EP 7
『鏡を越えた先にある光』
特別対局室の青畳を焦がすような、凄まじい緊迫感が満ちていた。
午後八時を回り、室内の空気は両者の荒い息遣いと、盤を激しく叩く乾いた駒音によって沸騰していた。
――ズドォォンッ!!
桐生彰吾八段が放ったのは、先手陣の薄くなった玉頭へ直接突き刺さる、飛車の成り込みだった。
銀縁眼鏡の奥の瞳は、普段の知性派の仮面をかなぐり捨て、血走った勝負師の執念で燃え盛っている。
自陣の囲いを自ら崩し、角の射線を通してきた清麿の狂気に対し、桐生は持てるすべての知性と読みの深さを注ぎ込み、最短の寄せで清麿の玉を屠りにきていた。
――バシィッ!
桂馬を跳ねて退路を封鎖。
――パシッ!
歩を叩いて玉を吊り上げる。
一秒間に何千万局面もの未来を処理するスーパーコンピューターすら凌駕するような、人間・桐生彰吾の魂の踏み込み。
「――三十秒……四十秒……五十秒、一、二……」
記録係の冷徹な秒読みが、無慈悲にカウントを刻む。
二階の控室では、モニターを凝視する棋士たちが総立ちのまま息を呑んでいた。
「桐生八段の猛攻、受かるのかこれ!?」
「評価値は完全にゼロ、五対五のサドンデスだ! どちらかが一手でも読み違えれば、その瞬間に即死する!」
神崎澪は手帳を抱きしめたまま、祈るように画面の中の清麿を見つめていた。
三十一歳の新四段と、現代最高峰のA級棋士。
知恵比べの序盤を超え、盤上は泥まみれの命の削り合いへと突入していた。
(……痛い。息が、苦しい……!)
清麿の脳内将棋盤が、凄まじい摩擦熱を上げて軋んでいた。
額から大粒の汗がボタボタと畳に落ちる。
桐生の手順は、寸分の狂いもない。
清麿の玉は裸同然に剥ぎ取られ、四方八方から敵の駒の刃が喉元へと迫っていた。
一手間違えれば、即座に奈落の底へ叩き落とされる。
恐怖が、冷たい毒のように背筋を駆け上がる。
だが――その暗闇の中で、清麿の指先は微動だにしなかった。
(見える……。桐生先生の刃が、どこを通ってどこへ向かっているのか……全部、見える!)
脳裏に去来するのは、これまで戦ってきたすべての棋士たちの顔だった。
北条の鉄壁、相良の正攻法、高杉の執念、矢野の毒、星野の野生、山岸の重量、成瀬の復讐――。
そのすべての修羅場を、泥水を啜りながら自分の足で越えてきたのだ。
そして何より、自陣の銀を中央へ投げ出したあの五十手目。
自らの城を破壊してまで切り拓いた、あの一筋の光の筋が、今、盤上で眩いばかりの答えを照らし出していた。
「――五十秒、一、二、三、四……!」
記録係が「八」を数えた瞬間、清麿の右手が滑らかに伸びた。
――パチリ。
清麿が指したのは、逃げ惑う手ではなかった。
中央へ進出させていた自らの銀の背後へ、自玉をスッと滑り込ませる、絶妙な「玉寄り」だった。
「…………っ!?」
桐生彰吾の呼吸が、音を立てて止まった。
銀が、盾になっている。
自陣の囲いを壊す大悪手に見えたあの中央の銀が、この終盤の極限において、桐生の竜の直撃を完璧に逸らす「不沈の防波堤」として機能していたのだ。
竜の利きが止まる。
王手が、続かない。
桐生の喉から、掠れた声が漏れ出た。
「……そこまで、読まれていたのか……」
桐生の指先が、扇子の上でカチリと震えた。
知性の巨人が張り巡らせたすべての網を、清麿は自らの肉体を切り裂くことで、完全にすり抜けていた。
そして――清麿の番だった。
「桐生先生」
清麿は顔を上げ、澄み切った瞳で恩人の目を真っ直ぐに見据えた。
「ありがとうございました」
清麿の右手が、最後の引導を渡すために振り下ろされた。
――ズドォォォォンッ!!
特別対局室の空気を震わせる、重厚な駒音。
五十手目に通した、あの自陣の角。
遮るもののなくなった斜めの射線が、桐生陣の急所へ、光の矢となって突き刺さった!
――バシィッ!
