EP 9
『計算機が読めない熱量』
特別対局室の青畳に、時計の針が刻む音だけが冷たく反響していた。
夕闇が迫る窓の外とは裏腹に、室内の空気は氷点下に達したかのように張り詰めている。
六十五手目。後手の久保田聡二冠が放った銀の進出は、清麿の陣形をミリ単位の精度で圧迫していた。
一切の感情を交えず、淡々と盤上に置かれた一枚。
だが、その銀が放つ制圧力は、山岸九段の重戦車よりも重く、成瀬九段の復讐心よりも鋭角に、清麿の玉陣の急所を射抜いていた。
清麿の脳裏に広がる『完全定跡アーカイブ』は、激しい青白い明滅を繰り返しながら、次々と候補手を黒く塗りつぶしていく。
――分岐枝:消滅。
――評価値:後手有利(マイナス千二百点)。
未来のスーパーコンピューターが弾き出した結論は、無慈悲な「打開不能」の四文字だった。
(隙が……ない……)
清麿は膝の上の拳を固く握りしめ、額から滲み出る汗をじっと耐えた。
久保田の指し手には、人間の弱さである「焦り」や「欲」が一切存在しない。
相手が罠を張れば、その罠を最も安全かつ最短の手順で解体し、相手が守りを固めれば、一切の無理を侵さず自陣の厚みをミリ単位で増していく。
まるで、将棋という知の深淵そのものが、冷徹な機械の肉体を得て盤の向こうに座っているかのようだった。
持ち時間は、清麿が残り十五分を切っているのに対し、久保田はいまだ一時間以上を残している。
盤面も、時間も、完全に支配されていた。
「――加藤四段、残り十分です」
記録係の硬質な声が落ちる。
二階の控室では、中継モニターを凝視する棋士たちの間に、諦めにも似た重い沈黙が広がっていた。
「……久保田二冠の完封劇ですね」
解説の若手棋士が、息を呑んで首を横に振る。
「加藤四段がこれまで見せてきた変則的な玉寄りも、クサビの歩も、久保田二冠の網の目のような事前研究の前に完全に封殺されている。ここから逆転する筋なんて、現代のAIの何億局面という演算の中にも存在しませんよ」
「ええ……」
神崎澪は手帳を抱きしめる指を震わせ、祈るように画面を見つめていた。
「これが、現役二冠の絶対防壁……。オールドルーキーの奇跡も、ここまでなのかしら……」
対局室の静寂の中、久保田聡二冠が、冷え切った双眸をわずかに持ち上げた。
「加藤さん」
抑揚のない、平坦な声だった。
「あなたの将棋は素晴らしい。過去のデータに囚われない柔軟な発想、そして泥臭い踏み込み。……ですが、将棋は確率と精度のゲームです。感情で盤上の数式を書き換えることはできません。あなたの負け筋は、すでに十通り以上確定しています」
冷酷な宣告。
盤上の真理を極めた者だけが口にできる、絶対の客観性。
かつての清麿なら、その言葉に心を折られ、深い絶望の闇へと沈んでいたかもしれない。
――しかし。
加藤清麿の唇の端が、不意に、小さく吊り上がった。
「……久保田先生」
清麿の声は掠れていたが、その奥底には、煮えたぎるマグマのような熱気が宿っていた。
「確かに、将棋は数式かもしれません。……でも、駒を動かしているのは、血の通った人間なんですよ」
「何……?」
久保田の眉が、わずかにピクリと動いた。
「あなたの計算は完璧だ。AIが示す最善手、最短の勝ち筋……どれも寸分の狂いもない。……だけど、先生のその計算は、『相手も合理的な最善手を指してくる』という前提の上に成り立っているんじゃないですか?」
清麿は目を閉じ、深く息を吐き出した。
脳裏に浮かび上がるのは、今朝、六畳間で和令が作ってくれた、あのチーズ入りの厚焼き玉子の味だった。
『三百年分の借金が消えた今、あんたが藤堂竜将を引きずり下ろす歴史を創るための、全力全開の先行投資よ!』
そして、これまで盤を挟んできた化け物たちの姿――矢野の老獪な毒、星野の理屈を超えた野生、山岸の魂を軋ませる重量、成瀬の執念、桐生の知性の光。
彼らは全員、機械の計算になど収まらない、剥き出しの命を削って盤上に座っていたのだ。
(未来のデータがゼロを示しているなら……俺自身の命を燃やして、新しい数字を盤上に刻み込んでやる!)
