもね、まだただの推薦証でしょ。参加費を払って入場券をもらっただけの段階で、何を泣きそうな顔してんのよ」

「泣きそうになんかなってない! ……ただ、実感が湧いてきただけだ」

「実感が湧くのが遅すぎるのよ! 三百年後の加藤家の未来再生計画からすれば、ここはまだスタートラインの白線に爪先を置いた程度よ! 鼻の下を伸ばしてる暇があったら、午後の準決勝に備えなさい!」

「伸ばしてない! お前、さっきから人の顔を見ては伸びてるだの弛んでるだの、言いたい放題だな!」

「事実を指摘してあげてるの! 感謝しなさいよ!」

「誰が感謝するか! 大体お前、一言くらい『よくやった』とか『おめでとう』とか言えないのかよ! 全国のベストフォーだぞ!?」

「言えるわけないでしょ! 三百年分の完全定跡を頭に叩き込んでもらっておいて、アマチュア相手にベストフォー止まりで威張るなんて、未来の将棋アカデミーなら落第点よ!」

「落第点って言うな! 全国大会のレベルを舐めるんじゃない!」

「舐めてないわよ、あんたの緩んだ精神のネジを締め直してあげてんの! ほら、手元の推薦証を早く鞄にしまいなさい! 落としたら承知しないからね!」

「分かってるよ! 言われなくても大事にしまうわ!」

 ギャーギャーと繰り広げられる二人の口喧嘩に、ロビーを通りかかる大会関係者たちが怪訝そうに視線を向けていく。清麿は慌てて咳払いをし、推薦証をビジネスバッグの最も深いポケットへと丁寧に収めた。

 和令はふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いたが、その横顔の口元が、わずかに誇らしげに緩んでいたのを清麿は見逃さなかった。

 その時だった。

「――加藤清麿さん、ですね」

 凛とした、澄んだ女性の声が背後から掛けられた。

 清麿が振り返ると、そこには手帳とペンを手に持った一人の女性が立っていた。

 年齢は三十代前半ほどだろうか。仕立ての良いチャコールグレーのパンツスーツを着こなし、肩口で切りそろえられた黒髪が知的な印象を与えている。細身のフレームの眼鏡の奥にある瞳は、まるで熟練の棋士が盤面を凝視するように、鋭く清麿の全身を捉えていた。

「あ、はい……加藤ですが」

「突然のお声がけをご無礼いたします。私、将棋専門誌『月刊棋界』およびウェブ報道を担当しております記者の神崎澪と申します」

 神崎は胸ポケットから名刺を取り出し、丁寧な所作で差し出してきた。

『将棋報道部 記者 神崎澪』。

 将棋界の第一線で活躍し、忖度のない鋭利な取材記事で知られる気鋭のジャーナリストだった。

「神崎……さん。取材、ですか?」

「ええ。もしよろしければ、準決勝までのわずかな時間で構いません。少しだけお話を伺えませんか」

 神崎の口調は丁寧だったが、その眼差しには、単なるアマチュア大会の勝者を讃える以上の、張り詰めた知的好奇心と疑念が潜んでいた。

 清麿が戸惑って視線を泳がせると、隣にいた和令が腕を組み、顎をクイッと動かした。

(逃げるんじゃないわよ、雑魚先祖。マスコミの取材くらい堂々と受けてきなさい)

 声には出さず、目線だけでそう告げてくる。

 清麿は小さく息を吸い込み、神崎に向き直った。

「……はい。俺に答えられることなら」

「ありがとうございます。あちらのロビーのソファへどうぞ」

 二人はロビーの片隅にある革張りの応接セットへと腰を下ろした。和令は少し離れた柱の陰に立ち、壁に寄りかかってこちらの様子を窺っている。

 神崎は小型のボイスレコーダーをテーブルの上に置き、ペンのノックをカチリと鳴らした。

「まずは、ベストフォー進出、そしてプロ公式戦『光星杯』への出場権獲得、おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「先日の城東地区予選、そして本日の全国大会三局……すべて拝見いたしました」

