EP 4
『神域の彼方に散る』
夜九時を回り、箱根の山々は底知れぬ漆黒の静寂に呑み込まれていた。
庭園の池を揺らす風の音すら遠のき、特別対局室の青畳の上には、二人の男の荒い息遣いと、焼けつくような摩擦熱だけが渦巻いている。
――ズドォォンッ!!
清麿が敵陣深くへと叩き込んだのは、角の成り捨てだった。
金銀を剥がし、藤堂の玉陣を丸裸にする決死の強襲。
百手を超えた盤上は、もはや互いの玉がいつ即死してもおかしくない、極限のサドンデスに突入していた。
「――三十秒……四十秒……五十秒、一、二、三……!」
記録係の声が、心臓の鼓動を直接抉るように響く。
本館の関係者控室では、中継モニターを取り囲む棋士たちが、誰一人として座っていることすらできず、息を詰めて画面に張り付いていた。
「信じられない……藤堂竜将が、受けに追われ続けている!」
「加藤四段の端からの濁流が、竜将の玉の喉元に届いているぞ。一手間違えれば、あの五冠王が即詰みに討ち取られる!」
神崎澪は握りしめた手帳に指を食い込ませ、祈るように画面を見つめていた。
盤の向こうで、深緑の羽織の襟元をわずかに乱した藤堂晃司五冠が、これまでのどんな対局でも見せたことのないほど鋭く、血の通った眼光で盤面を凝視していた。
あの透明だった絶対王者が、汗を流し、息を荒らげ、一人の生身の勝負師として盤上に喰らいついている。
(届く……! この手なら、藤堂竜将の首に届く……!)
清麿の視界が、白熱した光に染まりかけていた。
脳裏に浮かぶのは、三百年後の完全定跡アーカイブのデータではない。
矢野の老獪な毒を耐え抜いた記憶。
星野蓮の野生の直感を受け止めた覚悟。
山岸、成瀬、桐生、久保田――千駄ヶ谷の怪物たちと命を削り合って掴み取ってきた、生身の魂の読み筋。
相手の玉は逃げ場を失い、自玉への詰めろは一手だけ外れている。
次の一手で、藤堂の玉は確実に詰むはずだった。
「――五十秒、一、二、三、四……!」
清麿の右手が、渾身の力を込めて盤上へ振り下ろされた。
――バシィッ!
手持ちの金を、藤堂玉の退路を完全に断つ急所へと打ち下ろす。
王手。
退路封鎖。
控室のプロ棋士たちの誰もが「決まったか」と息を呑んだ、その瞬間だった。
藤堂晃司五冠の指先が、一切の迷いなく動いた。
パチリ。
対局室の空気を震わせたのは、乾いた、あまりにも静かな駒音だった。
「…………え?」
清麿の喉から、掠れた声が漏れ出た。
藤堂が指したのは、王手を防ぐ合い駒でも、玉を逃がす手でもなかった。
自陣の底深く、清麿の攻め駒から何光年も離れた盤の最下段へ、自らの『香車』をスッと一段だけ引く――王手を放置するかのような、あまりにも静寂に満ちた一手だった。
(王手を……放置……!? いや、違う……!)
清麿の背筋を、絶対零度の氷水が突き抜けた。
香車が引かれたことで、空いたマス目を通じて、藤堂陣の奥深くに眠っていた角の斜めの射線が、遮るものなく一直線に開通していた。
その射線の先にあるのは――清麿が完璧に安全地帯へ逃がしたはずの、自玉の喉笛。
王手に対する逆王手。
それだけではない。香車が引かれたマス目そのものが、藤堂の玉にとって、清麿の金打ちの射程からわずかミリ単位で逃げ込める「唯一の退路」を同時に作り出していたのだ。
攻めと受けが、たった一枚の香車の後退によって、完全にひとつの円を描くように調和していた。
美しい。
恐ろしいほどに、澄み切った一手。
未来の定跡アーカイブにも存在しない、神の悪戯のような絶妙手。
「…………っ、あ……」
清麿の指先が、盤の上でピタリと止まった。
読んだ。
死に物狂いで、脳のシナプスが焼き切れるほどに先を読んだ。
だが――どれほど深く潜っても、藤堂の引いた香車が放つ見えない光の網から、自玉が逃れる筋はどこにも存在しなかった。
一手負け。
自らの放った濁流の刃は、藤堂の喉元まであと紙一枚の距離まで届きながら、その寸前で、神域の調和によって完全に受け流されていた。
「――加藤四段、残り三十秒です」
記録係の声が、遠く海の底から響くように聞こえた。
清麿は膝の上の袴の布地からゆっくりと手を離し、盤上に両手を落とした。
全身から力が抜け、熱く滾っていた血液が、すっと静まっていくのを感じていた。
完敗だった。
持てるすべてをぶつけ、相手を本気にさせ、極限の淵まで追い詰めながら――最後に立ちはだかったのは、理屈もデータも超越した、絶対王者の底知れぬ深淵だった。
清麿は深く息を吐き出し、畳に額を擦りつけるようにして、静かに頭を下げた。