清麿はカッと目を見開いた。
その瞳の奥に宿っていたのは、恐怖でも絶望でもない――獲物の喉笛を食いちぎる瞬間の、野獣の獰猛な光だった。
「――五十秒、一、二、三……!」
記録係が秒読みを告げた瞬間、清麿の右手が盤上へ振り下ろされた。
――ズドォォォォンッ!!
特別対局室の床板を芯から揺るがす、凄まじい衝撃音。
清麿が放ったのは、三百年後の定跡アーカイブの推奨手でも、手堅い受けの手でもなかった。
自陣の最も堅固な守備駒であるはずの『金』を、久保田の飛車の利きが直通するド真ん中へと、何の見返りもなく無造作に叩き落としたのだ!
完全なる、金のタダ捨て。
「…………なっ!?」
久保田聡二冠の表情から、生まれて初めて「平坦さ」が剥ぎ取られた。
氷の彫像のようだった青年の双眸が、驚愕に見開かれる。
「金を……捨てる……!? 何の意味がある……!? ただの自滅だ!」
久保田の脳内で、凄まじい速度の計算処理が火花を散らした。
金を取れば、先手陣の守りは完全に崩壊する。どう見ても後手の勝勢が決定づけられる一手。
久保田の指先が、迷いなくその金を払った。
「同飛!」
――バシィッ!
その瞬間だった。
加藤清麿の右手が、間髪を入れずに閃いた。
――バチィィィンッ!!
清麿が放ったのは、金を取るために中央へ飛び出してきた久保田の飛車の背後――自陣の奥深くへ、一枚の『桂馬』を跳ね上げる一手だった。
「…………っ!?」
久保田の呼吸が、喉の奥で詰まった。
指先が、扇子の上でガタガタと震え出す。
(……消えた……?)
久保田の脳内の計算機が、激しい警報を鳴らし始めた。
金を捨てて飛車を中央におびき寄せたことで、久保田の飛車は確かに大駒として成る権利を得た。
しかし――その飛車自身が邪魔立てとなり、後手陣の最も強力な防波堤だった角の斜めの利きが、完全に自陣の飛車によって遮断されていたのだ。
さらに、清麿が跳ね上げた桂馬。
その桂馬の跳躍ルートの先には、先ほどまで鉄壁を誇っていた久保田の玉の退路が、ぽっかりと「一マス」だけ、無防備に口を開けていた。
「嘘だろ……!?」
控室の中継モニターの前で、若手棋士が叫んだ。
「AIの評価値が……先手に急激に戻っている! マイナス千点から、一気にプラス五百点まで跳ね上がったぞ!」
「計算機の盲点だ……!」
桐生彰吾八段が、震える手で眼鏡を外して立ち上がった。
「金を捨てて相手の大駒を前進させ、その大駒で相手自身の視界を塞ぐ……。現代の将棋ソフトは、自ら大損をする手順を初期段階で枝刈りしてしまう。加藤四段は、AIの計算機が絶対に読まない『論理の死角』を、自らの生身の勝負勘だけで見つけ出したんだ!」
対局室の盤上は、一瞬にして修羅の戦場と化していた。
久保田聡の額から、大粒の脂汗がボタボタと青畳の上に滴り落ちる。
「く……っ、そ……! こんな……こんな非論理的な手が……成立するはずがない……!」
絶対零度の精密機械が、初めて感情を剥き出しにして呻いた。
持ち時間は、いつの間にか久保田も使い果たし、秒読みのカウントが両者を無慈悲に急かす。
久保田は必死に受けの手を探したが、盤上の景色はすでに清麿の支配下にあった。
清麿の猛攻が、火を噴いた。
――ズドンッ!
角を敵陣へ叩き込む。
――バシィッ!