金を捨てて玉を誘い出す。
――パシッ。
桂馬を叩きつけて退路を断つ。
三百年後の完全定跡アーカイブすら描けなかった、生身の魂が生み出した最短・不抜の寄せ筋。
百二十手目。
清麿は手元に残っていた一枚の銀を、桐生の玉の頭上へと、そっと静かに打ち下ろした。
――パチリ。
王手。
合駒利かず。
逃げ場なしの、完全なる即詰み。
「…………」
対局室から、すべての音が消え去った。
桐生彰吾八段は、盤上に両手を落としたまま、静かに目を閉じた。
銀縁眼鏡の奥から、ツッと一筋の汗が頬を伝い落ちる。
やがて、深く、長い息を吐き出すと、桐生は畳に額を擦りつけるようにして頭を下げた。
「……参り、ました」
百二十手。
棋王戦本戦トーナメント準決勝。
現代将棋界の最高峰の知性・桐生彰吾八段が、新四段・加藤清麿の前に、堂々たる完敗を認めた瞬間だった。
「……ありがとうございました」
清麿もまた、畳に額をつけて深く頭を下げた。
全身の毛穴から熱い汗が噴き出し、胸の奥底から込み上げる感情で視界が激しく滲む。
勝ったのだ。
自分を導き、育ててくれた恩人を相手に、小細工も嘘もない、自らの持てるすべての将棋をぶつけて勝ち切った。
顔を上げた桐生は、眼鏡を外して目元を拭うと、穏やかで、どこか誇らしげな笑みを清麿に向けた。
「……加藤さん。完敗です」
「桐生先生……」
「五十手目の銀、そしてあの玉寄り……実に見事でした。私の頭脳とAIが作り上げた論理の結晶を、あなた自身の生身の読みで粉砕された。……鳥肌が立ちましたよ」
桐生の手が、盤を挟んで清麿の肩へと力強く置かれた。
「あなたはもう、誰かの背中を追う存在ではない。自らの手で盤上に新しい時代を創り出す、本物の勝負師です。……行ってきなさい、加藤四段。決勝の舞台へ」
「……はい! 本当に……ありがとうございました!」
恩人からの最高の賛辞を胸に、清麿は深々と一礼を返した。
*
深夜、激闘の余韻に包まれた将棋会館の外へ出ると、千駄ヶ谷の夜空には満開の桜が街灯の光に照らされて幻想的に浮かび上がっていた。
通りを渡り、鳩森八幡宮の境内へと足を踏み入れる。
参道の木漏れ日ならぬ花漏れ日の下、古びた木製ベンチの前に、銀と藍色のサマージャケットを着た少女が立っていた。
加藤和令。
彼女は両腕を組み、夜風に舞い散る花びらを浴びながら、じっと清麿を待っていた。
清麿の足音が近づくと、和令はスッと顔を上げ、ツンと顎を反らせて鼻から大きく息を噴き出した。
「……遅いわよ、雑魚先祖」
いつもの、聞き慣れた生意気な声。
「百二十手なんて、手こずりすぎよ。待ちくたびれて、夜桜の花びらが頭に三枚も積もっちゃったじゃないの」
「悪かったよ。……でも、勝ったぞ、和令」
清麿は和令の前まで歩み寄り、夜空を見上げて深く息を吸い込んだ。
「桐生先生に……勝った。本戦の決勝――挑戦者決定二番勝負に、進出したぞ」
和令は何も言わなかった。
ツンと横を向いたまま、ぎゅっと唇を噛み締めている。
だが、街灯に照らし出されたその大きな瞳には、ポロポロと大粒の涙が溢れ出し、薄紅色の花びらのように頬を濡らしていた。
「……バカ先祖」
掠れた、震える声だった。
「当たり前でしょ……! 朝からスコッチエッグを作ってあげたんだから……勝たなきゃ承知しないわよ……ッ!」
和令は袖口で乱暴に目を拭うと、腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜き、空中に青白い立体ホログラムを展開した。
「泣いてる暇なんてないわよ! 本戦のもう一つの山……決勝で戦う相手が決まったわ!」
空中に浮かび上がったのは、冷徹な光を放つ若きトッププロの顔写真だった。
『棋王戦・挑戦者決定二番勝負』
『加藤清麿四段 対 久保田聡王将(二冠)』
現役タイトルホルダー、棋界最強の一角を占める二十代の若き王者。
この二番勝負を制した者が、千駄ヶ谷の頂点に君臨する絶対王者・藤堂晃司竜将(五冠)への挑戦権を手にするのだ。
「久保田王将……。本物のタイトルホルダーか」
清麿の胸に、かつてないほどの熱い闘志が満ちていく。
「そうよ! ここを勝てば、いよいよ藤堂竜将との五番勝負よ!」
和令は涙を拭い去り、ニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。
「全員が化け物のプロの世界……その頂点まで、あと一歩よ! 歴史をぶち壊して、駆け上がりなさい、清麿!」
「ああ! どこまでも行ってやる!」
満開の夜桜が舞い散る千駄ヶ谷の空の下、二人の誓いが力強く夜気に溶け込んでいった。
三十一歳のオールドルーキー・加藤清麿四段の、絶対王者への扉をこじ開けるための最後の死闘が、いま幕を開けようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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