EP 2
『神域の呼吸』
箱根の山々を揺らす初夏の風が、離れの濡れ縁に飾られた風鈴をチリンと静かに鳴らしていた。
特別対局室の青畳の上で、駒音が初夏の静寂に波紋を広げていく。
――バシィッ!
――パシッ。
初手▲7六歩、2手目△3四歩から進んだ局面は、互いに飛車先を突き合い、角を交換する『角換わり』の激戦区へと突入していた。
清麿の手つきには寸分の迷いもなかった。
脳裏に立ち上がる『完全定跡アーカイブ』の青白い樹形図。
山岸の重量、成瀬の執念、桐生の知性、そして久保田の精密機械――それらすべてを乗り越えて研ぎ澄まされた清麿の序盤構想は、現代将棋の常識のさらに数歩先を軽やかに走っていた。
自陣の金銀を低く連結させ、玉を最も安全な深奥へ囲いながら、桂馬と香車の攻撃力を極限まで高めていく。
並の棋士であれば、この隙のない構想に息を呑み、持ち時間を激しく削られるはずだった。
――しかし。
盤の向こう側、深緑の羽織を身に纏った藤堂晃司五冠の手つきは、まるで水面に木の葉を浮かべるかのように軽やかだった。
カチリ。
カチリ。
藤堂の指し手には、AIが弾き出すような「無理な効率の追求」も、相手を嵌めようとする「罠」の気配も一切なかった。
自陣の銀をふわりと中央へ繰り出し、何気なく歩を一枚突き、玉を一段だけ右へと寄せる。
現代の将棋ソフトにかければ、評価値がプラスにもマイナスにも触れない、ごく平易に見える手ばかり。
だが――三十手を過ぎた頃、加藤清麿の全身の毛穴が、ゾクリと粟立ち始めた。
(……な、んだ……? この感覚は……)
清麿は膝の上の拳をぎゅっと握りしめた。
息が、苦しい。
藤堂は一度たりとも清麿の陣形を直接威嚇してきていない。
大駒の射線を押し通すわけでもなく、急所にクサビを打ち込んでくるわけでもないのだ。
それなのに――清麿が未来定跡の英知を尽くして組み上げた完璧なはずの陣形が、まるで深い霧に包まれたかのように、どこを攻めていいのか、どこを守ればいいのか、目標を完全に失って虚空を漂っていた。
藤堂の駒が、生きている。
歩の一枚、香車の一本に至るまでが、盤面全体の風通しを最も心地よく保つ場所へ、自らの意志で吸い寄せられるように収まっていた。
無理がない。作為がない。
まるで、盤上にそよぐ風や、木々を潤す雨のように、あまりにも自然に「最善の呼吸」が刻まれていた。
「……正気か、あれは」
離れから少し離れた旅館の本館、関係者控室。
中継モニターを見つめていた立会人のベテラン九段が、震える手で湯呑みを置いた。
モニターを取り囲む棋士たち、そして取材陣のペンが、一斉に止まっている。
「加藤四段の序盤は、非の打ち所がない。久保田王将を破った時と同じ、現代の定跡をはるかに凌駕する異次元の完成度だ。……なのに、藤堂竜将の手が、その異次元をことごとく『当たり前の景色』に変えてしまっている」
「ええ……」
最前列でノートパソコンを開いていた神崎澪が、息を呑んでモニターを凝視する。
「AIの推奨手ではないのに、一手進むごとに、盤上のすべての駒が藤堂先生の味方をしているように見えます。……これが、千駄ヶ谷の頂点に君臨する男の『神域』なのですね」
午前十一時半を回り、特別対局室の空気に、わずかに昼食の気配が混ざり始めた。
「――午前中の対局を終了してください。これより昼食休憩に入ります」
立会人の声が落ち、両者が静かに一礼を交わす。
藤堂が注文したのは、箱根名物の『湯葉せいろ蕎麦』。
そして清麿の元へ運ばれてきたのは、旅館の特製重箱に収められた『相州牛のすき焼き重』――そして、その中央に添えられた、小さな陶器の小鉢だった。
控室に戻り、一人で重箱の蓋を開けた清麿は、思わず目を見張った。
小鉢の中に収まっていたのは、朝、和令が持ってきたあの黒たまごの燻製出汁をベースにした、黄金色に輝く「特製・温泉煮卵」だった。
小鉢の敷き紙の裏に、見慣れた尖った文字で、小さく殴り書きがされている。
『神様の呼吸に呑まれて、白目剥いてんじゃないわよ、雑魚先祖! 相手が自然なら、こちとらは泥臭い人間の生命力で盤面を濁らせなさい! 卵一個分のエネルギーを、前頭葉のシナプスに全部叩き込みなさいよ!』
「……あいつ、本当に料理長と仲良くなりすぎだろ」
清麿の唇から、ふっと微かな笑みがこぼれ落ちた。
張り詰めていた肩の力が、すっと抜けていく。
箸を取り、温泉卵をすき焼き重の肉の上でそっと崩す。
濃厚な黄身のコクと、甘辛い割り下、そして牛肉の旨みが口いっぱいに広がり、冷え切っていた胃袋の底をカッと熱く満たしていく。
そうだ。
相手は盤上の神様かもしれない。
だが、自分は神様と綺麗にお辞儀をしに箱根まで来たわけではないのだ。
泥水を啜り、二十六歳で一度すべてを失い、未来から来た生意気な少女とともに、這いつくばってここまで登ってきたのだから。
午後十二時半。対局再開。
特別対局室に戻った清麿の瞳には、午前中の迷いは完全に消え去っていた。
盤面は五十二手目。
手番は、先手の加藤清麿。
深く息を吸い込み、清麿は右手を伸ばした。
掴み取ったのは、未来定跡が示す最短の攻め筋でも、手堅い守りの駒でもなかった。
自陣の端、誰もが手をつけるはずのない『端歩』だった。
――パチリ。
▲1六歩。
静寂を震わせる、あまりにも静かな駒音。
「…………」
その瞬間、盤の向こうで静かに目を閉じていた藤堂晃司五冠の睫毛が、ピクリと動いた。
深緑の羽織の胸元がわずかに波打ち、澄み切っていた双眸が、ゆっくりと見開かれる。
藤堂の視線が、清麿の指したたった一枚の端歩へと注がれた。
定跡の最短ルートをあえて外れ、相手の自然な呼吸のど真ん中に、自らの泥臭い足跡をあえて刻みつけるような、意思の一手。
藤堂の唇の端が、ほんのわずかに、嬉しそうに綻んだ。
「……なるほど。そう来ましたか、加藤さん」
藤堂の声は、初夏の箱根の木々を揺らす風のように、どこまでも優しく、そして底知れぬ深みをたたえていた。
「盤上の風を、濁しに来ましたね」
藤堂の右手が、滑らかに盤上へと振り下ろされた。
――ズドォォンッ!
穏やかな所作からは信じられないほどの、重厚な地鳴りのような駒音。
神域の静寂が破られ、盤上は一瞬にして、光と泥が激しく衝突する真の修羅場へと姿を変えようとしていた。
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