EP 8
『現役二冠・久保田聡の冷徹』
四月に入った千駄ヶ谷は、桜の季節を終えて柔らかな新緑の若葉が木々を瑞々しく覆い、初夏を思わせる爽やかな風が鳩森八幡宮の杜を吹き抜けていた。
木造アパートの六畳間に差し込む朝の光は、冬の硬さを完全に脱ぎ捨て、青々とした光の筋となって擦り切れた畳を照らしている。
加藤清麿は、ちゃぶ台の前に正座し、アイロンをきっちりと当てた漆黒のスーツの袖口に視線を落としていた。
胸ポケットに収められた、四段の黒革の棋士手帳。
その重みは、三ヶ月前のデビュー戦の時よりも、遥かに深く、確かな質量をもって清麿の心臓を鼓動させていた。
本日行われるのは、第五十期棋王戦・挑戦者決定二番勝負、第一局。
A級の重戦車・山岸征四郎九段を破り、復讐に燃える前棋王・成瀬仁九段の包囲網を爆破し、そして恩人である知性の巨人・桐生彰吾八段との死闘を制して、ここまで辿り着いた。
アマチュアからプロへ編入した三十一歳の男が、公式戦の頂点を決めるタイトル挑戦権の、最後の関門に立っている。
スマートフォンを開くと、大手ニュースサイトの将棋欄には、かつてないほど巨大な見出しが踊っていた。
『【歴史的一戦】加藤清麿四段、タイトル挑戦へ王手なるか!』
『棋王戦挑戦者決定二番勝負・第一局:久保田聡王将(二冠) vs 新四段・加藤清麿』
『現役最年少タイトルホルダーの絶対防壁か、奇跡のオールドルーキーの進撃か』
掲示板の実況スレッドは、開始数時間前から秒刻みで加速している。
『新四段が棋王戦の挑決まで来るなんて、昭和も含めて前代未聞だろ』
『山岸、成瀬、桐生をなぎ倒してきた加藤の地力は本物』
『だが相手は久保田二冠だぞ。二十七歳にして王将と棋聖を保持する、現代のツートップの一角だ』
『藤堂竜将五冠に唯一対抗できているのが久保田王将。さすがに四段が勝てる相手じゃない』
世間の熱狂と冷徹な分析が入り混じる画面を静かに閉じ、清麿は深く息を吐き出した。
久保田聡王将、二十七歳。
七大タイトルのうち五冠を独占する絶対王者・藤堂晃司竜将に対し、残る二つの冠をその剛腕で捥ぎ取り、棋界の二強として君臨する若き怪物。
棋風は「絶対零度の精密機械」。
いかなる難局にあっても感情を一切交えず、現代AIの評価値をそのまま盤上に具現化するかのような、冷徹無比な正確無比さで相手を圧殺する。
この二番勝負を制すれば、千駄ヶ谷の頂点に座す藤堂竜将との五番勝負への扉が開く。
恐怖がないと言えば嘘になる。だが、今の清麿の胸を満たしていたのは、かつてないほどの澄み切った闘志だった。
「……ちょっと。朝からスマホを拝み倒して、何のお地蔵様気取りよ、雑魚先祖」
台所の方から、アルミ鍋の蓋をカチャリと小気味よく鳴らしながら、容赦のない甲高い声が飛んできた。
銀と藍色のライダースーツの袖をたくし上げ、千代の花柄エプロンをきゅっと腰に巻いた和令が、湯気を立てる盆を両手で持って入ってくる。
「お地蔵様じゃない。……集中力を高めてたんだよ」
「嘘おっしゃい。顔の筋肉が緊張で一ミリ引き攣って、口角がだらしなく下がってたわよ。『いよいよタイトル挑戦が見えてきた俺、マジで歴史の特異点』って毛穴から自惚れ蒸気が出かかってたわ」
「自惚れ蒸気なんて出してない! 少しは身が引き締まる思い配分があってもいいだろ!」
「引き締めるのは気合じゃなくて、ネクタイの結び目よ! 第一局で日和ったら、二番勝負なんて一瞬で吹き飛ばされるんだからね!」
「日和るわけないだろ! ここまで来て、一歩でも引く気なんて微塵もないよ!」
「言ったわね! なら、この最高峰のエネルギーを胃袋に叩き込みなさい!」