 神崎は手帳を開き、淡々と、だが澱みのない口調で言葉を紡ぎ出した。

「率直に申し上げて、異常な強さです。神谷六段を破った相掛かりでの二十二手目の角捨て、倉持六段の猛攻を無力化した終盤の底銀、そして本日の岩城六段に対する穴熊崩しの端歩突きと桂跳ね。……どれも現代の定跡書には一切存在せず、最新の将棋AIの第一候補手にも現れない手順ばかりです。にもかかわらず、手が進むごとに相手の玉陣が寸分の狂いもなく崩壊していく。……まるで、何十年も先の未来から盤面を見下ろしているかのような指し手でした」

 ズキリ、と清麿の心臓が跳ねた。

 核心に近すぎる観察眼。冷や汗が背中を伝い落ちそうになる。

「そ、それは……自分なりに、深く研究を重ねた結果でして……」

「研究、ですか」

 神崎は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、鋭い視線を清麿の瞳の奥へと突き刺した。

「加藤さん。私が最も興味を惹かれているのは、その指し手の斬新さだけではありません。……あなたという棋士の『空白』についてです」

「空白……」

「ええ」

 神崎は手帳のページをめくった。そこには、清麿の過去の経歴がびっしりと書き込まれていた。

「加藤清麿。小学生名人を獲得後、榊原雅臣九段門下として奨励会に入会。天才と称され、二十代前半で三段へ昇段。しかし、そこから三段リーグの厚い壁に阻まれ、四年前、二十六歳の春に年齢制限により退会」

 淡々と読み上げられる過去の事実が、古傷に塩を塗り込むように清麿の胸を抉る。

「そして、ここからが本題です。……あなたは奨励会を去った後、丸四年間、将棋界から完全に姿を消していました。日本将棋連盟の指導対局にも、アマチュアの大会にも、名のある将棋道場にすら一度も顔を出していない。一般企業での職歴もなく、空白の四年間を過ごしていた」

 神崎の声が、わずかに低くなった。

「将棋を完全に捨て、社会からも孤立していたはずの三十歳の男が、なぜ突如として現れ、現代の最高峰の研究を遥かに凌駕する異次元の将棋を指せるようになったのですか? この四年間、あなたは一体どこで、何をしていたのですか?」

「…………っ」

 息が止まった。

 喉の奥がカラカラに渇き、声が出ない。

 何をしていたか。

 そんなもの、言えるはずがなかった。

 奨励会を追われて精神を病み、支えてくれた大切な恋人に八つ当たりして突き放し、連絡先を消して逃げ出したこと。

 就職活動で屈辱を味わい、バイトすらクビになり、親に絶縁され、妹の千代が必死に働いて工面してくれた金に甘えて、部屋の隅で膝を抱えていたこと。

 そして――ほんの二週間前には、人生に絶望してベランダから身を投げようとしていたこと。

(俺は……何をしていた……?)

 研究などしていなかった。

 努力などしていなかった。

 ただ惨めに耳を塞ぎ、現実から逃げ回り、大切な人たちを傷つけ続けていただけのクズ人間だったのだ。

 今こうして勝てているのだって、自分の力ではない。三百年後からやってきた和令の端末の知識を、ただ頭に詰め込んだだけのカンニング野郎ではないか。

 胸の奥底に眠っていた劣等感と罪悪感が、黒い泥のように溢れ出し、清麿の思考を急速に麻痺させていく。

「あ、俺は……その……」

 指先が震え、視線が床へと落ちる。

 答えに詰まり、みっともなく唇を震わせる清麿を、神崎は厳しい眼差しで見つめ続けていた。沈黙が、重く冷たくロビーを支配する。

 ――バシィィィッ!!

