第八章『絶対王者・藤堂晃司、神域の五番勝負』
『神域への旅立ち、箱根の朝』
五月上旬の箱根の山々は、燃え立つような初夏の新緑に包まれ、湯坂山の稜線から吹き降ろす風が、老舗温泉旅館の庭園に佇む錦鯉の池を静かに揺らしていた。
敷地奥に佇む数寄屋造りの離れ。
磨き抜かれた檜の廊下の先に、本日の戦場となる特別対局室が鎮座している。
日本将棋界の最高峰を争う舞台――第五十期棋王戦五番勝負・第一局。
床の間に掲げられた掛け軸には、達筆な墨文字で『神機妙算』と刻まれ、畳の中央には、樹齢数百年の榧の巨木から削り出された、艶やかな本榧の盤が重厚に据えられていた。
タイトル戦特有の、濃密で、神聖な静寂。
離れの控室で、加藤清麿は鏡の前に立ち、自らの姿をじっと見つめていた。
身に纏っているのは、いつものスーツではない。
師匠の榊原九段と妹の千代が、この晴れ舞台のために見立ててくれた、漆黒の羽織と純白の袴。
三十一歳にして初めて袖を通す、タイトル戦挑戦者の正装だった。
絹の重み、帯の硬い感触、そして肩に伝わる心地よい締めつけ。
指先で羽織の紐に触れるたび、自分が四年前の暗黒の底から這い上がり、ついに千駄ヶ谷の頂点の前に立ったのだという現実が、熱い奔流となって全身の血管を駆け巡る。
『加藤清麿四段、史上初の「編入プロによる即タイトル挑戦」へ!』
『相手は現代の生ける伝説、七大タイトルのうち五冠を独占する絶対王者・藤堂晃司!』
『奇跡のオールドルーキーが神話の扉をこじ開けるか、それとも五冠王が絶対の壁を見せつけるか』
昨晩行われた前夜祭の熱狂が、今も耳の奥に残っていた。
百人を超える報道陣、全国から集まった熱狂的なファン、無数のカメラのフラッシュ。
その華やかな壇上で、五冠王・藤堂晃司と初めて公式に言葉を交わした瞬間のことが、鮮烈に思い出される。
壇上に現れた藤堂は、二十代後半とは思えないほど泰然自若としており、微笑みを湛えた瞳の奥には、宇宙そのものを内包しているかのような深淵が広がっていた。
『加藤さん。風月杯のあの時から、ずっと君が上がってくるのを待っていたよ』
耳元で囁かれたその穏やかな声には、威嚇も傲慢も何一つなかった。
ただ、盤上の真理をともに探求できる同胞を見出したことへの、無垢な歓喜だけが満ちていた。
その底知れなさに、清麿の背筋は粟立ち、同時に全身の血が歓喜に沸騰したのだ。
「……ちょっと。朝から鏡の前で羽織の袖をパタパタさせて、何の若旦那ごっこよ、雑魚先祖」
背後の襖がスッと開き、聞き慣れた容赦のない甲高い声が飛んできた。
旅館の係員用の作務衣を羽織り、千代の小さな巾着を腰に下げた和令が、湯気を立てる盆を両手で持って入ってくる。
「若旦那ごっこじゃない。……袴の丈を確かめてたんだよ」
「確かめるのは結構だけど、顔の皮膚が緊張で一ミリ引き攣って、鼻の下が不自然に伸びてるわよ! 羽織袴を着た途端に、衣装負けして気絶する気!?」
「衣装負けなんてしてない! だいたい、お前こそよく旅館の厨房に潜り込めたな。関係者以外立ち入り禁止だろ」
「三百年後のハッキング能力と私の愛嬌を舐めんな! 『加藤先生の食事管理担当の専属栄養士です』って言ったら、料理長が二つ返事でコンロを一台貸してくれたわよ!」
「ハッキングと愛嬌の組み合わせが不穏すぎるんだよ! ……だいたい、今朝は何を作ったんだ?」
「タイトル戦第一局の、超弩級・神話破壊プロトコルよ!」
ドン、と座卓の中央に置かれた盆を見て、清麿は思わず息を呑んだ。
湯気を立ち上らせる鯛のあら汁、箱根名物の湯葉と山菜の炊き合わせ、そして――皿の中央に鎮座していたのは、見事な漆黒の殻を割り、中から黄金色に輝く黄身がとろりと顔を覗かせる、特製の「黒たまご風・燻製半熟煮卵」だった。
「……おい、和令。これ……」
