EP 10
『絶対王者の待つ頂へ』
四月中旬の千駄ヶ谷は、初夏を思わせる瑞々しい青葉が街路樹を彩り、鳩森八幡宮の参道には爽やかな薫風が吹き抜けていた。
築四十年の木造アパートの六畳間に差し込む朝の光は力強く、畳の目を黄金色に染め上げている。
加藤清麿は、仕立て直した濃紺の勝負スーツに腕を通し、鏡の前で深く息を吸い込んだ。
本日行われるのは、第五十期棋王戦・挑戦者決定二番勝負、第二局。
第一局、絶対零度の精密機械と呼ばれた現役二冠・久保田聡王将を相手に、計算機をも狂わせる魂の熱量で先勝をもぎ取った。
本日の第二局で勝てば――その瞬間に、現代将棋界の頂点に君臨する五冠王・藤堂晃司竜将への挑戦権が確定する。
四年前、奨励会を追われて絶望の淵を這いずり回っていた無職の男が、三十一歳でプロの門を潜り、わずか数ヶ月で最高峰のタイトル戦の舞台へ手を伸ばそうとしているのだ。
枕元に置いたスマートフォンを点灯させると、将棋連盟の公式ポータルサイトやネットニュースは、朝から蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
『【棋王戦挑決第二局】加藤清麿四段、奇跡のタイトル挑戦へ王手!』
『久保田聡二冠、カド番で迎える後のない大一番! 雪辱の精密機械が牙を剥くか』
『勝てば史上初の「編入プロによる即タイトル挑戦」――千駄ヶ谷の歴史が塗り替わる日』
専門掲示板の実況スレッドは、対局開始の二時間前から信じられない速度で書き込みが流れている。
『今日、加藤四段が勝てば本当に藤堂竜将戦が実現するのか……』
『第一局の金のタダ捨ては将棋史に残る名局だった』
『だが久保田二冠が二局続けて同じ負け方をするはずがない。絶対に完璧な修正をしてくる』
『新四段の夢を打ち砕くのがタイトラーの意地。千駄ヶ谷の底力を見せてくれ!』
画面から溢れ出る熱狂とプレッシャー。
だが、その文字を見つめる清麿の指先には、微かな震えすら存在しなかった。
恐怖も、功名心も、すべて削ぎ落とされていた。
ただ、この盤の上で、自分の持てるすべての命を燃やし尽くしたいという、純粋で熱い渇望だけが身体を満たしていた。
「……ちょっと。朝からスマホを前にして、何の出陣前の武士気取りよ、雑魚先祖」
背後の台所から、アルミ鍋の蓋をカチャリと威勢よく鳴らしながら、容赦のない甲高い声が飛んできた。
銀と藍色のライダースーツの袖をたくし上げ、千代の花柄エプロンをきゅっと腰に巻いた和令が、湯気をもうもうと立ち上らせる大きな丼を両手で持って入ってくる。
「武士気取りじゃない。……決意を固めてたんだよ」
「決意なんて当たり前でしょ! 今日勝たなきゃ、第一局の勝利も全部水泡に帰すのよ! 久保田聡は第一局の負けを徹底的に分析して、あんたの骨の髄まで噛み砕く準備をしてきてるんだから!」
「分かってるよ。相手は現役のタイトルホルダーだ。命がけで牙を研いでくるに決まってる」
「分かってるなら、四の五の言わずにこの超弩級のエネルギーを胃袋に叩き込みなさい!」
ドン、とちゃぶ台の中央に叩きつけられるように置かれた丼を見て、清麿は息を呑んだ。
黄金色の衣をまとった分厚いトンカツ。その上を、半熟のとろとろの卵が惜しみなく覆い尽くし、甘辛い割り下の香ばしい湯気が立ち上っていた。
「……おい、和令。これ……カツ丼!?」
「特製・必勝カツ丼よ! 一個二十円の超高級卵を二個丸ごと使い、スーパーの見切り品の豚ロースをナノパルスで極限まで柔らかく処理した、三百年後の決戦専用高機動プロトコルよ!」
「朝からカツ丼なんて……昨日のチーズ玉子焼きに続いて、予算を完全に度外視してるじゃないか!」
「度外視上等よ! 今日勝てばタイトル挑戦決定、対局料も賞金も跳ね上がって、加藤家の財政は銀河レベルで黒字化するんだから! ここでケチるような指導者は三百年後の世界でも三流よ!」
「銀河レベルって……相変わらずスケールが大きいけど、本当にありがとう。めちゃくちゃ美味そうだ」
