EP 3
『濁流の牙』
箱根の夕暮れは早く、離れの濡れ縁の外では、青々としていた新緑の木々が深い藍色の影へと沈み始めていた。
特別対局室の青畳を照らす行灯風の間接照明が、盤上の四十枚の駒に長方形の濃い影を落としている。
藤堂晃司五冠が放った一手――それは、清麿の突き出した端歩をあえて無視し、自陣の中央に眠っていた銀を斜め前へと力強く繰り出す△5四銀だった。
盤面を揺るがすほどの重い駒音。
穏やかだった絶対王者の指先から、初めて剥き出しの「勝負師の牙」が覗いた瞬間だった。
(端の小細工など意に介さない、中央からの堂々たる制圧……!)
清麿は膝の上の袴の布地をぎゅっと握りしめた。
額からじわりと滲み出た汗が、鼻梁を伝って盤上に落ちそうになるのを、手ぬぐいで素早く拭う。
藤堂の銀が中央に躍り出たことで、後手陣の厚みは一気に倍加していた。
清麿が突いた端歩の空間を利用して反撃しようにも、中央を完全に制圧されているため、端から仕掛けた瞬間に中央を突破されて自陣が瓦解する。
風を濁しにいったはずの清麿の一手を、藤堂は巨大な掌で盤面ごと包み込むようにして、自らの呼吸の中へと取り込んでみせたのだ。
「――加藤四段、残り時間一時間を切りました」
記録係の凛とした声が落ちる。
タイトル戦の持ち時間は各自四時間。
藤堂がまだ二時間近くを残しているのに対し、清麿の持ち時間は急速に削り取られていた。
脳裏に浮かぶ『完全定跡アーカイブ』の画面は、藤堂の△5四銀に対して激しい演算ノイズを散らし、幾重もの分岐が『後手優勢(マイナス八百点)』の数字とともに消滅していく。
未来のスーパーコンピューターですら、藤堂の中央制圧に対する有効な打開策を見出せずにいた。
『――相手が自然なら、こちとらは泥臭い人間の生命力で盤面を濁らせなさい!』
昼食の敷き紙に殴り書きされていた、和令の怒声が脳髄の奥底で響く。
(そうだ。綺麗な手順で勝とうとするな。未来のデータに答えを求めるな……!)
清麿は目を閉じ、深く、長く息を吐き出した。
矢野健三の老獪な毒を思い出せ。
星野蓮の野生の跳躍を思い出せ。
山岸征四郎の重戦車を止めたクサビ、成瀬仁を討った捨て身の歩、桐生彰吾の鏡を割った自陣破壊、そして久保田聡の計算機を狂わせた金のタダ捨て――。
自分は、千駄ヶ谷の化け物たちと命を削り合い、その血肉をすべて喰らい尽くしてここまで登ってきたのだ。
神様のような綺麗で完璧な将棋が指せないなら――泥水を啜ってきた人間の、泥まみれの爪を立ててやるまでだ!
清麿が目を見開いた。
その瞳の奥に、獲物を狙う野獣の獰猛な光がカッと宿る。
「――五十秒、一、二、三……!」
秒読みの足音が迫る極限の中、清麿の右手が盤上へ振り下ろされた。
――ズドォォォォンッ!!
特別対局室の障子がビリビリと共鳴する、凄まじい着手音。
清麿が放ったのは、中央の銀を受ける手でも、自陣を固める手でもなかった。
昼一番に突いた端歩の頭上――敵陣の最も奥深い端のマス目へ、手持ちの『桂馬』をいきなり単身で跳ね込ませる、前代未聞の特攻だった!
「…………っ!?」
本館の関係者控室で、モニターを凝視していた棋士たちが一斉に立ち上がった。
「桂の端跳ね……!? 中央が火の車なのに、端に桂馬を捨て駒のように放り込んだのか!?」
「暴発だ! 自陣の中央を放置して端に戦力を分散させるなんて、現代のAIの評価関数なら一瞬でマイナス二千点の大暴落だぞ!」
「いや、待て!」
立会人の九段が、身を乗り出して画面を指差した。
「見ろ……藤堂竜将の手が、止まった!」
神崎澪が手帳を強く握りしめ、息を呑んで画面を見つめる。
画面の中の藤堂晃司五冠が、これまでの対局で見せたことのないほど深い前傾姿勢を取り、盤面の一点に視線を縫い付けていた。
対局室の静寂が、異様な熱気で軋んでいた。
藤堂の双眸の奥に、青白い火花がパチパチと散る。
(……端の桂跳ね。一見すれば、中央を放棄した破れかぶれの特攻……)
だが、藤堂の恐るべき大局観は、その手の奥底に潜む「毒」を正確に見抜いていた。
跳ね出された清麿の桂馬は、ただ端で死ぬための駒ではない。
その桂馬の利きが、藤堂陣の玉の退路を斜め後ろから塞ぐと同時に、清麿が昼に突いたあの端歩と見えない糸で結ばれ、後手陣の香車の利きを完全に逆流させていたのだ。
もし藤堂が中央の銀で清麿の陣形を突破しにいけば、中央の突破よりもコンマ一秒早く、清麿の端からの濁流が藤堂の玉の喉元を直接引き裂く。
中央の王道に対し、端の死角から放たれた、命がけの刺し違えの刃。
「ふ……っ」
藤堂晃司の唇から、小さな吐息がこぼれた。
それは苦笑でも焦りでもない。
自らの完璧な調和を力づくで引き裂きにきた挑戦者の熱量に対する、心からの歓喜の笑みだった。
「加藤さん。……本当に、泥臭くて、美しい手を指しますね」
藤堂が右手を伸ばした。
――バシィッ!
藤堂が放ったのは、中央の攻めを自ら保留し、清麿の桂馬の頭上へ、一枚の歩を静かに叩き落とす受けの一手だった。
受けに回らせた。
あの絶対王者に、自らの攻め足を止めさせ、泥沼の応酬へと引きずり込んだのだ。
清麿の全身の血液が沸騰する。
(ここからだ……! ここからが、俺たちの本当の将棋だ!!)
清麿の手が、間髪を入れずに閃く。
――ズドンッ!
端の歩を突き捨てる。
――バシィッ!
角を敵陣の隙間へ強引に叩き込み、藤堂の金銀のスクラムを内側から引き剥がしにかかる。
定跡の美しさなどどこにもない。
一手間違えれば即死する暗黒の断崖絶壁の上で、互いの魂の刃をむき出しにして削り合う、極限の死闘。
夜の八時を回り、箱根の山々に静まり返る闇の中、特別対局室の駒音は、嵐のような激しさを増していった。
神域の調和と、泥沼の執念。
第一局の勝敗を分ける最後の激突が、いま最高潮を迎えようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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