EP 5
『反撃の狼煙、千駄ヶ谷の朝』
箱根での激闘から二週間が過ぎ、五月下旬の千駄ヶ谷には、初夏の力強い日差しが照りつけていた。
鳩森八幡宮の境内を埋め尽くす欅や銀杏の葉は深緑へと色濃く変わり、参道を吹き抜ける風には、舗道のアスファルトが放つ乾いた熱気が微かに混ざり始めている。
築四十年の木造アパート、六畳間。
加藤清麿は、ちゃぶ台の前に正座し、漆黒のスーツのネクタイをゆっくりと締め上げていた。
本日行われるのは、第五十期棋王戦五番勝負・第二局。
舞台は、箱根の温泉旅館から一転し、清麿にとって勝手知ったる戦場――東京・千駄ヶ谷の日本将棋会館へと戻ってきた。
第一局、箱根での敗北の感触は、今も清麿の指先に生々しく刻み込まれていた。
持てるすべてをぶつけ、端からの濁流で藤堂玉の喉元まで迫りながら、最後はたった一枚の神がかり的な香車引きによって、一手差で谷底へと突き落とされた。
タイトル戦の厳しさを、身をもって思い知らされた一敗。
だが、その敗北は清麿の心を折るどころか、胸の奥底にくすぶっていた勝負師の血を、かつてないほど激しく沸騰させていた。
スマホの画面には、将棋ニュースの無情な見出しが並んでいる。
『【棋王戦第二局】五冠王・藤堂晃司、連勝で防衛に王手をかけるか!』
『挑戦者・加藤清麿四段、正念場の後手番! 絶対王者の先手勝率は驚異の九割三分』
『箱根の惜敗を跳ね返せるか、それとも五冠の壁がオールドルーキーを呑み込むか』
タイトル戦五番勝負において、初戦を落とした挑戦者が連敗すれば、勝率は一桁台まで暴落する。
しかも、今日の第二局は――藤堂晃司の「先手番」だった。
現代将棋において、先手番の有利さは誰もが知るところだが、藤堂晃司が先手番を握った時の勝率は、もはやオカルトの領域に達していた。
主導権を握った藤堂は、一切の無理攻めをせず、相手の反撃の芽をあらかじめすべて摘み取りながら、盤上のすべての駒を光り輝かせて勝利を掴み取る。
千駄ヶ谷のプロたちが「触れてはならない不可侵の聖域」と恐れる、藤堂の先手番。
その巨大な嵐の中へ、清麿は後手番として飛び込んでいかなければならないのだ。
「……ちょっと。朝からネクタイの結び目を十回も締め直して、何の遺言状作成プロトコルよ、雑魚先祖」
背後の台所から、アルミ鍋の蓋をカチャリと小気味よく鳴らしながら、聞き慣れた容赦のない甲高い声が飛んできた。
銀と藍色のライダースーツの袖をたくし上げ、千代の花柄エプロンをきゅっと腰に巻いた和令が、湯気をもうもうと立ち上らせる大きな皿を両手で持って入ってくる。
「遺言状じゃない。……襟元の気合を入れ直してたんだよ」
「入れ直すのは結構だけど、顔の毛穴から『先手番の藤堂怖すぎワロエナイ』っていう弱気フェロモンが駄々漏れなのよ! 換気扇のセンサーが危険物質として感知してんじゃないわよ!」
「弱気フェロモンなんて出してない! 少しは警戒心配分を高めておかないと、初手から首を刎ねられる相手だろ!」
「初手で首を刎ねられるタマなら、最初から箱根で百二十四手も粘れてないでしょ! ほら、突っ立ってないで手を合わせなさい! 三百年後の加藤家が持てる、最高出力の決戦用炭水化物よ!」
ドン、とちゃぶ台の中央に置かれた平皿を見て、清麿は目を丸くした。
大皿の中央にこんもりと盛られていたのは、見事な黄金色のドームを描く、特製の「とろとろ天津飯」だった。
艶やかな甘酢醤油あんが琥珀色に輝き、カニカマと椎茸、そして刻みネギが彩りを添え、食欲をそそる芳醇な湯気が立ち上っている。
「……おい、和令。これ……」
「見れば分かるでしょ! 特製・天津飯よ! 一個二十円の超高級資源を丸ごと三個、さらにナノ加熱で卵白の熱変性を極限までコントロールして、ベルベットのような舌触りを実現した、第二局専用の極限集中プロトコルよ!」
「三個も……! 箱根から帰ってきても、卵の超特大先行投資が続いてるじゃないか」
「当たり前でしょ! 今日負けたらカド番に追い込まれるのよ! 私の三百年後の借金消滅どころか、あんたの棋士生命の黄金期がここでポッキリ折れちゃうじゃないの! ここで出し惜しみしてどうすんのよ!」
和令は仁王立ちしてツンと顎を反らせると、人差し指をピシッと清麿へ突きつけた。
「いい、清麿? 藤堂晃司の先手番はね、三百年後の教科書にも『絶対不可侵の神域』って載ってるわ。相手が主導権を握った時の藤堂は、ミスを一切犯さない完璧な美しさで相手を圧殺するのよ」
「ああ……知ってるよ。プロなら誰もが知る絶望だ」
「でもね! 完璧だからこそ、歪みを嫌うのよ!」
和令の瞳の奥で、青白い炎がメラメラと燃え上がった。