「ふん! 感謝するなら味わってないで、五分で前頭葉にタンパク質と糖分を流し込みなさい! 久保田の反撃にビビって縮こまって帰ってきたら、今夜は生卵の殻を粉末にして頭からぶっかける刑だからね!」
「刑罰が物理的な嫌がらせになってるだろ! ……行ってくるよ、和令」
「当たり前よ! 藤堂竜将の首元まで、あと一歩なんだからね!」
バチンッ、と背中に強烈な手のひらの衝撃が叩き込まれた。
痛烈な熱が肩甲骨を駆け抜け、清麿は力強く立ち上がり、初夏の風が吹き抜ける千駄ヶ谷の決戦場へと歩み出した。
午前九時四十分。
日本将棋会館・四階、特別対局室。
青畳の上を支配していたのは、第一局の絶対零度とは打って変わった、肌がチリチリと焼け焦げるような異様な熱気だった。
上座に座していたのは、現役二冠・久保田聡王将。
第一局で見せていた機械のような静寂は消え去り、短く刈られた黒髪の下で、血走った眼光が刃物のようにギラギラと輝いていた。
膝の上の拳は白くなるほど握りしめられ、全身から立ち上る勝負師の執念が、部屋の空気を重く押し潰している。
カド番に追い込まれた若き王者の、剥き出しの誇りと怒り。
清麿が入室し、下座に進んで深々と頭を下げる。
「加藤さん」
久保田の声は低く、地底から響くような地鳴りを帯びていた。
「昨夜、一睡もできませんでした。第一局のあなたの指し手を、頭の中で何千回、何万回と並べ直しました」
「……」
「私の計算が狂わされた理由……それは、私があなたを『合理的で計算可能な棋士』だと侮っていたからです。ですが、もう同じ過ちは犯しません」
久保田の双眸に、青白い炎がメラメラと燃え上がる。
「今日は、私の計算のすべてに、私の全人格と意地を乗せてあなたを圧殺します。……一局も譲りません」
本物の怪物の覚醒。
清麿は背筋を真っ直ぐに伸ばし、澄み切った瞳でその視線を受け止めた。
「望むところです、久保田先生。……全力で、お相手します」
「定刻となりました。第五十期棋王戦挑戦者決定二番勝負・第二局、対局を開始してください」
記録係の声が室内に凛と響き渡る。
第二局の手番は、先手が久保田聡二冠、後手が加藤清麿四段。
久保田の初手は、盤が軋むような気迫とともに放たれた。
――ズドォォンッ!!
▲2六歩。
飛車先を突く一手。
清麿も間髪を入れずに応じる。
――パシッ。
△8四歩。
局面は、現代将棋の最高峰の知性が激突する舞台――『角換わり』へと進展していった。
序盤の四十手、久保田の指し手には鬼気迫るものがあった。
第一局のような無機質なAIの模倣ではない。
清麿が仕掛けてくるであろうあらゆる変則手、金の捨て駒や時限爆弾の布石を、自らの肉体で覚えた頑強な金銀のスクラムで先回りし、力づくでへし折りにかかる、重厚かつ獰猛な「超攻撃型角換わり」。
清麿の脳裏に、三百年後の完全定跡アーカイブが青白い光となって展開される。
だが、久保田の指し手は、その未来のデータすらも自らの腕力でねじ伏せんと、寸分の狂いもなく急所へ殺到していた。
午後を回り、二階の控室。
中継モニターを見つめる棋士たちと、神崎澪の間で、息を呑むような会話が交わされていた。
「……久保田二冠、凄まじい気迫だ」
解説の若手棋士が、モニターの進行手順を見つめて唸る。
「精密機械が、血の通った鬼神に変貌している。加藤四段の持ち味である変則的な間合いの支配を、正面からの圧倒的な手数と破壊力で粉砕しにきているぞ。形勢は先手――久保田二冠にプラス八百点! このまま押し切られれば、第三局の決戦に持ち込まれる!」
「ええ……!」
神崎澪は手帳を強く握りしめ、画面の中の清麿を見つめていた。
「これが、タイトルホルダーの本当の底力……。加藤四段、この怒涛の濁流をどう受け止めるのかしら……」
夕刻、七十手を迎えた局面。
対局室の静寂を破り、久保田聡二冠が、手元の飛車を敵陣の急所へと豪快に叩き込んできた。
――ドォォォォンッ!!