歩を垂らして、久保田の玉を中段へと引きずり出す。
三百年後の知識ではない。
四年間の挫折、泥水を啜った日々、そして相棒とともに築き上げてきた、生身の魂の連打。
百二十八手目。
清麿は手元に残っていた最後の一枚の銀を、久保田の玉の退路を断つ急所へと、万感の思いを込めて打ち下ろした。
――パチリ。
静寂を貫く、あまりにも澄み切った駒音。
王手。
逃げ場なし。
完全なる、即詰み。
「…………」
対局室から、すべての音が消え去った。
久保田聡王将は盤上に両手をついたまま、微動だにしなくなった。
その背中が、激しく上下している。
やがて、深く、長い溜息とともに、二十七歳の若き二冠は畳に額を擦りつけるようにして頭を下げた。
「……参り、ました」
百二十八手。
棋王戦・挑戦者決定二番勝負、第一局。
現代の精密機械と呼ばれた現役二冠・久保田聡が、新四段・加藤清麿の放った魂の熱量の前に、完全に屈服した瞬間だった。
「……ありがとうございました」
清麿もまた、深く一礼を返した。
その瞬間、全身の筋肉から熱い汗が噴き出し、胸の奥底から込み上げる熱い塊が視界を激しく潤ませた。
勝ったのだ。
現役タイトルホルダーを相手に、第一局を先勝した。
絶対王者・藤堂晃司竜将が待つ頂の舞台まで――あと、たったの「一勝」。
顔を上げた久保田二冠は、乱れた前髪を払い、赤く充血した瞳で清麿をじっと見つめた。
その顔から、冷徹な機械の表情は完全に消え去っていた。
そこにあったのは、一人の敗れた勝負師としての、剥き出しの悔しさと、深い畏敬だった。
「……加藤さん。私の完敗です」
「久保田先生……」
「盤上の数式を、あなたの熱量で完全に狂わされました。……ですが、これは二番勝負です。次は、私がすべてを修正してあなたを倒しにいきます」
久保田の双眸に、本物の炎が宿っていた。
「……受けて立ちます」
清麿は力強く頷き、再び深々と頭を下げた。
*
深夜、激闘の取材をすべて終えて将棋会館の外へ出ると、千駄ヶ谷の夜空には澄み切った初夏の風が吹き抜けていた。
通りを渡り、鳩森八幡宮の境内へと足を踏み入れる。
新緑の若葉がざわめく大銀杏の木の下、古びた木製ベンチの前に、銀と藍色のサマージャケットを着た少女が立っていた。
加藤和令。
彼女は両腕を組み、夜風に長い黒髪をなびかせながら、じっと清麿を待っていた。
清麿の足音が近づくと、和令はスッと顔を上げ、ツンと顎を反らせて鼻から大きく息を噴き出した。
「……遅いわよ、雑魚先祖」
いつもの、聞き慣れた生意気な声。
「百二十八手なんて、心臓に悪すぎるのよ。スマホの速報画面を見すぎて、私の網膜ディスプレイの素子が三つ焼き切れたわよ」
「悪かったよ。……でも、勝ったぞ、和令」
清麿は和令の前で立ち止まり、夜空を見上げて力強く拳を握りしめた。
「久保田二冠に勝った。……挑戦者決定二番勝負、第一局をもぎ取ったぞ!」
和令は何も言わなかった。
ツンと横を向いたまま、ぎゅっと唇を噛み締めている。
だが、街灯に照らし出されたその大きな瞳には、キラキラと大粒の涙が盛り上がり、今にも零れ落ちそうになっていた。
「……ふん! 当たり前でしょ! 朝から特製チーズ玉子焼きを投入したんだから、勝たなきゃ承知しないわよ!」
「玉子焼きのおかげかよ。……でも、本当にありがとうな、和令」
「へ、変に素直に感謝するんじゃないわよ、気味が悪い!」
和令は顔を真っ赤にしてそっぽを向くと、ポケットから透明端末を引き抜いた。
「いい、清麿!? 浮かれてる暇なんて一秒もないわよ! あと一勝……あと一勝すれば、いよいよ藤堂晃司竜将との五番勝負なのよ!」
「ああ。分かってる」
清麿は夜空に浮かぶ月を見上げた。
絶対王者への階段。
修羅の本戦トーナメントの頂点が、すぐ手の届くところまで迫っていた。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