「……参り、ました」
百二十四手。
第五十期棋王戦五番勝負・第一局。
三十一歳の挑戦者・加藤清麿四段は、五冠王・藤堂晃司の前に、壮絶な死闘の末に敗れ去った。
「…………」
対局室を満たす、長い沈黙。
やがて、深緑の羽織の乱れを直した藤堂晃司五冠が、畳に両手をつき、深々と頭を下げ返した。
「……ありがとうございました」
顔を上げた藤堂の額には、びっしりと汗が光っていた。
その双眸は、いつもの澄み切った静けさを取り戻していたが、唇の端には、隠しきれない興奮の震えが残っていた。
「加藤さん。……本当に、素晴らしい将棋でした」
藤堂の声が、微かに震えていた。
「中盤の端の桂跳ねから角の切り込み……私の読み筋は何度も断ち切られ、心臓が止まるかと思いました。あの最後の香車引きを見つけられなければ、私の負けでした」
藤堂はそう言って、盤上の駒を愛おしそうに見つめた。
「君という挑戦者を迎えることができて、私は心の底から嬉しい。……第二局も、全身全霊で盤に向かいましょう」
「……はい。ありがとうございました」
清麿はもう一度、深く頭を下げた。
悔しさは胸を焼け焦がすほどにある。
だが、それ以上に――この怪物の首元に、自分の刃が確かに届きかけていたという生々しい感触が、冷えかけた闘志の残り火を、再びカッと燃え上がらせていた。
*
深夜、長時間の感想戦と記者会見を終え、特別対局室を後にした清麿は、一人で離れの濡れ縁へと出た。
初夏の夜風が、火照りきった頬を冷ましていく。
見上げれば、箱根の空には満天の星が冷ややかに輝いていた。
縁側の端に腰を下ろし、清麿は深く息を吐き出した。
「……強かったな」
ぽつりと、独り言がこぼれる。
完敗だった。三百年後の知識も、泥臭い執念も、すべてを受け止められた上で、最後に一枚上を行かれた。
五番勝負の初戦黒星。
重い一敗だった。
「……何が『強かったな』よ、雑魚先祖」
背後の闇の中から、カツンと下駄を鳴らす音とともに、聞き慣れた容赦のない声が飛んできた。
作務衣の袖をまくり、腕を組んだ和令が、濡れ縁の柱に背を預けて立っていた。
「和令……」
「百二十四手まで粘って、相手の神様に脂汗かかせて、最後は一手差で惜敗? ……何のお涙頂戴の美談気取りよ!」
和令はツカツカと歩み寄ると、清麿の目の前でドカリとあぐらをかいた。
その大きな瞳の奥には、悔しさの炎がメラメラと燃え盛っている。
「藤堂晃司が強いことなんて、三百年先の未来から来た私が一番知ってんのよ! 初戦を落としたくらいで、黄昏れた横顔作ってんじゃないわよ!」
「黄昏れてなんかないよ。……ただ、本当にあと一歩だったんだ」
「その一歩が、天と地の差なのよ!」
和令はそう言いながら、作務衣の懐から小さな包みを取り出し、清麿の膝の上にポスッと放り投げた。
「ほら、食べなさい!」
「……これ、何だ?」
竹皮の包みを開くと、中に入っていたのは、黒々としたタレが艶やかに絡んだ、丸い焼きおにぎりだった。中を割ると、黄金色の半熟卵が丸ごと一個、湯気を立てて顔を覗かせる。
「特製・燻製煮卵入り味噌焼きおにぎりよ! 夜食プロトコルの余剰物資よ! 一個二十円の超高級資源を、敗戦処理の先祖の胃袋に流し込んであげるんだから、感謝しなさい!」
「敗戦処理って……。でも、まだ温かいな」
「冷める前に食べなさいって言ってんの! ……いい、清麿?」
和令の眼差しが、夜の闇よりも深く、真剣な光を帯びて清麿を射抜いた。
「今日の対局で、藤堂晃司の『神話』は剥がれたわ。あいつも汗をかいて、恐怖を感じて、ギリギリのところで手を伸ばしてくる一人の生身の人間よ。……あんたの泥臭い将棋は、確かにあの神様に届いてたのよ」
「和令……」
「五番勝負は、先に三番勝った方の勝ちよ! まだ一敗しただけじゃない! 次は東京、千駄ヶ谷の決戦よ! 三百年後の完全定跡とあんたの執念をもう一度練り直して、次こそあの男の首をもぎ取るわよ!」
和令の言葉が、清麿の胸の奥底の冷え切っていた芯に、カチリと熱い火を灯した。
そうだ。まだ終わっていない。
自分たちの戦いは、ここから始まるのだ。
清麿は焼きおにぎりを口いっぱいに頬張った。
香ばしい味噌の風味と、濃厚な黄身の温もりが、五臓六腑を満たしていく。
「……ああ。次は、絶対に勝つ!」
初夏の箱根の夜空の下、敗北の苦さを噛み締めながら、二人の魂の逆襲が、静かに、そして熱く始まろうとしていた。
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