特別対局室の障子がビリビリと共鳴するような、凄まじい轟音。
力づくの突破。
清麿の玉陣の守備駒が、一枚、また一枚と剥ぎ取られていく。
一手間違えれば即死する、極限の断崖絶壁。
久保田の額から大粒の汗がボタボタと青畳に落ち、血走った眼が清麿を睨みつける。
「どうした、加藤四段! 第一局のような小細工はもう通用しないぞ! 受けてみろ!」
(重い……! 呼吸が、止まりそうだ……!)
清麿の脳内将棋盤が、凄まじい摩擦熱を上げて軋んでいた。
未来の定跡アーカイブは、画面の隅に『危険:先手勝勢』の警告文字を激しく明滅させている。
データは、逃げろと言っている。手堅く受けて、相手のミスを待てと叫んでいる。
だが――。
(逃げたら、終わる)
清麿は目を閉じ、深く息を吐き出した。
脳裏に浮かび上がるのは、これまで戦ってきた化け物たちの姿――矢野の老獪な毒、星野の野生の疾風、山岸の重戦車、成瀬の復讐の炎、桐生の知性の鏡。
そして、朝に食べたあのカツ丼の味と、和令の怒号。
(俺はもう、誰かの背中を追う操り人形じゃない。……俺自身の将棋で、この怪物を超えていくんだ!)
「――加藤四段、残り時間五分です」
秒読みの足音が迫った、その瞬間。
清麿の瞳が、カッと見開かれた。
右手が、迷いなく盤上へと振り下ろされた。
――ズドォォォォンッ!!
清麿が放ったのは、自陣の玉を逃がす手でも、相手の飛車を受ける手でもなかった。
自陣の最も奥深くに眠っていた一枚の『香車』を、久保田の玉の喉元を遥か遠くから一直線に射抜く、敵陣の端へとダイレクトに打ち下ろす一手だった!
「…………っ!?」
久保田聡二冠の息が、喉の奥で詰まった。
双眸が、驚愕に見開かれる。
「香車……!? 自玉がこれほど危険な局面で、詰めろすら放置して端に香車を打つだと……!?」
久保田の脳内で、凄まじい速度の計算処理が火花を散らした。
清麿の玉には、あと二手で即詰みに討ち取るルートが存在する。どう見ても後手の暴発にしか見えない。
久保田の指先が、清麿の玉を屠るべく、手元の金を振りかざした。
――だが。
振りかざした久保田の指先が、盤上の一点で、ピタリと凍りついた。
(……な、んだ……これ……は……!?)
久保田の背筋を、冷たい氷水が滝のように流れ落ちた。
見落としていた。
清麿の玉に迫る自らの寄せ筋。
そのすべてのルートが――清麿が端に打ち下ろしたたった一枚の香車の利きによって、自玉の逃げ道が塞がれるのと同時に、先手の攻め駒の利きを微妙に狂わせる「見えないクサビ」として機能していたのだ。
清麿の玉は、死んでいない。
紙一重、わずか髪の毛一本分の差で、即詰みをすり抜けている。
そして――久保田の玉陣には、先ほどの香車の直撃から始まる、逃れようのない「即詰みの網」が、寸分の狂いもなく張り巡らされていた。
「嘘だろ……!?」
二階の控室で、若手棋士が絶叫した。
「端の香車打ち……! AIの候補手にもない、自玉の危険を極限まで読み切った上での、最短の反撃だ!」
「ええ……!」
神崎澪の手帳が、震える手から滑り落ちそうになる。
「相手の完璧な攻めを、自分自身の命を削るような一手で受け流し、相手の喉元を直接刺し違えた……!」
盤上の景色は、完全に静止していた。
久保田聡二冠の喉から、血を吐くような呻きが漏れる。
「ば……馬鹿な……! こんな……こんな手順、人間が読めるはずがない……! お前は……お前は一体、何者なんだ……!?」
久保田の双眸から、戦慄の涙が滲み出た。
だが、加藤清麿の瞳は、どこまでも澄み切っていた。
「俺は……プロ棋士です」
清麿の声は静かに、対局室の青畳を芯から震わせた。
「泥水を啜って、敗北を噛み締めて……ここまで這い上がってきた、一人の将棋指しです」
清麿の右手が、最後の引導を渡すために振り下ろされた。
――バシィッ!