ドン、とちゃぶ台の中央に置かれた盆を見て、清麿は息を呑んだ。
熱々の豚汁、スーパーの見切り品のキャベツとトマトのサラダ、そして――皿の上でこんがりと香ばしく焼き上げられた、見事な厚みのある「チーズ入り厚焼き玉子」だった。
箸を入れると、中からとろりと濃厚なチーズと半熟の黄身が溢れ出している。
「……おい、和令。これ……卵を何個使ったんだ?」
「三個よ! 一個二十円の超高級資源を三個、さらに特売のとろけるチーズまで惜しみなく投入した、三百年後の決戦用ハイカロリー・プロトコルよ!」
「三個にチーズまで……! 昨日の緊縮財政はどこへ行ったんだよ!」
「挑戦者決定戦よ! 相手は現役二冠の久保田聡よ! 出し惜しみしてる場合じゃないでしょ! 私の三百年分の借金が消えた今、あんたが藤堂竜将を引きずり下ろす歴史を創るための、全力全開の先行投資よ!」
「先行投資か……。相変わらずシビアだけど、本当にありがたいよ。いただきます!」
「ふん! 感謝するなら味わってないで、素早くブドウ糖と脂質を前頭葉に送り込みなさい! 久保田の精密機械に脳みそをショートさせられて負けて帰ってきたら、今夜は生卵の殻を噛み砕かせる刑だからね!」
「その刑罰だけは絶対に嫌だ! 勝って帰ってくる!」
清麿は箸を取り、熱々のチーズ玉子焼きを白米とともに口に運んだ。
チーズのコクと出汁の利いた卵の甘みが爆発し、豚汁の温もりが冷えた五臓六腑を熱く滾らせていく。
和令は小さく鼻を鳴らすと、腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜き、空中に青白い立体ホログラムを展開した。
「食べながら聞きなさい、清麿。久保田聡二冠の直近の対局データよ」
空中に浮かび上がったのは、感情の一切を削ぎ落としたような、剃刀のように鋭利な青年の顔写真だった。
「久保田聡はね、現代の将棋界で最も『隙がない』棋士よ。桐生八段のような研究の深さ、山岸九段のような重量、星野蓮のような野生の直感……そのすべてを高い次元で平均化し、AIの最適解と完全に同調させてるわ」
「AIと完全に同調しているのか」
「そうよ。感情のブレがゼロなの。悪手を指さない、疑問手を指さない、相手の罠には絶対に引っかからない。盤上の四十枚の駒を、ただの計算機のように冷徹に動かして、気づいた時には相手の呼吸を止めてる……まさに『氷の精密機械』よ」
和令の眼差しが、かつてないほどの冷徹な真剣さを帯びた。
「いい、清麿? 三百年後の定跡アーカイブの奇襲なんて、こいつには通用しないわ。相手のミスを期待する将棋は一瞬で咎められる。……あんたがこれまで培ってきた『泥臭い踏み込み』と『未来の定跡』を極限まで研ぎ澄ませて、相手の計算の限界を超えさせるしかないわよ!」
「……ああ。やってやる!」
清麿は力強く頷き、最後のご飯を一気にかき込んだ。
背中を手のひらでバチンと力任せに叩かれ、心地よい激痛を胸に宿して、千駄ヶ谷の決戦場へと歩み出した。
午前九時四十分。
日本将棋会館・四階、特別対局室。
重厚な襖を開けて入室した瞬間、清麿の皮膚を粟立たせるような、張り詰めた冷気が肌を打った。
上座には、すでに久保田聡王将が座していた。
黒のスーツに身を包み、背筋を定規で引いたように真っ直ぐに伸ばしている。
彫りの深い顔立ち、氷のように透き通った双眸。
扇子を弄ぶこともなく、膝の上に置かれた指先は微動だにしない。
部屋に入ってきた清麿に視線を向けることもなく、ただ静かに、本榧の盤上の一点を見つめている。