「箱根の第一局を思い出してごらんなさい! あんたが端から泥水をぶちまけた時、あの神様は一瞬、息を呑んで動揺したでしょ! 相手が美しい調和を目指すなら、こちとらは盤面全体に泥と執念を塗りたくって、相手の計算を根底からバグらせてやるのよ!」
「泥と執念で……バグらせるか」
「そうよ! 生身の人間同士の殴り合いなら、泥臭く這いつくばってきたあんたに分があるわ! ほら、五分で胃袋に流し込みなさい!」
「……任せろ!」
清麿はスプーンを取り、とろとろの卵とあんを白米ごとすくい上げて口に運んだ。
甘酢あんの濃厚なコクと、ふわふわの卵の甘み、そして熱々の米の旨みが爆発し、冷えていた胃袋の底をカッと熱く満たしていく。
五臓六腑を駆け巡る圧倒的なエネルギー。
和令は小さく鼻を鳴らすと、腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜き、空中に青白い立体ホログラムを展開した。
「食べながら頭に叩き込みなさい、清麿。今日の作戦は『パターンF・暗黒流泥沼変化』よ。序盤の早い段階で定跡の幹をへし折って、誰も見たことのない未知の荒野へ藤堂を引きずり込むわよ!」
「……ああ。行ってくる!」
清麿は熱い中華スープを一気に飲み干し、立ち上がった。
背中をバチンと力任せに叩かれ、心地よい激痛を胸に宿して、初夏の風が吹き抜ける千駄ヶ谷の決戦場へと歩み出した。
午前九時四十分。
日本将棋会館・四階、特別対局室。
箱根の離れとは異なる、都会の熱気と無数の報道陣のカメラが醸し出す、独特の重圧が青畳の上に渦巻いていた。
上座には、すでに藤堂晃司五冠が座していた。
純白の羽織に、濃紺の袴。
背筋をスッと自然体に伸ばし、膝の上に置かれた両手は微動だにしない。
第一局を先勝した余裕など微塵もなく、その双眸は、抜身の刀のように鋭利で、透明な光を放っていた。
清麿が入室し、下座の座布団に進み出て深々と頭を下げる。
「加藤さん」
藤堂の声は穏やかだったが、その奥底には、盤上の真理を極めた者だけが放つ、絶対の覇気が満ちていた。
「千駄ヶ谷へようこそ。箱根の夜、君が指したあの端の濁流……今も私の胸の中で熱く渦巻いていますよ」
「恐縮です、藤堂先生」
「今日の私は、先手番です。……君の泥臭い執念を、私のすべてをもって、正面から受け止めさせていただきます」
宣戦布告。
清麿の背筋が、ピシリと伸びた。
(受けて立つ……! あなたのその神域を、今日こそ引きずり下ろしてやる!)
「よろしくお願いいたします」
「定刻となりました。第五十期棋王戦五番勝負・第二局、対局を開始してください」
立会人の声が室内に凛と響き渡る。
第二局の手番は、先手が藤堂晃司五冠、後手が加藤清麿四段。
藤堂晃司の右手が、淀みなく盤上へと伸びた。
――バシィッ!
初手、▲2六歩。
飛車先を突く一手。
ただの一歩の突き出しであるにもかかわらず、盤上の空気が物理的に軋むような、圧倒的な重圧が部屋を満たす。
絶対王者の先手番。
清麿もまた、間髪を入れずに応じる。
――パシッ。
△8四歩。
互いに飛車先を突き合い、角道を開ける。
局面は、第一局と同じく『角換わり』の戦型へと進展していくかに見えた。
――しかし。
十六手を迎えた瞬間、後手の加藤清麿四段の指先が、盤上を斜めに切り裂いた。
――ズドンッ!!
特別対局室の静寂を打ち破る、凄まじい駒音。
清麿が放ったのは、定跡通りの駒組みではなかった。
自陣の角を自ら交換した直後、手に入れた角を敵陣の急所ではなく、自陣の最下段――飛車の真横という、現代の将棋理論では「完全な自縄自縛」とされる位置へ、いきなりガツンと据え付ける、前代未聞の奇手だった!
「…………っ!?」
藤堂晃司の端整な眉が、跳ね上がるようにピクリと動いた。
澄み切っていた双眸に、青白い火花がバチバチと散る。
二階の控室、そしてネット中継の解説陣が、一斉に悲鳴を上げた。
「な、なんだその手は……!? 自陣の飛車の横に角を打ち込むなんて、現代のAIの候補手どころか、江戸時代の定跡書にすら載っていないぞ!」
「評価値が乱高下している! だが……藤堂竜将の手が止まった!」
対局室の空気が、一瞬にして熱いマグマのように沸騰した。
藤堂の美しい先手番の構想を、序盤のわずか十六手で力づくで引き裂き、誰も足を踏み入れたことのない暗黒の荒野へと引きずり込む、魂の一撃。
盤の向こうで、藤堂晃司の唇に、狂気にも似た獰猛な笑みがゆっくりと浮かび上がった。
「……素晴らしい。そうこなくては、加藤さん」
神域の調和を破る、泥沼の反撃。
千駄ヶ谷の青畳の上で、三十一歳のオールドルーキーと絶対王者の、命を削る第二の死闘が、いま壮絶に幕を開けた。
読んでいただきありがとうございます。
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