香車の射線を利用し、角を敵陣へ叩き込む。
――パシッ。
金を捨てて久保田の玉を危険地帯へ誘い出す。
三百年後のデータすら超えた、生身の魂の連打。
百十八手目。
清麿は手元に残っていた一枚の銀を、久保田の玉の頭上へと、そっと静かに打ち下ろした。
――パチリ。
王手。
合駒利かず。
完全なる、即詰み。
「…………」
対局室から、すべての音が消え去った。
久保田聡王将は盤上に両手を落としたまま、ガタガタと激しく肩を震わせていた。
やがて、深く、長い溜息とともに、二十七歳の若き王者は畳に額を擦りつけるようにして頭を下げた。
「……参り、ました」
百十八手。
棋王戦・挑戦者決定二番勝負、第二局。
加藤清麿四段が、現役二冠・久保田聡を二連勝で破り、タイトル挑戦権を獲得した瞬間だった。
「……ありがとうございました」
清麿もまた、深く一礼を返した。
その瞬間、全身の筋肉から熱い汗が一気に噴き出し、胸の奥底から込み上げる感情で視界が激しく歪んだ。
記録係が公式記録用紙にペンを走らせる。
『第五十期棋王戦・挑戦者決定二番勝負 勝者:加藤清麿四段(二連勝により挑戦権獲得)』
三十一歳のオールドルーキーが、A級の重戦車を破り、前棋王の復讐を砕き、恩人の知性を超え、そして現役二冠の防壁を突破して――千駄ヶ谷の頂点へと続く扉を、自らの拳でこじ開けたのだ。
*
深夜、激闘の余韻と無数のフラッシュが焚かれた記者会見を終え、将棋会館の外へ出ると、千駄ヶ谷の街には初夏の澄み切った夜風が吹き抜けていた。
通りを渡り、鳩森八幡宮の境内へと足を踏み入れる。
新緑の若葉が青々とざわめく大銀杏の木の下、街灯の淡い光の中に、銀と藍色のサマージャケットを着た少女が立っていた。
加藤和令。
彼女は両腕を組み、夜風に長い黒髪をなびかせながら、じっと清麿を待っていた。
清麿の足音が近づくと、和令はスッと顔を上げ、ツンと顎を反らせて鼻から大きく息を噴き出した。
「……遅いわよ、雑魚先祖」
いつもの、聞き慣れた生意気な声。
「百十八手なんて、手こずりすぎよ。記者会見のフラッシュが多すぎて、遠くから見てた私のバイザーのセンサーが誤作動したわよ」
「悪かったよ。……でも、勝ったぞ、和令」
清麿は和令の前まで歩み寄り、夜空を見上げて深く息を吸い込んだ。
「久保田二冠に二連勝した。……棋王戦の、挑戦権を獲ったぞ」
和令は何も言わなかった。
ツンと横を向いたまま、ぎゅっと唇を噛み締めている。
だが、街灯に照らし出されたその大きな瞳には、ポロポロと大粒の涙が溢れ出し、白い頬を伝って地面に落ちていた。
「……バカ先祖」
掠れた、震える声だった。
「当たり前でしょ……! 朝から特製カツ丼を作ってあげたんだから……挑戦権くらい獲らなきゃ、承知しないわよ……ッ!」
和令は袖口で乱暴に目を拭うと、腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜き、空中に青白い立体ホログラムを展開した。
そこに浮かび上がったのは、千駄ヶ谷の、そして日本将棋界の絶対の頂点に座す男の顔写真だった。
『第五十期・棋王戦五番勝負』
『棋王・竜将・名人・王位・棋聖:藤堂晃司(五冠) 対 挑戦者:加藤清麿四段』
「さあ……いよいよよ、清麿」
和令は涙を拭い去り、ニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。
「三百年後の完全定跡と、あんたの泥臭い魂……そのすべてをぶつけて、あの絶対王者の首を獲りに行くわよ!」
「ああ。最初から、そのつもりだ!」
初夏の夜空に、二人の笑い声が力強く響き渡っていく。
三十一歳のオールドルーキー・加藤清麿四段と、未来から来た少女の、絶対王者・藤堂晃司竜将との五番勝負――真の頂上決戦が、いま堂々と幕を開けようとしていた。
(第七章 完)
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