威圧感や殺気といった感情の熱狂が、そこには一切存在しなかった。
ただ、絶対零度の静寂だけが、部屋の空気を凍りつかせていた。
清麿が下座に進み、座布団の上に正座して深々と頭を下げる。
「加藤さんですね」
久保田の声は平坦で、機械の音声のように起伏がなかった。
「あなたの棋譜、すべて精査しました。予選での時限爆弾、星野戦での玉寄り、そして桐生戦での自陣破壊……実に興味深いイレギュラーなデータです」
「……」
「ですが、盤上の真理は確率と最適解の集積です。特異な新手や感情の昂ぶりで、計算の限界を突破することはできない。……淡々と、最善を尽くさせていただきます」
悪意も敵意もない。
ただ、己の知性と計算に対する絶対の確信。
清麿の背筋が、ピシリと伸びた。
(計算の限界、か……。なら、その計算ごと、盤上で突き破ってみせる)
「よろしくお願いいたします」
「定刻となりました。第五十期棋王戦挑戦者決定二番勝負・第一局を開始してください」
記録係の声が凛と響き渡る。
振り駒の結果、清麿の先手、久保田の後手番と決まった。
清麿は指先に全神経を集中させ、初手を放った。
――バシィッ!
▲7六歩。
久保田も間髪を入れずに応じる。
――パシッ。
△8四歩。
局面は、互いに飛車先を突き合う、現代将棋の最高峰の激戦区――『相掛かり』へと進展していった。
序盤の三十手、久保田の手つきにはコンマ一秒の躊躇もなかった。
カチリ、パチリと、一定のリズムで盤上に打ち込まれる駒音。
清麿が三百年後の完全定跡アーカイブから、相手の研究を外すための変則的な間合いの調整を繰り出しても、久保田は表情ひとつ変えず、寸分の狂いもない最短の最適解を即座に返してくる。
感情のない、冷徹無比な壁。
午後を回り、二階の控室。
中継モニターを見つめる棋士たちと、神崎澪の間で、息を呑むような会話が交わされていた。
「……久保田二冠、完璧だ」
解説の若手棋士が、青ざめた顔でモニターを見つめる。
「加藤四段が仕掛けるあらゆる揺さぶりを、AIの推奨手順通りにミリ単位で迎撃している。消費時間も久保田二冠はまだ三十分も使っていない。まるで、将棋AIそのものと盤を挟んでいるような息苦しさだぞ」
「ええ……」
神崎澪は手帳を強く握りしめ、画面の中の清麿を見つめていた。
「情念や野生で戦ってきた相手とは、まるで質が違う。加藤四段、この絶対零度の計算機を前に、どうやって血を通わせるのかしら……」
夕刻、六十手を迎えた局面。
対局室の静寂の中、後手の久保田聡二冠が、手元の銀を静かに前線へと滑り込ませてきた。
――パチリ。
音すらないような、滑らかな着手。
だが、その一手は、清麿が密かに組み上げていた時限爆弾の導火線を、ミリ単位の誤差もなく冷酷に断ち切る、完全無欠の「防壁」だった。
(……完璧だ)
清麿の背筋を、冷たい氷水が流れ落ちた。
三百年後の完全定跡アーカイブの画面が、脳裏で静かに『互角:打開の手がかりなし』の文字を点滅させる。
一切の隙がない。
攻めようとすれば跳ね返され、受けに回ればじわじわと形勢の針を削り取られる。
盤の向こうで、久保田二冠の冷たい瞳が、静かに清麿を捉えた。
(あなたのデータは、ここで終了です)
無言の宣告が、盤上から凍てつく吹雪のように押し寄せてくる。
絶対王者への最後の関門。
三十一歳のオールドルーキーは、いま、棋界最強の精密機械が張り巡らせた、完全なる氷の迷宮の前に立たされていた。
読んでいただきありがとうございます。
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