 突如、凄まじい衝撃が清麿の背中を襲った。

「ぐへっ!?」

 肺の中の空気が強制的に吐き出され、清麿はソファの上で前のめりに飛び上がった。

 痛烈な平手打ち。振り返ると、そこには仁王立ちした和令が、燃えるような怒りの瞳で清麿を睨みつけていた。

「な、何すんだよ和令! 痛いだろ!?」

「何が痛いよ、この情けない雑魚先祖!!」

 和令は神崎の存在など意に介さず、清麿の胸ぐらを掴まんばかりに詰め寄った。

「何をしおらしく黙り込んでんのよ! 過去の四年間に何をしてたかなんて、どうでもいいでしょ! 腐ってた? 逃げてた? 負け犬だった? そんなの百も承知で私はあんたの鳩尾にドロップキックを食らわせたのよ!」

「ちょ、お前、人前で……!」

「黙って聞きなさい! あんたが過去にどれだけ情けないドブ水を啜ってようとね、今、盤の前で冷や汗流しながら駒を握ってんのは誰なのよ! 知識を頭に叩き込んで、プレッシャーに耐えて、自分の指で勝ちをもぎ取ってきたのは誰なのよ!!」

 和令の鋭い声が、清麿の耳の奥を劈いた。

「過去の空白を恥じるんじゃないわよ! プロになりたいんでしょ!? 千代おばあちゃんを助けて、加藤家の破滅を消し去るんでしょ!? だったら――胸を張りなさいよ! これから勝って、過去の汚点なんて全部上書きしてやりなさい!!」

 ――ハッと、息を呑んだ。

 背中の痛みが、熱となって全身の血を巡っていく。

 和令の言う通りだ。

 自分は逃げていた。四年間、すべてを放り出して腐っていた。

 その事実は消えない。どれだけ取り繕おうとしても、消え去ることはない。

 だが――だからこそ、今の自分があるのではないか。

 妹の優しさに救われ、未来の子孫に背中を蹴り飛ばされ、もう一度将棋の深淵に向き合うチャンスをもらったのだ。

 過去を美化する必要はない。

 ただ、今の自分がどう生きるかを、真っ直ぐに語ればいい。

 清麿は深く息を吐き出し、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳から、迷いと怯えが消え去っていた。三十歳の無職の顔ではない。盤上で相手の命を刈り取る、真の勝負師の光が宿っていた。

 清麿は神崎の目を、真正面から見据え返した。

「……神崎さん」

「はい」

「あなたの仰る通りです。俺は奨励会を辞めた後、四年間、将棋からも社会からも逃げ出していました。努力なんてしていません。ただ自暴自棄になって、大切な人たちを裏切り、惨めに引きこもっていただけの負け犬です」

 一切の誤魔化しのない、痛切な告白。神崎がわずかに目を見張る。

「でも……俺をもう一度、盤の前に引きずり戻してくれた存在がいました。生きろと、勝てと、背中を叩いてくれた家族がいました。……今の俺の将棋がなぜ強いのか、なぜこんな手を指せるのか、言葉で説明しても信じてもらえないでしょう」

 清麿は拳を強く握りしめた。

「だから、盤の上で証明します。俺が逃げてきた四年間も、これから手に入れる勝利も、すべて盤上の結果で示してみせます。……プロ公式戦でも、現役のプロを倒して、必ず上に登り詰めます」

 静かな、だが鋼のように揺るぎない覚悟。

 神崎はしばらくの間、清麿の瞳をじっと見つめていた。

 やがて、記者の唇が、わずかに柔らかく弧を描いた。

「……分かりました。その言葉、しっかりと記事にさせていただきます」

 神崎は手帳を閉じ、立ち上がって深々と一礼した。

「プロ公式戦『光星杯』……あなたの戦いを、最後まで見届けさせていただきますね。加藤さん」

「ありがとうございます」

 神崎が去り、ロビーに再び静寂が戻った。

 清麿がバッグから取り出した『光星杯』の推薦証をそっと撫でる。

 次なる戦場は、現役プロ棋士たちの待つ修羅の世界。

 桐生彰吾五段をはじめとする現代の最高峰たちが、この未知の元奨励会員を迎え撃つために手ぐすねを引いている。

「……さてと、雑魚先祖」

 和令が隣で腕を組み、不敵な笑みを浮かべて清麿を見上げた。

「午後の準決勝、そして決勝よ。サクッと優勝して、プロの首を狩りに行くわよ!」

「ああ。望むところだ!」

 清麿の力強い返答が、春の千駄ヶ谷の空へと高く響き渡っていった。

読んでいただきありがとうございます。

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