EP 9
絶望の『答え合わせ』
「勝ちは見えた、だと……?」
佐伯の顔が引きつった。
余裕の笑みは消え去り、その瞳には明らかな動揺が走っている。
「ハッ、ハハハ! 虚勢を張るなよ、加藤! この泥沼の盤面で、勝ちが見えるわけがない! 俺の玉はまだ安全圏だぞ!」
佐伯が扇子を荒々しく閉じ、駒を強く打ち付ける。
「8六歩」
玉の守りを固めつつ、清麿の攻め駒を牽制する、アマ名人らしい手堅くも鋭い一手。
だが。
パチリ。
佐伯が駒から指を離した瞬間、清麿の手が伸びていた。
「同歩」
「……は?」
佐伯は息を呑んだ。
ノータイム。考慮時間ゼロ。
まるで、佐伯がその手を指すことを、100年前から知っていたかのような即答。
「な、なんだその速度は……」
「遅いぜ、佐伯」
清麿は無表情のまま、佐伯を見据えた。
その視線は、もはや佐伯という「人間」を見ていなかった。
盤面の奥底にある、ただ一つの真理だけを見つめている。
「清麿、ルート固定完了よ」
背後でステルス状態の和令が、興奮気味に囁く。
「残り38手。佐伯の玉は、未来のデータベースに完全捕捉されたわ。ここからは、ただの『処刑』よ」
「ああ、分かってる」
佐伯が次の手を指す。
長考の末にひねり出した、絶妙な受けの手。
しかし、清麿は再びノータイムで返す。
パチリ。パチリ。パチリ。
会場が、異様な静けさに包まれていた。
響くのは、清麿が駒を打つ、冷たく正確な音だけ。
佐伯の考慮時間は5分、10分と伸びていくのに、清麿は常に1秒未満で指し返す。
それは対局というより、清麿が佐伯に「詰将棋の問題」を出し続けているような、一方的な暴力だった。
「くそっ……! なんでだ! なんで俺の手が全部読まれてる!?」
佐伯の額から、滝のように汗が流れ落ちる。
仕立ての良いブランドスーツは汗で体に張り付き、整えられた髪は振り乱されていた。
自分が罠を張れば、清麿はそれを踏み潰して前進してくる。
自分が逃げ道を作れば、清麿はそこに先回りして壁を作っている。
息ができない。
盤上が、見えない蜘蛛の巣で覆い尽くされていくような絶望感。
(こいつは……本当にあの加藤なのか……!?)
佐伯の脳裏に、奨励会時代の清麿の姿がフラッシュバックする。
不器用で、プレッシャーに弱くて、いつも泣きそうな顔で盤に向かっていた男。
「才能がない」と笑い捨てたはずの男が今、神のような高みから自分を見下ろしている。
「……これで、終わりだ」
佐伯が、震える手で最後の勝負手を放った。
「3三角成」
大駒である角を切り飛ばし、一縷の望みをかけた王手。
これなら、どう応じても清麿の陣形に隙ができるはずだ。
だが、清麿の表情はピクリとも動かなかった。
「……俺の泥沼に付き合ってくれたことだけは、礼を言うぜ。佐伯」
清麿は、手駒から「飛車」をつまみ上げた。
そして、佐伯の玉の眼前に、容赦なく叩きつける。
「2二飛車。……打込」
「なっ……!?」
佐伯の目が極限まで見開かれた。
タダ捨ての飛車。
将棋界の常識では絶対にあり得ない、狂気の一手。
しかし、佐伯には見えてしまった。
その狂気に見える一手が、自分の玉の逃げ道を完全に塞ぐ「死の扉」であることに。
「同玉なら、3一銀成から5手詰め。……逃げれば、3手で終わる」
清麿の冷ややかな声が、静まり返った会場に響き渡った。
「……あ、あ……」
佐伯の口から、乾いた音が漏れる。
指が震え、駒を持つことができない。
どれだけ考えても、どれだけ足掻いても、逃げ道はなかった。
300年後の絶対的な「正解」が、現代のアマ名人を完全に押し潰した瞬間だった。
「…………負け、ました」
ガクン、と。
佐伯の首が垂れ下がり、その両手が盤に崩れ落ちた。
完全なる敗北。
プライドも、過去の栄光も、すべてがこの一局で粉砕された。
「……ありがとうございました」
清麿は短く頭を下げると、ゆっくりと席を立った。
膝が震えていた。
だが、それは恐怖ではない。
過去の自分を縛り付けていた鎖を、自らの手で(そして未来の力で)断ち切ったことによる、強烈なカタルシスだった。
「ふふっ、あっはははは!」
和令が清麿の背中をバシバシと叩いて歓喜の声を上げる。
「最高! 最高よ清麿! あんたの評価値、今ストップ高よ! これで借金も大幅に減額されるわ!」
「……うるせえよ。痛えな」
清麿は口では文句を言いながらも、その顔には、10年ぶりに憑き物が落ちたような、清々しい笑みが浮かんでいた。