「箱根名物の大涌谷黒たまごをベースに、一個二十円の超高級資源を二個、ナノ燻製処理でじっくりアミノ酸を凝縮させた最高峰の特別配給よ!」
「燻製煮卵……! 朝からこんな凝ったもの作ってくれたのか」
「当たり前でしょ! 相手は藤堂晃司よ! 三百年後の歴史教科書にも『知の特異点』として名前が太字で刻まれてる、正真正銘の盤上の神様よ!」
和令は腕を組み、ツンと顎を反らせると、真剣な眼差しを清麿へ突きつけた。
「藤堂晃司の恐ろしさは、桐生八段の知性とも、久保田二冠の精密機械とも違うわ。相手の読みを全部受け入れた上で、盤上の駒が一番美しく息づく手を、ただ自然に指してくるのよ。……三百年後の完全定跡アーカイブすら、藤堂の将棋の前では『未完成のメモ書き帳』に成り下がるわ!」
「三百年後の定跡ですら、未完成のメモ書き、か……」
「そうよ! だからこそ、道具に頼るんじゃないわよ、清麿! あんたが泥水を啜って手に入れた生身の魂と、私の未来知識を極限まで衝突させて、あの神様の盤面を引っ掻き回してきなさい!」
「……ああ。分かってる!」
清麿は箸を取り、燻製煮卵を口に運んだ。
香ばしい燻製の香りと、濃厚な黄身の旨みが五臓六腑を熱く駆け巡り、鯛のあら汁の深いコクが冷えた身体の芯をじんわりと温めていく。
和令は小さく鼻を鳴らすと、作務衣の袖から透明な薄型端末を引き抜き、空中に青白い光を展開した。
「食べ終わったら五分で精神統一よ! 無様に初戦を落として帰ってきたら、今夜は箱根の硫黄温泉に生卵の殻をぶち込んで、全身すりガラス刑だからね!」
「どんな拷問だよ! 絶対に、胸を張って帰ってくる!」
バチンッ、と背中に叩き込まれた手のひらの痛快な衝撃。
清麿は立ち上がり、黒の羽織の襟を正して、離れの廊下へと一歩を踏み出した。
午前八時四十五分。
特別対局室の襖が静かに開かれた。
上座には、すでに藤堂晃司五冠が座していた。
深緑の羽織に、落ち着いた灰色の袴。
背筋を自然体に伸ばし、両手を軽く膝に置き、庭園の緑を静かに眺めている。
殺気も、威圧感も、何一つない。
まるで、山奥の古寺で澄み切った空気を吸い込んでいる旅人のような、あまりにも無垢で、透明な佇まい。
だが、その身体の周囲の空間だけが、外界から切り離された別次元の静寂を醸し出していた。
清麿が入室し、下座の座布団に進み出て深々と頭を下げる。
「加藤さん」
藤堂が顔を向け、柔らかく目を細めた。
「おはようございます。……いい朝ですね」
「おはようございます、藤堂先生。本日はよろしくお願いいたします」
「山岸先生とのクサビ、成瀬先生との突き捨て、桐生先生との自陣破壊、そして久保田さんとの香車……すべて拝見しました」
藤堂の双眸の奥に、澄み切った青空のような光が宿る。
「君の将棋は、一手ごとに命が脈打っている。盤の前に座るのが、こんなに待ち遠しかったのは、本当に久しぶりだよ。……盤上のすべてを、ぶつけ合いましょう」
「はい。全霊をもって盤に向かいます」
午前九時整。
「定刻となりました。第五十期棋王戦五番勝負・第一局、対局を開始してください」
立会人の重厚な声が、対局室の静寂を震わせた。
振り駒の結果、清麿の先手、藤堂の後手番と決まった。
清麿は指先に全身全霊の魂を込め、駒箱から取り出した歩を、盤上へと静かに打ち下ろした。
――バシィッ!
初手、▲7六歩。
藤堂晃司もまた、淀みない流れるような所作で応じる。
――パシッ。
△3四歩。
駒音が、初夏の箱根の山々に澄み渡るように響き渡った。
三十一歳のオールドルーキー・加藤清麿四段と、現代の絶対王者・藤堂晃司五冠。
常識も、時代も、未来のデータすらも置き去りにする、神域の頂上決戦の火蓋が、いま堂々と切って落とされた。
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